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大家さんに言われた異世界の小説の話を今すぐにでも石崎さんに話したい。石崎さんは大家さんの奥さんと仲が良いから、もうとっくに知っているかもしれないけれど。
それでも石崎さんは今、夕飯の支度をしていているころだろうと思い、とりあえず自分の部屋に入って石崎さんにラインしようと思いながら、四号室の鍵を差し込もうとしているときに、隣の三号室から水本が出て来た。
「春ちゃん!」と水本が言う。「おかえり。返信ないから心配したじゃん。あんな雨降ったのに」
「え?」
水本が私のことをいきなり「春ちゃん」と呼んだ。
「返信なかったからなんかあったのかと思って」水本はもう一度言った。「カレー作ったから一緒に食べようよ」
「水本さん、あの…」
私は言葉が出て来ない。水本がおかしい。私のことを急に「春ちゃん」と呼び、返信がないと言ったが、私と水本は連絡先を交換していないし、カレーを作ったからといってなぜ私を誘うのだろう。
隣の三号室に住む水本は、こんな中途半端な人口密度の街にはそぐわないモデルのような外見をしているが、十歳ほど年上の石崎さんのことを好きでいる。
そうか、もしかしたら石崎さんを誘って欲しくて私にこんなことを言い出しているのかもしれない。
「雨すんごかったよね!!ほんと!」水本が言った。「仕事中大丈夫だった?雷とか」
「…はい」
「僕も今日休みで良かったわ。でもどこにも出れなかったからゆっくりカレー作った」
「…」
にこにこ顔の水本に何か少しふざけているのかと思って、思わず見つめてしまったら、水本も私を見つめてきたがその目は優しい。
「食べようよ。どうする?僕んちにする?春ちゃんとこ?」
「水本さん、あの…」
何言ってんですか?と続けたかったが続けられなかった。水本が優しい目のままだったからだ。怖い。急に水本がおかしい。早く石崎さんに教えたい。
「水本さんごめんなさい。私今から石崎さんとこに行く約束してて。…なんかすみません。じゃあ…」
私は自分の部屋は鍵も開けないまま、四号室の脇にある階段をすぐに駆け上った。
石崎さんの部屋のチャイムを押すと「はい」とドアフォンで対応される。
「すみません木本です。あの…すみません連絡もせずにいきなり来て」
石崎さんはすぐにドアを開けてくれた。中からカレーの匂いがした。
石崎さんちもカレー!
「あの、なんかよくわかんないんですけど、今水本さんにカレー食べようって急に誘われて、様子が変だったからつい石崎さんとこへ来てしまいました、すみません忙しい時間に」
正直に話す私だ。
「水本が?」
眉間に皺を寄せる石崎さんと、石崎さんの陰からぴょこんと顔を出した菜月ちゃんが私を見る。
菜月ちゃんは石崎さんの一人娘で小学四年生。石崎さんに似ていて、今日も賢そうなそれでいて可愛らしい顔をしている。
「…なんかちょっとおかしなこと言ってたんで、すみませんやっぱ帰ります。後でラインします」
やっぱりこの時間に迷惑だったなと思って帰ろうと思ったが石崎さんは言ってくれた。
「まあ、上がってお茶でも飲んだら?」
「いえ!夕飯時なのわかってたんですけど、すみません」
「そんなにすみませんて言わなくていいから」
ほらほら、と言って石崎さんは私の腕を掴み、流れるような動作で私をあっという間にキッチンにあるテーブルに着かせてくれた。
カレーの良い匂いが充満している。美味しそうだ。お腹が空いた。
「今日のうちのご飯は何でしょう?」
菜月ちゃんが嬉しそうに小首をかしげて可愛く聞いてきたが、私が答える前に石崎さんが言った。
「匂いでカレーってバレバレだから。クイズになんないよ」
「え~~」と口を尖らす菜月ちゃん。「カレーピラフとかカレーチャーハンとかカレーうどんかもしれないじゃん」
「まあいいよ」と石崎さんが言った。「余分にあるから木本さん食べていきなよ。良かったらだけど。昼とか昨日の夜とかがカレーじゃなかったら。そして私が作ったのでも良かったらってことだけど」
「うれしいです。すみません、こんな時間に来て」
「まあまあまあまあ」と言いながら、石崎さんは私を洗面所に行かせて手洗いとうがいをさせてくれ、その間に私の分まで三人分のカレーとサラダを用意してくれた。
私はおいしいカレーをいただきながら、水本の話をした。カレーの話、急に春ちゃんと呼ばれたこと、連絡先を交換していないのに返信がどうのと言っていた話。
「水本さんちもカレーかあ!」と菜月ちゃんが言った以外は、二人は黙って聞いていてくれた。
「まあ…それが普通なんだけどね」石崎さんが言った。
「え?」
普通って何だろう。水本は石崎さんのことを好きなのだ。
石崎さんが言った。「ずっとおかしいとは思ってたんだよね」
「私はそんな、おかしいとかは思わなかったよ」と菜月ちゃんが言った。「水本さんがお母さんのことを好きなの、全然おかしいとは思わなかったけどな。お母さん可愛いもん。ねえ?春花ちゃん」
私ははっきりと返事が出来ずに、いぶかし気に小さめにうなずいた。そして二人の言っていることが全く腑に落ちなかったので、大家さんの話もしてみることにした。
「私が帰った時駐輪場に自転車を停めようとしたらそこに大家さんがいて、片手に電動ドリル、片手にドアの取っ手を持ってたんです」
私はカレーを食べていたスプーンを一旦置いて、大家さんの両手をまねして見せた。
「ああ…」石崎さんが言った。「どっかを直そうとしてたんだね」
「はい私もそう思ったんですけど、そのまま急に、急にですよ?異世界の話を始めたんです」
「イセカイ?」
私が大家さんに聞き返したように石崎さんも聞き返した。
「急におかしいですよね?」
「いや、だって大家さん小説書いてるでしょ?」
やっぱり石崎さんは知っていたんだ。
石崎さんが続けた。「奥さんがちょっと時間あったら読んでみてっていうから。でもあんまりまだ読んでない。奥さんも大家さんも別に読んで読んでって催促するわけじゃないからいいんだけど」
「私は読んでみてって言われました。呼んだ時間の分バイト代もあげるって言われて」
「へー。それラッキーじゃん」
「おばちゃんもお話書いてるんだよね」
菜月ちゃんが口を挟んだので、「そうなんですか?」と石崎さんに聞くと、奥さんは童話を書いているらしい。
「すんごく面白いよ」菜月ちゃんが言った。「私は好き」
私たちより小さめのお皿で食べていた菜月ちゃんがカレーのお代わりをした。
奥さんは童話や児童文学を書いているらしい。そして賞にも応募しているらしいがまだ一回も入賞もしたことがないらしい。まあ一般人が急に賞に応募してもそんなに簡単に受かるものでもないのだろう。
石崎さんが少し困ったようなそれでいて面白いことを話す感じで言った。「奥さんは嘘みたいに荒れるんだよね。賞に落ちた後、私が書いた面白い話を本に出来ないなんてどうかしてる。選ぶヤツが全員クソ、って言ってて、最初ビックリしたけど。普段とのギャップで面白かった」
驚いた。あの神々しいまでに美しい奥さんの口からクソなんて言葉が出るなんて。信じられない。信じられないが、言っているところを見てみたい。
「すごい気になる言い方って言うか…」私は言った。「大家さんが言ったんですけど、『気を付けないと、異世界の入り口なんていたるところにあるからね』って、なんかそんなこと言ってたんで、ちょっと気持ち悪いっていうか…急にそんなこと言い出すから」
「まあ…でもそんなもんていうか、まあおかしなことなんてたくさんあるじゃん」
石崎さんが肯定的なのに驚く。
「いや、よく考えて」石崎さんが続ける。「あの高森弟の手品、あんなの現実世界ではありえないと思うんだよね」
「魔法みたいだよね」と菜月ちゃんが言った。
高森弟というのは五号室に住んでいて、高校の物理の教師をしているのだが、趣味が手品で、その手品が素人どころかプロの手さばきも超え、まるで魔法のような技なのだ。
「そうそう。魔法魔法」石崎さんが言った。「手品じゃなくてあれは魔法」
んん~~~、という顔を菜月ちゃんがしている。
「だって良く考えて。いや良く考えなくてもおかしなことがたくさんあるでしょ?高森のお姉さんの方も常人じゃないくらいの美女だし、奥さんだって綺麗過ぎる。水本はずっと私のことを好きだと言っていたし。あんな若くてカッコいい子が普通の感じでおばちゃん好きとか有り得ないから。このコーポだって、まあ外観の黄色っていうのも珍しいけど、少し古いにしてもこんな敷地もあって部屋もちゃんとしてるのに、やたら家賃は安いし、それなのに六号室は空いてるし」
そう言われればそうだな、と思う。
「それにね」石崎さんは続けた。「私、ここを紹介してくれた商店街の不動産屋以外にも結構十件くらい不動産屋回ったんだよね。違う不動産屋でも同じ物件扱ってたりすること多いでしょ?でもね、このやまぶき荘ってあの不動産屋でしか見なかったんだよね。入り口や壁の張り紙にはなかったのに、良い物件今出たんだけどって、不動産屋のおばちゃん言ってきて」
私は不動産屋なんて行くのが初めてで、恐る恐る入った一件目で気の良さそうな、たぶん石崎さんにもここを勧めた担当の奥さんがいくつか勧めてくれた。ここが一番安かったのが大きな決め手だけれど、不動産屋の奥さんも大家さんのことを良く知ってて、とても良い人だと言っていたのだ。そして実際見に来たら建物が真っ黄色で明るい新生活が始められそうな気がしてここを選んだのだ。




