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妖しい馨  作者: 月猫百歩
紅の屋敷
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二十五ノ怪

 時雨ちゃんが居なくなったあと、どっと疲れが出たのかそのまま畳んだ布団に被さるように眠ってしまった。

 起きた時にはいつの間にか布団に寝かされて机の上には食事が置かれていた。

 

 鬼さんが布団に寝かせてくれたのかしら。そう思いつけば慌てて衣服の乱れを確認する。

 特に体に変化もなければ脱がされた形跡もないことにホッとした。

  

 泥のように深く眠っていたはずなのに、なんだか体がだるい。一日がまだ終わっていない内に色々あったせいか、気分も体も重く感じる。

 

 思い返せば紫さんの告白から始まり、時雨ちゃんに出会ったのも、鬼さんに喰い尽くされる手前までのことも、全部今日一日で起こったことなんだ。なるほど疲れるわけだわ。


 そう言えばお昼はなんだかんだで食べていなかった。

 お腹の虫はわたしより正直で、ぐぅと抗議して食事を催促する。


 のそのそと起き上がり、机の上に置かれている食事を見る。お味噌汁にお刺身、白いご飯、根野菜の煮物。出来立てなのか白い湯気が立ち上り温かい。

 不意に気が緩んだのか、何故だかボロリとまた涙が零れた。

 

 今わたしは悲しいのか嬉しいのか、正直分からなかった。気持ちは重いまま、涙は次から次へと溢れてくる。思った以上に心が疲れているのかもしれない。


 とにかく食べないと。


 意を決して涙を拭うと漆塗りの箸を手にとった。そしてお椀に手を添えると、それがとても温かくて、何故だかまた涙が溢れてきた。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 部屋に飾られている提灯の灯が小さくなり、部屋の灯篭も同じように明かりを小さくさせる。

 夜、鬼さんが来るんじゃないかとビクビクしながらお風呂に入り、籠に戻れば素早く布団の中に逃げ込んだ。


 真夜中の音無の時間。まったく眠れなくて、こういう時に限って睡魔は襲ってこない。しんとした静寂がより神経を研ぎ澄ませる。

 ただ静かさにある程度慣れてくれば、いつもより大きく聞こえる子鬼たちのドタバタと動き回る音が耳に響いてくる。おかげでほんの少し気が紛れた。ごろんと寝返りを打つ。


 鬼さんが来たらどうしよう。

 逃げるに逃げられないし、どうすることも出来ない。


 不安に押し潰されて、体を丸めて小さくなる。

 もういい、眠ってしまおう。考えるだけで疲れてしまう。考えたって仕方がないんだから尚更だ。


 しばらくきつく目を閉じているとそれが功を奏したのか、なんとか眠りにつくことは出来たのだけれど、見る夢見る夢全て悪夢だった。 

 それは妙に現実味を帯びたものだったり、奇想天外な現実離れしたものだったり。

 様々な悪夢に翻弄されて、結局飛び起きた時には眠る前より疲労感が巻きついていた。心身ともに息苦しさを覚えれば、その事実が頭をさらに重くさせていた。


 灯篭を見れば明るい。なんだかずいぶん長く感じたけれど、やっと起きる時間だ。のろのろと布団から出て立ち上がると、目にした物に眉を寄せた。


 机の上に朝食が置かれていたのだ。

 いつもなら鬼さんが持ってきてくれるなり大広間で食べるなりするのに、今日は机の上にあった。


 鬼さんに会わずに済んで都合は良いのだけれど、何かあったのかしら。いつもと違うことが起きると不安になってくる。

 多分そう思うのは少なからず緊張しているんだろう。ほんの少しの違いに、敏感になっている。


 はっと息を吐き出して気を取り直す。だめだ。考え始めると何も動けなくなる。とにかく支度だけでもしないと。


 いつもと同じように、水桶に龍の形を模した小瓶の中身を一滴垂らして水を張る。両手で水をすくい冷たい水で顔を洗えば幾分か気分が良くなった。

 揺れる水面に自分の顔が歪んで映る。……早く朝の支度をして食事をすましてしまおう。




 食事が終わり、お茶をすする。白い籠の向こうにある襖に目を向けても動く気配はない。

 本当に、今日はどうしたって言うんだろう。来ないだなんて。


 別にこういう日がないわけじゃなかった。実際お昼まで放置されるなんてこともあったし、一日顔を見せない日もあった。

 ただ、昨日の一連の流れで姿を見せないとなると、どうしても不信感が否めない。


 ……もしかしたら、時雨ちゃんが何かしてくれているのかしら。時雨ちゃんが裏で動いてくれて、このまま出て行く時間まで鬼さんをひきつけてくれているのかもしれない。


 なんだか、緊張してきた。


 正直なところ、急な成り行きに頭では理解しているけれど、今の今まで実感なんて湧いてこなかった。

 ただなんとなく緊張して、なんとなく言われるがままなところがあったけれど、だんだんとここから逃げ出す現実味が増してきて、さきほどよりも体が強張っていくのを感じる。


 何度目かの溜息を吐いて、湯呑を置いた。

 ここを出る前に整理整頓しよう。そうしたほうが気持ちも整理出来るはずだ。……もうここには、鬼さんの所には戻らないんだから。


 一度目を閉じて、頷くと立ち上がる。

 とにかく動こう。

 

 まずはじめに動きやすい袴姿に着替えて羽織っていたオレンジ色の襦袢を衣紋掛えもんかけに預ける。汚してしまっては忍びないものね。

 それから踵を返し、目に入った布団を手に取り広げてシーツをとる。掛け布団も同じように結わえている箇所を外して梅模様のカバーを取った。

 洗濯はできないけれど、畳んでおくぐらいなら出来る。二つの布団を籠の隅に片付け、その上に四角く畳んだシーツを置いた。


 布団はこれで良い。着物の帯や小物類は箪笥にしまってある。いつも着ていた浴衣も畳んであるし、色とりどりの振袖や羽織は籠の外に蝶のように飾られている。

 だとしたら衣服に関してはこれ以上何か出来ることは無い。


 次に文机ふづくえの引き出しの中身を確認する。

 そうだ。ここから出るなら持っていくものも考えないと。紫陽花の容器と、日記と……あとは何かあるかしら。


 引き出しや箪笥の中は鬼さんがくれた豪華絢爛な物で溢れている。かんざしや帯留め、根付、櫛。どれも宝石や貴金属で作られていて眩く輝いている。

 結局これらも、身につけたのは片手に収まるぐらいの回数しかなかった。勿論どれもこれも持って行く気はない。ただ裸でお屋敷を抜け出すわけにはいかないから、袴だけは貰っていくしかないけれど。

 紫陽花の容器と半紙を紐で綴った日記を手に持つと、わたしは静かに引き出しを閉めた。


 気がつけばもうやることはなくなってしまった。まぁ、それはそうだろう。元々やることがなくて毎日困るほどだったんだから。


 ふと鏡台のそばに置かれていた雪兎が目に入る。


 丸みを帯びた可愛らしいシルエットに後ろにピンと張った緑色の耳。黒いつぶらな瞳。

 これはどうしよう。作ったのはわたしだけれども、材料は全部鬼さんからのものだし。まさかバラバラにして材料に戻す訳にもいかない。困ったわ。


 不意に兎の隣を見れば、いびつな形をしたテディベアと憤怒の形相をした木彫の熊。姿かたちがそれぞれ違う三匹の動物が、横一列に行儀よく陳列していた。

  

 何気なく木彫りの熊の頭を撫でる。ツルツルとした表面は艶やかでよく磨かれていた。乱雑な鬼さんが作ったとは思えないくらい丁寧に仕上がっている。


 今思えば、あの頃が鬼さんと過ごしていて一番穏やかな日々だったのかもしれない。

 例え上辺だけだとしても、憂鬱さを含んだものだとしても、とてものんびりとして平和だった。やり方はともかく、鬼さんもわたしを気遣ってくれて、それこそ穏やかに生活していたんだった。 


 一度思考が止まる。何も考えずに、つるりとした熊の頭を撫でた。

 


 ……鬼さんに正直に話してみようかしら。



 この言葉を数分前の自分が聞いたら「何を馬鹿なことを!」と叫んでいたに違いない。今鬼さんが部屋に来て喰われてしまってもおかしくはないのに何を呑気なことを、と。

 

 ……けれど。けれども。今まで怖くて自分のことばかり考えていたんだけれども。

 乱暴だし意地悪だし、相変わらず大嫌いだけれど。


 鬼さんは鬼さんなりに気遣っていてくれた。姿を現さない日もあったけれど、ご飯も用意してくれてお風呂だって毎日欠かさず行かせてくれた。着るものだって良い物ばかりくれた。

 わたしが約束を破っても、すぐに手を出すようなことはしなかった。

 わたしの身勝手な勘違いかもしれないけれど、この木彫の熊だってわたしがテディベアを作ったのを見て、きっと熊が欲しいんだろうと思ってプレゼントしてくれたのかもしれないし。


 ひとしきり考えて、思いつく。今まで漠然と思っていた事がこの段階になってわたしの胸の内に滲み出す。


 きっとわたしは鬼さんに対して罪悪感を感じている……んだと、思う。

 そうだと言い切れないのは、正直まだ混乱していて自分の気持ちが分からなくなっているからだろう。


 鬼さんに食べられるのは嫌。鬼さんのことはやっぱり好きになれない。

 でも約束をしたのもわたし。破ったのもわたし。そしてさらに破ろうとしているのもわたしだ。 



 本当にこのまま逃げてもいいの?

 絶望一色に包まれた時に、思わず目に飛び込んだ希望に縋ってしまったけれど。本当にこれで良いのかしら。良いと言えるのかしら。


 

 木彫の熊を持ち上げる。ずしりと重い。まるで今の自分の心のようだ。

 助かりたいけれど、約束を破りたくない。鬼さんは嫌いだけれど、裏切るような真似をしたくない。


 そんな埒があかない堂々巡りな考えが頭を占める。

 どれだけ考え込んでいたのか分からないが、気づけばぼんやりと熊を眺めて鏡台の前に座り込んでいた。常闇特有の生ぬるい風が頬を撫でて顔を上げる。


 今は何時なんだろう。もうお昼と言える時間帯になるんだろうか。

 時計もなにもないので確かめるすべはない。そんなに動いていないせいか空腹も感じない。まだお昼ではないのかしら。

 

 その時スッと襖が前触れもなく開いた。そんなに大きな音を立てて開いたわけでもないのに、わたしは飛び上がって思わず手に持っていた熊を胸に抱える。


 のっそりと入ってきたのはお屋敷の主であり、自分の支配者である紅い鬼。こちらを見ず、やや不機嫌そうに眉間に皺を寄せて籠の入口に手をかけた。

 カチャンという乾いた音がいやに大きく、耳にこだました。








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