第7章 古事記と日本書紀(後編)
四
できあがった古事記を阿閇皇女(元明天皇)さまに献上いたしましたら、天皇さまは大いに悦びはりました。
それで、日本書紀のほうがなかなかできあがらへんことが問題になりました。
天皇さまから、
「日本紀もたのみます」
いわれはったときの安萬侶さんは嬉しそうなお顔ではおまへんどしたが、
「かしこまりました」
て、また頭をさげはりました。
ただ、日本書紀のほうは古事記のようにすんなり行きまへんどした。
最初に仕事を引き受けはった川島皇子さまはすでに亡くなられてはりましたし、そのあとを継ぎはったんは大海人皇子はんの息子の舎人親王どした。
この人は、難しいお人どした。
安萬侶さんが親王はんのお部屋に入りましたら、親王はんは顔を赤こうされました。
怒ってはったようでございます。
「おまえか」
いわはりました親王はんのまわりには大勢の筆生がおられましたが、皆ただじっと座ってはるだけで、だれも筆を動かしとりまへんでした。
そないなところに入ってしもたんは、わたくしにとっても心苦しゅうございました。
それで、安萬侶さんもじっと黙っとられましたら、親王はんが向きなおられまして、
「この山を見い」
いわはりました。
それは紙の山どした。30年間、ほうぼうの国々からいろんな話を集めてこられて、いざまとめよう思ても、どうにも収まりがつかぬようになっとったようでした。
安萬侶さんは、それで、
「この者を置いてまいりますのでお使いくだされ。お役に立つと思います」
いわはって、そのままお部屋を出て行かれました。
・・・・・・あっ、
思いましたが、もうどうすることもでけまへんどした。
親王はんが怒ってはったんは、古事記の編纂で安萬侶さんがいろんな話をどんどん切り捨てはったことや、わたくしがその穴をどんどん埋めてしもたことどした。
「あんまりなことしてくれはった」
いうてはりました。
真面目なお方やったんどす。
わたくしは、それから八年間、舎人親王はんのお側で紙の山と向き合いました。
五
日本書紀が楷書で書かれはじめたんは最後の一年どした。
楷書にするにはすべての事象の経緯や年代を定めねばなりまへんどした。
へども、それは無理どした。
親王はんは正直にそのように記すしかないていわはりました。
それにしても、ある程度は整理せんならんことがようけありました。
いちばん難儀したんは中大兄皇子(天智天皇)の出自についてどした。
ほんまのことはとても書けまへんどした。
親王はんもそこは同意しはりましたけど、それにしてもどのように書いたらええのか結論がでまへんどした。
最後に、わたくしは声を小そうして進言しました。
「中大兄(天智天皇)はんと大海人皇子(天武天皇)はんを同父の兄弟にしまひょ」
親王はんがもっとも赤うなられましたんは、こんときどす。
中大兄はんの実の父親は蘇我氏の者であるいうのが当時の通説どした。おそらく蘇我蝦夷どす。
ただし、名目上の父親は母親の宝姫の弟の軽王子ということになっとりました。
宝姫は不義の子を自分の弟の子いうことにしたんどす。
その弟の軽王子が即位することになるとはだれも思てなかったようどす。
あまり賢いお方ではなかったんどす。
ところが、宝姫の夫やった田村皇子(舒明天皇)が亡くなりはって、そのあとがごたごたしまして、その場しのぎに宝姫が即位しはって、その4年後には軽王子が即位しはることにならはりました。
なんでか言いますと、
宮中で蘇我入鹿が中大兄はんに殺されたんやどす(乙巳の変)。
蘇我入鹿は中大兄の兄弟やったんどすけど歳はえろう離れてはりました。殺されたときの入鹿は50歳をすぎてはりましたが、殺しはった中大兄はんはまだ20歳どした。
中大兄はんには中臣鎌足いう悪もんがついてはって、これが一切のことを取り仕切ってはったようどす。で、この鎌足が、
「軽王子を即位させなはれ」
と、いいはったそうどす。
中大兄はんは軽王子の息子いうことになっとりましたさかい、軽王子が大王になりはったら、その次の大王は中大兄はんになりますわな。
宮中のもんらはみんな驚いたようどすけど、余計なことを言えば自分も殺される思て黙ったようどす。
ほんで、中大兄はんは皇太子とならはりました。
皇太子いうてもただの皇太子ではありません。自分の下に右大臣、左大臣などいろいろと役職をつくらはって、摂政みたいなもんになって、一切の政務を取り仕切る立ち場になりはりました。
これ以降、中大兄はんは、わかっているだけで政敵を3人死なせとります。
だいたいは謀反の疑いがあるいうことで死罪にしはりました。
それから、百済の再興をはかるため、いうて唐王朝と合戦することとなり、白村江に3万以上もの人数を送り込みはったときには1万以上を死なせはりました(白村江の戦い)。
中大兄はんの悪行は人を死なせるいう以外にもありました。
みんなが所有してはる土地をぜんぶ大王はんのもんにするいう、とんでもない制度をつくりはったんどす。
隋や唐ではあたりまえのことや、言うてはったそうどすけど、それがええことやとは、だれも思わんかったでしょうな。
そんなこともありましてな、中大兄はんは宮中でもどこでも嫌われてはりましてんけど、怖ろしゅうて、だれも何も言いはらへんかったらしいどす。
この中大兄はんが即位しなはったんは42歳のときどす。
亡くなったのは46歳どす。
皇位を継いだのは息子の大友皇子どしたが、これは大海人皇子はんに殺されました(壬申の乱)。何万という軍勢が大海人皇子はんのもとに集まりましたのは、大友皇子はんがいかんかったからいうよりも、中大兄はんに対する反感が大きかったいうことどす。
尚、日本書紀をまとめることとなった舎人親王は大海人皇子はんの息子どしたが、母上は中大兄はんの娘やったんどす。大海人皇子(天武天皇)のあとに即位しはった鸕野讃良はん(うののさらら=持統天皇)も阿閇はん(元明天皇)も中大兄はんの娘どす。
せやから、日本書紀をまとめるにあたっては、中大兄はんは立派な人やったとせなあきまへんどした。それに、大海人皇子はんも正統な流れで天皇になりはったことにせなあきまへんどした。
そうしますと、中大兄はんが実は軽王子の子ではない、いうのがまずよろしくありまへんどしたし、実の兄の蘇我入鹿を殺しはったいうことも差し障りましたし、その後に蘇我氏の者を次々と追いつめて行ったことも差し障りましたし、皇太子になりはったときからずっと人望がなかったいうこともよろしくありまへんどした。
それでも、中大兄はんが即位しはったからには、その皇位は息子の大友皇子が継ぐんが筋どした。その皇位を奪った大海人皇子はんは反乱者いうことになります。
そのあたりの事情をうまいこと収めるには、中大兄はんが大海人皇子はんの兄やいうことにしとくんがよろしおした。
もともと実の母親は一緒やったさかい、父親も一緒やったいうことにするのはそれほどおかしない思いました。中大兄はんの父は蘇我蝦夷でも軽王子でもなく、田村皇子(舒明天皇)やったいうことにするわけどす。
中大兄はんが田村皇子(宝姫の夫)の子やったとすると、これは不義の子ではないことになります。蘇我入鹿を殺したんも自分のことのためやのうて政務をよろしゅうするためやった、いうことにできます。それに、兄の中大兄はんから弟の大海人皇子はんへ皇位が移行するんは反乱とは言えまへん。
へども、舎人親王はんは、なかなかこの案に頷きはらへんかったどす。
大海人皇子はんは中大兄はんが皇太子やったときに、その娘を4人も妻にしとったんどす。これは謀反の疑いをかけられるのを怖れて中大兄はんとの絆を強う結ぶためやったわけどすが、2人が同じ父親の子いうことにすると、えろうおかしなことになります。同父の兄の娘を4人も妻にするいうのんは前代未聞どすさかいな。
しかも、大海人皇子はんは中大兄はんより4つも歳が上やったんどす。
それに、舎人親王はんの母上はその4人の妻のひとりどした。
「んなアホな」
て、舎人親王はんは顔を真っ赤にされました。
へども、結局はわたくしの案で収まりました。
他にええ案がありまへんでした。
尚、大海人皇子はんは日本書紀の編纂を命じはったお方なわけどすけど、その生没年は記さないことにしました。ほんまは弟ではなかったいうのがばれますさかいな。
この件についてはだれも何もいわはらしまへんでした。
どのみちもう大海人皇子はんは亡くなってはりましたし、阿閇はん(元明天皇)も退位しはってましたし、譲位をうけはった氷高皇女はん(ひだかのひめみこ=元正天皇)は大海人皇子の孫でしたよって、そのへんのことには関心が薄いようどした。
そないなわけで、中大兄はんの出自の件は収まりましたけど、修正せなあかんことは、まだまだありました。
中大兄はんが蘇我氏のもんを徹底的に除外しはったことをうまいこと説明せなあきまへんでした。
それで、蘇我氏の者がみんなで大王をさしおいて独断で政務をしてはった、いうような話をつくりました。
そおして、蘇我氏が悪もんやて見せるために蘇我氏の功績はぜんぶ別の人の功績いうことにしました。
その別の人には、上宮太子(かみつのみやたいし=聖徳太子)いう者を選びました。上宮太子は叔母の豊御食炊屋姫(推古天皇)の摂政を務めはった方どした。
なんでその上宮太子を選んだかいいますと、まずもって、その子孫が絶えておったいうことで都合がよかったんどす。子孫がいはりましたらその業績を盛ったり削ったりすることができしまへんさかいな。
それに、上宮太子は摂政いう高い地位におられたわりにこれといった業績がありまへんねんどす。蘇我馬子と蘇我蝦夷の時代の摂政どすから、宮中に腰かけてはっただけやったんでしょうな。それで、蘇我氏が定めはった冠位の制度のことや、17条の憲法のことや、遣隋使のことや、法隆寺を建立されはったことなどの業績をすべて上宮太子の業績としました。
それから、その名前は厩戸いうことにしました。
天の石屋戸から出てきはった神さんが馬小屋でお生まれになりはったいう話をわたくしの祖先が代々語り伝えておりましたもんで、そういう名前にしました。
ちなみに、この厩戸皇子の息子の山背大兄王は中大兄はんに殺されはったんどすけど、蘇我入鹿に殺されたことにしました。
こんときも舎人親王はんは真っ赤な顔をしはりまして、
「オマエは蘇我氏どころやおへん。極悪人や」
いわはりましたが、結局はそういうことになりました。
他にも苦労話はいくつもありますが、大きところでは、ヲホド大王(継体天皇)の即位のところですな。
ヲホド大王は大海人皇子(天武天皇)の祖先になりますが、これがイワレビコの子孫であったという証しがないんどす。若狭(福井県)のあたりで大きな国をつくってはったようなんどすが、どういう経緯でワカタケル大王(雄略天皇)のあとに即位されたんかがわからんのどす。話としてはホムタ大王(応神天皇)の分家の子いうことになっとりましたが、その分家の者の名前もなにも出て来いひんのどす。
それで、わたくしは、まず、ワカタケル大王のあとに4人の大王がおったことにしまして、4人目の大王(武烈天皇)が無道のかぎりを尽くされた者やったことにしました。そうすればヲホド大王が即位した経緯がすんなり腑に落ちるようになります。そして、ホムタ大王からヲホド大王までの分家の系図もつくりました。
舎人親王はこんときは何もいわはらしまへんでした。
へども、筑紫君イワイとヲホド大王の戦いについては、かなりやりとりしました。
イワイはほんまは合戦したなかったんですわ。
合戦になったんは、ヲホド大王がどうしても筑紫国を手に入れんならんいう思いがあってのことやったらしいのですが、これはそれこそ無道な征伐どした。そのため決着がついたあとも筑紫国はすんなり服従せんかったみたいどす。イワイは豊前に隠れてしもて出て来んようになったりして、はなはだあきまへんどした。
しかたがないので、古事記では、もう、ここのところは言葉短く終わらせました。
日本書紀もそのようにしとこう思いましたが、舎人親王は、
「そんなわけにはゆかん」
いわはりまして、どうしてもしっかりした話をつくらねばならなくなりました。
たしかに筑紫国の件は言葉少なく終わらすのはいけまへん。
筑紫国をそのままにしておいたら唐との船合戦は負けへんかったかもしれませんし、そのまえに、唐と合戦せんですんだかもしれまへん。筑紫国は新羅をおさえておったさかい、筑紫国がうまくやれば、ヤマトと新羅が戦うことにはならんかったはずどす。これが唐との戦いにまでなったんは、筑紫国を潰したからどす。
ヲホド大王がやったことは褒めたらいかんことどした。
へども、そのヲホド王のつたない征伐があったおかげでヤマトと新羅の関係が悪化しました。そいで、中大兄(天智天皇)は百済を復興せんならんようになり、白村江での大負けとなりまして、それがあったがために大海人皇子が大友皇子(天智天皇の息子)を倒して即位するいうことになりました。
大海人皇子(天武天皇)が古事記と日本書紀をつくることにしたんは、そのあたりのことをきちんとせんならん、いうこともあったわけどす。
せやけども、もう、大海人皇子はんはおられしまへん。
ヲホド大王のことをこと細かに書いてみても歓ぶ者はおりまへん。
そこで、わたくしは、
「イワイがヲホド王に反乱したいう話にしてはどうでっしゃろ?」
て、舎人親王はんに申し上げました。
この件も、いろいろとありましたが、最後はこれで収まりました。
それから、ホムタ王はん(応神天皇)の母親の件がいろいろといわれております。
古事記では、神さんみたいな人として書きましたんやけど、日本書紀では、実際におはったお方として書きました
名前は、
オキナガタラシ姫(神功皇后)
としました。
もともとこれは、漢や魏の時代の向こうの文献に書かれとった、太古の昔の女王さんのことやったんやどす。そちらの文献でのお名前は、
卑弥呼、
いいます。
えろう立派なお方やったらしく、
「親魏倭王」
いう肩書きをいただいて金印を授かったそうどす。
せやけども、ごっつう気の強い女王はんやったらしく、夫であった王をはりつけにして殺したそうどす。
この女王はんはヤマトの王の祖先ではないですし、その業績をそのまま書いてしまうと、ヤマトが魏王朝の臣下となっておったことになってしまいます。
それで、名前を変えましたし、業績も変えました。
新羅や任那や百済を平定した女王いうことにしまして、ホムタ王の母親いうことにしました。
はりつけにされた夫は病死したことにしました。
まだまだありますが、日本書紀の編纂はこんなもんどした。
大海人皇子はんの命が下ってから、できあがるまでには、40年かかりました。
あっ、言い忘れておりましたが、日本書紀を楷書で清書したんはわたくしではありません。東漢氏のもんどした。漢人に読ませるために漢語で書くこととなり、漢語がかけるのは東漢氏のもんが一番ええいうこととなりました。その文体は古うおましたけれども、天皇はんはそこがええいわはりました。
六
日本書紀ができあがりましたんは5月やったんどすけど、その3ヶ月前の2月に、日向のほうでえらい騒ぎがありました。
朝廷から派遣されてはった国司はんが、隼人に殺されてしもうたんどす。
事件の発端は古事記どした。
古事記ができあがった翌年(713年)に阿閇皇女(元明天皇)は、日向の地を南北に分割しはりまして、北側を日向国(宮崎県)のままとし、南側を大隅国(鹿児島県の東側)としはりました。この大隅国は稲の育ちにくい土地どしたもんで、律令制にはもともと反発しとりました。米による納税を強制されてもでけへんどしたんどす。
せやのに阿閇皇女(元明天皇)は、これを分割しはって、そこに国司を派遣しはって納税のことを強めはったんどす。
古事記では、日向の地は神倭伊波礼毘古命はんが出発したところとなっておりましたんで、その地の者がヤマトにまつろわぬいうんはおもしろなかったんどすな。
日向の隼人はこのときも暴れまして、朝廷は兵を送っとります。
騒ぎを収めたあとは、豊前から5千人を大隅国に移住させはりまして、隼人たちの考えを改めさせようとしはりました。
へども、隼人たちはこれにも怒っておはったようどす。
そうして、今度は日本書紀ができあがるいう話がひろまってしもたさかい、それで大隅の隼人たちは、やられるまえにやったろう、いうことになったようどす。それで、その矛先が国司にむけられたんどすわ。
国司いいますんのんは、国造とちゃいます。国造は現地の実力者に統治を任命するもんどすけど、国司は朝廷から派遣される役人どす。これを置くいうことは、天皇が直接統治しはるいうことどす。
日向の隼人いうんは、一応はヤマト朝廷に従うておりました。大海人皇子が即位されはった際には貢物を持って参上しはりました。せやけども、隼人がヤマトの支配下にあったんかいいますと、そこは微妙やったんどす。国造はおりましたけれども、それは形ばかりのもので、隼人たちを統治する王さんのようなもんが別におりました。
その隼人の地である日向がイワレビコの出発地やいうことは、天皇は隼人の末裔いうことになります。へやけど、隼人にすると、それはありえへんのどす。
ヤマトのもんは、言葉もちゃいますし、食べるもんも着るもんもちゃいます。
それに顔も肌の色もちゃいますのんや。
朝廷は隼人たちのことを、まつろわぬ者いいまして、ずいぶんひどいことをしはってました。そないな経緯がありますのに、いきなりおまえさんたちはもともと天皇の配下やったんや、いわれても納得できまへんわな。
朝廷は騒ぎを鎮圧するために1万もの軍勢を送り込みはりました。
大隅の隼人は7つの城に立て籠もったみたいどすけど、そのうちの5つは落ちました。せやけども、あと2つはまったく落ちる気配がおへん。
七
古事記や日本書紀で反発するもんは他にもいくらかおるみたいどす。
せやけど、ほとんどの国は古事記や日本書紀の記述をそのまま受け容れとります。
各地のお宮や社では古事記に書かれた神さんを祭るようになりました。
アラハバキの神などはどこのお宮でも祭るのをやめてしまいまして、その代わりに天照大神を祭ったりするようになっとりますし、わたくしが創作した架空の人物を祭るところがようけ出てきはりまして、お宮の口伝などをそれに合わせて変更するところもぎょうさん出てきました。
例えば、ヲホド王(継体天皇)が征伐しはったイワイ(磐井)が隠れた香月いうところにはスギモリの宮(杉守神社)いうのがあるんどすけど、そこはもともと、イワイを祭るお宮やったんどす。
へども、古事記にはイワイが香月村に隠れたことは書いとりまへん。物部荒甲と大伴金村が遣わされて石井(磐井)を討った、と記しました。
そのせいか、スギモリの宮ではイワイを祭るのをやめてしまい、倭建命や息長帯比売命(神功皇后)や品陀和気命(応神天皇)や大雀命(仁徳天皇)を祭るようになりました。
尚、そのスギモリの宮は、その地でイワイを助けた香月氏が創建したものどしたが、ヤマトタケルが創建したいうことになりました。
それで、そのお宮の口伝ではヤマトタケルが熊曾建を征伐したいう古事記のウソをそのままお使いになりはって、そのヤマトタケルがそこに逗留しはったときに香月いう地名を名づけたいうことになりました。
人は権威や権力に弱いもんどす。
そこにすり寄るもんは事実がどうであったかなんてことには頓着せんようどす。
わたくしは歴史を書きました。
これは罪なことやったんやなと思ております。
これから日本書紀の内容が広まりましたらどないなことになりますやろかと、案じております。




