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コーポ「やまぶき荘」からの続きです。

 仕事が終わり、やまぶき荘まで帰り着き、駐輪場へと自転車を回すと大家さんがいた。

「おかえり」

いつものように淡々とした調子で挨拶をしてくれる。

「帰りました」と私も挨拶をした後に聞く。「何かの修理ですか?」

大家さんは片手にドアの取っ手、もう片方には電動ドリルを持っていたのだ。

 一旦ぐるりと周りを見回してしまう。駐輪場のすぐそばにはどこにもドアなんてない。

 駐車場の端の方の、大家さんの奥さんの菜園の奥に、最近大家さんが小さな道具置き場を作って、そこのドアの建付けが悪いとは聞いていた。聞いていたというか、奥さんがインスタグラムにその建付けの悪さの動画をあげていたのだ。開くには開くが、閉める時にガタッと音がして、壁と三ミリほど隙間も出来たらしい。奥さんの道具小屋もやまぶき荘とお揃いの山吹色をしていた。

 動画を観た私は少し心配したのだ。大家さんが奥さんのためにせっかく作ってあげたのに、ちょっと建付けが悪いくらいでわざわざ動画にあげたりしたら気を悪くするんじゃないだろうか。


 「そうなんだよね」と大家さんは答えてくれた。「ちょっと修理なんだけど…、今日はどうだった?仕事は疲れたかな?」

「いえ、そんなには。今日は入荷の本が少なかったので」

 私は郊外のショッピングモールの二階にある大型書店で働いている。社員ではなく、フルタイムのパートだ。

「雨が止んで良かったね」大家さんが言った。「びっくりしたね、今日の雨は」

 そうなのだ。今日は昼間一時的に雷を伴う大雨が降った。今もまだ曇っているし、コーポの敷地も敷地内の植物も濡れていた。

 大雨など降らない感じだったのだ。朝ここを出る時には。

 今朝私は暗い夢を見て目覚め、目覚めた明け方にはしとしとと小雨が降っていた。夢はやっと住み慣れて来たと思えたこのコーポが無くなってしまうという夢だった。私以外の住民は行く先があるようで、みなが引っ越しの準備をしている中途方にくれるという夢だった。

 その夢に打ちのめされて寂しくなっているところに、大家さんが飼っている黒猫のキイがベランダから訪ねてきてくれた。雨が止み明るくなっていく空をキイと一緒に見つめながら、私はキイに言ったのだ。

「今日はいい天気になりそうだね」と。

 昼間までは晴れていたらしい。ショッピングモールの中にいたので、晴れている様子もそこまでわからなかったが、そのショッピングモールの中に居ながらもわかるくらいに急に辺りが薄暗くなって来た。書店から見えるフードコートの端の窓の向こうの空は分厚い雲が垂れこめているようで暗い。店内にある換気口から聞こえる風の音も気味が悪いくらい強くなり、そこへ雷も鳴りはじめ、音はだんだんと大きくなり、雷が光ってからの音の間が瞬時になり、ショッピングモールの真上で何十個もの雷が炸裂した。モール全体の店内放送で「しばらく店外に出ないでください」や、「無理に駐車場から車を出そうとしないでください」、「小さなお子様のそばは絶対に離れないでください」などの放送が繰り返され、私の職場の書店も店長の指示で店員とお客がレジ前の広い場所に集まって様子を見ることになった。その雨は二十分ほど続いて、ウソのようにピタッと止んだ。

 その後の店内放送で、私が今朝見た予報の時にはなかった線状降水帯が突然発生したらしかった。

 キイはあの嵐のような雨の間どこにいたんだろう、と思った。陰気な夢を見た私を慰めるように来てくれたキイに、せっかく明るい気持ちで言った言葉は大外れだった。

 「まあ気を付けないとね」大家さんが言った。

「そうですよね」相槌を打つ。「カッパをちゃんと持って行っとこうと思いました」

「言うてもね、いたるところに異世界の入り口はあるからね」

「え?」

「異世界」

「イセカイ…」

「異なる世界と書いて異世界」

聞き間違いじゃなかった。


 大家さんは七十四歳。見た目は若々しいが大家さんの口から異世界という言葉が出ると、私の職場の書店でもたくさん扱っている今どきのポップなライトノベルの異世界転生もののではなく、古びた神社の裏のお札の貼ってある扉とか、人通りの少ない古びた商店街の裏路地とかがパパッと浮かんでしまった。

 それよりもまず、異世界、という言葉が出るのに脈略がなさすぎる。どうしたんだろう、突然。

「気を付けないと」ともう一度大家さんは言った。「ね?」

「…はい」

ね?と言われても、はい、しか答えられない。

「今日はなんかおかしなことはなかった?」

おかしなこと?「…今日ですか?」

「急な天候の変化以外にだよ」

何でそんなこと聞くんだろう。「いえ…特におかしなことは…」

「なら良いんだけど!」力強く言って大家さんは笑ってくれた。「今、異世界転生もののライトノベル書いててね、春花ちゃん、一回読んでみてくれないかな僕の書いたやつ」

「え?」


 大家さんは手にドリルとドアの取っ手を持ったままだ。

「いや、うちの奥さんに言われてね、ネットに小説をあげてるんだけど、全然閲覧数が増えないもんだから。春花ちゃんは本屋さんで働いてるから、売れてる異世界もののライトノベルに詳しいだろうと思って」

急な話で思考が追い付かない。

 「…いやぁ…、私、職場での担当ジャンルが学生参考書で、朝新刊の箱開けして仕分けするときにも、ライトノベルってやたら副題が長くて、同じような設定とか同じような表紙が多いなとかしか思わなくて…。いや、ちゃんと読んでる人からしたら私の言ってること良くない感じなんですけど」

大家さんも書いていると言っていたので、慌ててフォローした。

「ハハハハ!」と大家さんが急に大きく笑ったのでビクッとした。「そういうのもあるよね!でも副題なんて長ければ長い方がいいからね」

 副題は長ければ長い方がいい…

 大家さんはいったい何を言い出しているんだろう。

 大家さんはライトノベルを書いてネットにあげている。大家さんの奥さんがそうしてくれと言ったから。


 大家さんの奥さんは恐ろしく美しい。大家さんと同じ歳なのだが、年齢など超越して神々しさのある美しさを持った人だ。優しくて、身寄りのない私のことや、私と仲良くしてくれている八号室のシングルマザーの石崎さん親子のことも常に気にかけてくれている。

「読んでみてくれないかな」大家さんが言った。「まだ一作しか書いてないんだけど」

「…私がですか?」

「若い人の意見て大事だからね。私らほら、時代遅れだから。読んでて思うことあったらほんのちょっとでもいいからアドバイスが欲しいんだよね」

「…私がですか?」

「二回言うたね。『私がですか?』って」

「…はい。…あの、その取っ手ってどこに付けるんですか?」

気になったのだ。

 大家さんは取っ手を自分の目の前まで持って来て「う~~~ん」と唸った。

「これはねえ…」と大家さんが言い始めた時だった。

「たっちゃーーーーん」

一号室のドアが開いて中から奥さんが大家さんを呼びながら出て来たのだ。

 奥さんは大家さんを「たっちゃん」と呼び、大家さんは奥さんのことを私たちの前では「うちの奥さん」というのだが、呼ぶときには「みいちゃん」と呼んでいる。大家さんの名前は「拓郎」、奥さんの名まえは「海」というのだ。

 奥さんは私におかえりと言ってくれてから、「カボチャが固くてなかなか切れないからちょっとやってみてーーー」と大家さんに言った。

 大家さんは奥さんに返事をして、それから私に言った。

「じゃあ、ライトノベルのことは本当にお願いしたいから。ちゃんと読んでくれたら、その時間分はちゃんとバイト代も出すから、ちょっと副業やる感じくらいでやってみてよ」

 そして取っ手と電動ドリルを持ったまま、何に取っ手を取り付けるかも教えてくれないまま、大家さんは大家さん宅へ入って行った。




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