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妖しい馨  作者: 月猫百歩
紅の屋敷
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十一ノ怪

 ――おはよう、お母さん。

 眠い目を擦りながらリビングに入る。窓から朝日が差し込んできて、眩しさに少しだけ目を細めると、リビングにつながる台所から香ばしい匂いが漂ってきた。


「おはよう」


 お母さんがにっこり笑いながら手に持ったフライパンをテーブルの上にあるお皿に傾ける。


「ちょうどあなたのベーコンと目玉焼きが焼けたのよ。冷めないうちに早く食べなさい」


 真っ白なお皿にカリカリに焼けたベーコンと、表面がつるんとした目玉焼きが滑り落ちる。他のお皿にも同じようにベーコンと目玉焼きが乗せられていて、真っ白な天井に湯気がのぼる。テーブルの中央には一斤の食パンと、大皿に瑞々しいレタスとトマト、そしてその上に四角いクルトンが盛られたサラダがあった。

 

「おはよー」


「うーっす」

 

 席に着くと髪を頭の上でまとめたお姉ちゃんとボサボサ頭の直樹お兄ちゃんがリビングに入ってきた。


「おはようお兄ちゃん、お姉ちゃん」


「おはよ。あ、ねぇ! お母さん」


 お姉ちゃんは茶色い前髪を掻き上げながらお母さんのいる台所へ行って何か話だした。お兄ちゃんは頭を掻きながらリビングを見回す。


「あれ? 拓兄ぃは?」


「まだみたい」


「マジで? 珍しいな」


 首を左右に振れば、お兄ちゃんは冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを出して頭をかいた。


「ちょっと直樹! 先に全部飲まないでよ! 私も飲むんだから! ……ねぇ、あんたも飲むでしょう?」


「あ、ちょ、姉貴っ」


 いつの間にか戻ってきたお姉ちゃんがひったくるようにオレンジジュースを取ると、わたしにも声を掛けてくる。お兄ちゃんが横でワーワー喚いているのに無視しているお姉ちゃん。

それを苦笑いして頷けば、お姉ちゃんは食器棚から三つコップを取り出してそれぞれに注ぎ、そのうちの一つをわたしへ渡してくれた。

 

「うかうかしていると直樹のやつ全部飲んじゃうから気をつけなさいね。まったく双子のくせに芳樹とは正反対なんだから」


 直樹お兄ちゃんと芳樹お兄ちゃんは二卵性の双子だから見た目も性格もそっくりではない。直樹お兄ちゃんはイケイケの自由奔放で、芳樹お兄ちゃんはクールで物静かだ。


「拓哉と芳樹はお父さんと一緒にお祖父ちゃんの所に行っているわ。もうすぐ帰ってくるわよ。みんな先に頂いてなさい」


 エプロンを外しながらお母さんが台所から出てくると、それを合図にみんな席について食事を始めた。


 ガツガツ豪快に食べるお兄ちゃんによく喋りながら食べるお姉ちゃん。二人に注意しながらも嬉しそうに笑うお母さん。


 なんだか嬉しい。こんな風景が心に沁みてくる。まるで何年も会っていない気がしてしまうくらい、懐かしくて堪らない。


「あら、あなたも早く食べなさい」


「あ、うん」


 お母さんに促されてフォークを取る。久しぶりの洋食にウキウキしながらベーコンを口に運ぶ。カリカリとした食感とおいしそうな匂い。けれども、何度か噛み締めて眉を顰める。


 味が――しない?


 香ばしい香りがするのに、味がしない。不思議に思いながら今度は目玉焼きを口にするも、本来ならまろやかな味がするはずなのに、口に入れた途端に無味になる。


 ど、どうして? 慌ててお姉ちゃんによって切られたトーストに噛り付いてみる。けれど二つと同じように、乗せたバターの良い香りも柔らかなパンも、口にすれば消えてしまった。


 青褪めて、震えている指がトーストをお皿の上に置く。どうして味がしないの? 一体どうして?

 疑問ばかりだった頭にふと、あることに気づく。


 もしかして、常闇の食べ物を食べたから?


 


「あら? どうしてここにお皿なんて出したのかしら。みんなの取り分あるわよね?」


 蒼白になるわたしの前に置かれたお皿を見て、お母さんが首をかしげる。


「なんでひとり分余計に出したのかしら」


 ……お母さん、何言ってるの?

 心底不思議そうに呟くお母さんに血の気が引いて固まる。だってわたしが目の前に座っているのに、なんで変なことを言うの?


「あ、なら私下げるわよ」


「なんだよ。それ、下げんの? じゃあこれもーらい」


 戸惑う私を無視してお姉ちゃんがわたしのお皿を片付けていく。お兄ちゃんは下げられるお皿の上にまだ残っていたベーコンをつまんでいく。


「ど、どうしたの? お母さん。お姉ちゃんやお兄ちゃんも……」


 いきなりわたしが居ないみたいに振る舞いだした家族に、つい動揺してしまう。誰もわたしを見ないし、声を掛けない。本当にみんな、突然なんで。

 堪らなくなって立ち上がろうとした。それと同時に、外で車が止まる音がした。


「あ、お父さん達帰ってきたみたいね」


「二人とも出てあげて」


「はーい」


「えーっ。なんで俺まで行かなきゃいけねーんだよ」


 お姉ちゃんとお兄ちゃんがそれぞれ玄関に向かう。その後をお母さんが歩いていく。


「お母さん」


 丸くて優しい背中に呼びかけても、振り返ることはなかった。そのままリビングにわたしを残して、お母さんはドアを閉めた。


 リビングの窓から外を見れば、懐かしい家族たちが和気藹々と笑い合っていた。

 優しいお父さん、面倒見のいい拓お兄ちゃん、冷たい印象だけれど本当は誰よりも優しい芳樹お兄ちゃん。それを迎えるお母さんたち。


 もしかしたら、お父さんたちならわたしに気づいてくれるのかもしれない。


 不安と期待に駆られてリビングを飛び出す。そして玄関から外に出れば、入れ替わるようにみんなが家の中に入っていく。


「お父さん! お兄ちゃん!」


 必至で声を掛けた。けれども、お父さんたちは談笑しながらわたしの目の前を通り過ぎて、玄関のドアを開けたお母さんがみんなを招き入れた。そして一度もわたしの方を見ることなく、お母さんは玄関のドアを閉めた。中からガチャンと鍵がかかる音が響いた。


「待ってお母さん!」


 慌てて駆け寄ってドアノブを回すけれども、ドアは固く締まって開かない。息をのんで、両手で強く何度もドアを叩く。

 

「はーい」


 中からお母さんの声がして、鍵が外される。ゆっくりと開いたドアからお母さんの顔が見えた。今度はわたしの姿を認めてくれたようで、お母さんとしっかり目が合う。


 良かった。思わず泣きそうになってしまい、喉が震えるのを感じる。でも、もう大丈夫。


「お母さ」


「あらどちら様?」


 自分の顔が強張った。指先が冷えて心臓が喉のあたりから鳴っているような錯覚が起こって吐き気までしてくる。

 お母さん、いま、なんて――


「なんの御用ですか?」


 畳み掛けてくる厳しい声。顔色を無くしたわたしを、まるで不審者でも見るかのような目つきを向けてくるお母さん。さっきまで優しく笑い掛けてくれたのが嘘みたい。


 一体どうして? 泣き出しそうになりながらお母さんの顔を見詰める。

 でも次の瞬間、わたしは思い出した。

 

『家族や友達から、わたしの記憶を抜き取って下さい』


 鬼さんに名前を取り上げられる前に、お願いした自分の声が頭の中で反響する。

 お母さんはわたしを忘れてしまっているんだ。わたしが鬼さんに願ったせいで。だから、今のお母さんからしたら、目の前いるわたしは見ず知らずの他人。全く知らない人間。


「用がないのなら失礼しますよ」


「待って」


 お母さんは冷たく言い放つと、すぐさま奥へと姿を消す。わたしがとっさに伸ばした手は、強く閉じられた玄関によって拒絶された。


「お、お母さん! 待って……待って! お母さん!」


 また玄関のドアノブに縋り付いて何度も引く。けれどもビクともしない。

 涙で曇った目で窓を見れば、中でみんな楽しそうに朝食を食べている。お父さんも、お姉ちゃんも、お兄ちゃんたちも。それはとても幸せそうに。  


 家の中に入ったお母さんが窓際に寄ってわたしを冷たく一瞥すると、鋭い手つきでカーテンを閉める。


「そんな……お母さん! お母さん!」


 確かにわたしは願ったけれど。願ったんだけれども。まさかこんな、こんなに、こんなに辛いだなんて……


 ねぇ! わたしここにいるよ! 帰ってきたんだよ!

 お母さん! お母さん!


 ねぇ――




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「お母さん!」


 喉が動いて上ずった声が耳に届く。それから耳に『はっはっ』という小刻みに聞こえる呼吸音が聞こえてきた。頭がクラクラして心臓が激しく鳴り、体全体が脈打っている。


 目の前は真っ暗。ううん、正確には窓から紅い月明かりが差し込んではいるんだけれども、今のわたしには不安を煽るだけだ。


 そうだ。灯篭、灯篭の明かりは?


 無性に温かな明かりが欲しくて首を動かそうとした。早く暗闇を少しでも遠ざけたい。ほんの少しの明かりでも良い。そう思って顔を横に向けた。……けれど、出来なかった。


 体、……動かない?


 体を動かそうとしてもなぜだか動かない。自分の体じゃないみたいに、指一つ動かせない。


 なにこれ金縛り? なんで? どうしてこんな時に。


 ふいに天井の暗闇が急に落ちて自分に迫ってくる気がして、部屋の隅の暗闇までもが自分に向かって這い寄ってくるような不安に襲われる。

 次第に激しくなる鼓動。心の奥の方から湧いてくる焦燥感。背中や手足に急速に汗が噴き出る。

 

 嫌、嫌だ、怖い!


「――だ、誰か! 誰かぁ!」  


 もう嫌だ! ここから出たい!

 家に、家に帰りたい! お母さん達に会いたい! そうだ、覚えてないなんて嘘だ! 会えばきっと、きっと思い出してくれる!


「お、お母さん! お母さん!」


 大声で喚いて、声がひっくり返っているのも気にせずに叫び続けた。


 お母さんならきっと気づいてくれる! いつだってわたしのことを心配してくれたんだもの。今だってきっと心配しているわ!

 だから、だから! お母さん!

 

「お母さん! お母さ――ぐっ」


 いきなり大きな何かが口を塞いだ。それから目の端で閃光のようなものが見えて、いきなりの出来事にさらにパニックになったわたしは、必至で口を塞ぐその何かを両手で掴んだ。


 え? 掴んだ・・・


 体が動く。ガクガク震えてはいるけれど、わたしの両手は熱くて大きなものをしっかり掴んでいた。その事実に少しだけ安堵感を覚えた。


 不意に腹部に圧迫感を覚える。知らないうちにお腹の上にも何かが這っているのに気付いて、戻りかけた冷静さが急速に逃げていく。


 手足を乱暴にばたつかせると、更にきつくお腹が締め付けられた。悲鳴を上げたくても口を塞がれたままで上げられない。


 ハッと目を見開く。眼前に見えていた天井は無く、今目の前に広がるのはいくつもの白い籠の格子。仰向けで寝ていたはずなのに、知らないうちになぜか上体だけ起こした姿勢になっている。


 嫌だ! なんで!? 誰かっ! 誰かっ!

 

「オイ落ち着け、鈴音」


 爪を立てて口を塞ぐものを引き剥がそうとしたところで、聞き慣れた声が上から降ってきた。


 思わずぴたりと動きを止まらせる。突然訪れた静寂の中、耳にドクドク鳴る自身の心臓の音と、短く切られた荒い呼吸音が響いた。

 こめかみから頬にかけて何かがなぞった。それが顎まで伝って胸元に落ちたら、それが汗だと理解する。


 わたしが身動きしないでじっとしていたからか、今まで頑として解けなかった拘束が腹と口からゆっくりと外される。締め付けが消えて肩越しに背後を振り返れば、暗闇に浮かぶ妖しい紅がこちらを見詰めていた。


「ドウシタ? 叫び声が聞こえて来てみれば、一人で何を暴れているんダ?」


「あ……わたし……」


 力が抜けて、やっと落ち着く。

 あぁ、そうだ。わたし、またいつもの悪い夢を見たんだ。常闇に来てから時折見る悪い夢を。


 悪夢は暗闇に一人置いて行かれるものだったり、妖怪に追い回されるものだったり、今回みたいに家族に忘れられてしまうものだったり。


 別段珍しいことではないのだけれども、こんなふうに叫び声をあげて錯乱状態になるだなんて初めてだ。それに金縛りだって――


「そ、そうだっ。鬼さんわたし、金縛りに遭ったんです!」


「金縛り?」


「はいっ」


 鬼さんの瞳に引きつって怯えたわたしの顔が映る。鬼さんはわたしの顔や様子をしばらく顎に手を当てて眺めていたけれど、ゆるりと顔を左右に振った。


「いや。なんとも無いカナ。呪術なんかではなさそうダ。……寝惚けたんじゃないカ?」


「寝惚けた?」


「呪い云々はハッキリ無いと言い切れる。あったとしても俺の術に反応があるハズだ。で、ソレが無いってことはお前が寝惚けたせいで頭と体がうまく連結しなかったんだろうよ」


 そう、なのかな? 鬼さんの言葉に少しだけ恐怖感が薄れる。

 そういえば以前テレビの特番で、金縛りは科学的に説明できるとかなんとか。そんな話を聞いたような気がするけれども。鬼さんも違うって言っているし、違うのかな。


「それにしても鈴音、お前い~ぃ歳して母親を恋しがるとは。本当にガキだなァ」


「え?」


「母親を何度も呼んでいたダロウ?」


 母親? お母さんを?

 記憶をたどれば悪夢の内容を細かく思い出す。じわりと嫌なものが心を染め上げていく。


「鬼さん」


「ん? ナンダ?」


「お母さん達は……わたしの家族は、わたしのことを」


「お前のことなんて覚えてイナイ」


 わたしの言葉を遮って鬼さんはハッキリと言った。見詰めればうっすら、片眉と口角を釣り上げて、闇の中でわたしを冷たく見下ろしている鬼の顔が見えた。


「どうした鈴音ぇ。何をそんなに傷ついた顔をしているんダ? お前が願って俺が叶えてやっただけのことダロウ? 何を今さらそんな目をしているんダ」


 交互に妖しい紅を見詰める。静かに、けれども穏やかな中に光る、残虐性を帯びた鬼の瞳。見詰め続けていると次第に何かが体の奥の方で膨れ上がってきた。暗くて冷たい、底なしの何かが。


 わたしは胸から込み上げてくるものを抑え込むように、ぐっと俯いて唇に力を込めた。


 視線の先に、紅い月明かりに照らされた自分の手が、亡霊のように浮かび上がって見えた。



 

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