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第6章 国譲り




     一


 ワテの祖先はヤマトの大王おおきみの配下でした。

 うじはカヅラキ(葛城)を名乗っとりました。

 かばねはオミ(臣)でした。ちなみに、オミの下はムラジ(連)やトモノミヤツコ(伴造)となります。


 当時のカヅラキはえらく立派やったみたいです。今でもそのときの大きな古墳がたくさん残っとります。ほやけど、没落しよりまして、ヤマトには住んでられんようになりまして、ツクシ(筑紫)に移り住みましたが、カヅラキを名乗るんがかなわんくなって、「ラ」を抜いて、カツキ(香月)に変えたようです。ところが、なんやかんやあってヲホド王(継体天皇)のときにワカサ(福井)に引っ越しまして、今は勝木て名乗っとります。

 はじめの頃のカヅラキの衆ちゅうのは、ヤマトのカヅラキ山(葛城山)の麓に住んどりました。その頃は、まだ氏も姓もなかった時代でした。

 イバレ王の孫が王になったときに、ヤマト川で大規模な治水工事がありまして、その工事を手伝ったことで王家の仕事をするようになったようです。

 ほいで、だんだん大きな仕事を請け負うようになりまして、ホムタ王(応神天皇)のときにハタの衆の世話係を頼まれまして、秦の者たちをつこうて治水工事をやりましたら、難しい工事がどんどん片付きまして、そのおかげで平野部に広い土地をもろたそうです。

 ほいで、王家のために錦の織物を秦の衆に織らしまして、それを王に献上しましたら「氏」をもろたそうで、そこからカヅラキ氏(葛城氏)になったそうです。


 今では氏を名乗る一族はようけありますが、最初の氏はイミベ氏(忌部氏)やったらしいです。この家は、イバレ王と一緒にヤマトに入った一族で、王家の祖先を祭る儀式を取り仕切る役目をしとりますさかい、もともとは王家の分家やったんかもしれません。

 イミベ氏のあとに氏をもろたのはモノノベ氏(物部氏)やったらしいです。モノノベ氏は兵をあつかう家で、ヤマト地方の土着の家やったらしいです。

 カヅラキの衆は、おそらく、それらのあとで氏をもろたと思います。ほやけど、カヅラキ氏は娘を王家に嫁がせるようになりました。もともとは大王の家と互角の家だったのかもしれません。


 朝廷で大王の次の最高位は大臣おおおみでした。最初にその役についたんはカヅラキ氏やったらしいです。名前は、

 ツブラ(円)、

 てゆうたらしいです。

 カヅラキ氏の天下は、このツブラのときが絶頂やったようで、そのあと一気に力を失ったらしいです。


 何があったかといいますと、

 獲加多支鹵(ワカタケル=雄略天皇)、

 ていう者が出てきたんですわ。

 ワカタケルは、ワクゴ大王(允恭天皇)の息子で、アナホ大王(安康天皇)の弟でした。

 強烈な性格のお方で、自分より力を持つもんをゆるさんかったようです。

 ほやで、カヅラキ氏をつぶす機会を狙ろとったようです。


 ほいで、あるとき、王家ん中で事件が起きました。

 大王の暗殺事件です。

 ワカタケルの兄君のアナホ大王が、夜寝とるときに刀で刺されたらしいです。

 下手人は子どもやったそうです。

 アナホ大王には妻の連れ子のマヨワていう王子がおったのですが、このマヨワがやったらしいです。

 ほいでな、マヨワの母はツブラの娘やったんですな。

 そいで、マヨワはツブラの館へ逃げ込んだそうです。

 

 これがカヅラキ氏をつぶすためには、二度とない機会になったようです。

 ワカタケルは、マヨワを殺すためていうて、ツブラの館を兵に囲まさせて、焼き討ちしてツブラを殺したらしいです。

 

 ちなみに、ワカタケルはカヅラキ氏の者ばっかり殺したわけではないです。自分の兄を2人も殺しとりますし、従兄弟も2人殺しとります。


 ほいで、大王になりました。


 で、大王になるとワカタケルは自分が殺したツブラの娘を后妃にしとります。

 これは、カヅラキ氏の権威や技術者たちを自分のものにするための婚姻やったと言われとります。 



    二


 ワカタケルはヤマトでの王権を固めると、当時の有力豪族であったキビ氏(吉備氏)の征圧にとっかかります。

 まず、キビ氏の有力者のタサという者を任那ミマナに派遣します。ほいで、その留守を狙ろてタサの妻を奪って妃にします。タサはワカタケルへの反乱を企てますが、果たせず、逆にワカタケルが派遣した軍勢に討たれました。

 殺した相手の妻を奪うというのはツブラのときと同じですな。


 キビ氏にはタサの他にサキツヤゆう有力者がおりました。ワカタケルはこのサキツヤも殺します。サキツヤが不敬なことをしとるとしたんですが、これは虚言ですな。サキツヤはワカタケルが送ったモノノベ氏の兵に討たれました。


 その他の豪族たちは、これらのことに怯えたようで、西はツクシ(筑紫)の肥の国から東はムサシ(武蔵)の国まで、おのおのワカタケルの名前を象嵌した刀をつくり、それを自らの権威の象徴としよりました。裏をかえしますと、不敬な態度がないことの証拠にしよったんですな。


 しかし、このことはワカタケル大王の気に障りました。


 なにせ、自分以外の者が自分以上の力を持つことがゆるせないわけで、自分と対等な力を持つことも気に入らんのですな。ヤマト以外の国のもんが古墳をつくることもゆるさんかったほどですさかいな。

 こんとき問題になったんは、各地の豪族たちの配下にいた秦の衆のことでした。

 秦の衆は土木工事や機織りの技が上等だったばかりでなく、上等な酒もつくりましたし、鉱山を掘って銅や金などをつくりましたし、上等な鉄の刀もつくりました。そういう技術を買われてあちこちの豪族が秦の者をひきとって自分んとこの仕事をさせておりました。各地で獲加多支鹵ワカタケルの名前の入った刀をつくったんも秦の者でした。

 ほいで、ワカタケルはこれが気に障ったようです。


 ワカタケルはカヅラキ氏の下で働いていた秦の衆を自分の手のなかに納めておりましたんで秦の衆の力を知っとりました。それらが各地で自分の刀と同等のもんをつくってることに腹を立てました。


 ほいで、

 「各地に分散してまいよった秦の衆をヤマトに集め」

 ゆいました。

 そん仕事をしたんは秦のサケゆう者でした。サケは酒やったみたいです。姓はキミ(公)でしたので、秦酒公ハタのサケのキミとなりますが、文字はあとからついたんかもしれません。



 秦酒公は酒をつくっとった家の者でしたが、あちこちから秦の者を集めましたら、まず、絹織物をぎょうさんつくりよりました。それをワカタケルの宮廷の前にうずたかく積み上げたそうです。秦酒公はこの功により「氏」をいただき、「禹豆麻佐うずまさ」ゆう姓をもらいよりました。


 こないして、ワカタケルは多数の国や豪族を支配下に置き、その仕上げとしてイセの社(伊勢神宮)の外宮をつくりました。その工事は設計から秦氏が取り仕切りよりました。構造はそれまでだれも見たことのないものでした。それは、秦氏の祖先が移動して歩いとったときの神を祭る儀式のやり方を模したもんで、幕をはりめぐらせた囲みの中に神殿を置く形になっとります。幕では弱いので木の柵にしたようですが・・・・・・。



     三


 ワテの祖先の話でした。


 ワテの祖先はカヅラキ氏のツブラの息子のひとりやったそうです。

 ヤマトにおってはワカタケルに殺される思いましてな、それでツクシ国に逃げたそうです。

 ツクシ国の南側のヒの国(肥後)あたりはワカタケルに怖れおののいてへり下っておりましたし、ヤマトから鏡をもろたりしてましたが、ツクシ国はまだまだ独自にやっておって、ヤマトには負けておりませんでした。

 ツブラの息子にすれば、ツクシ国なら匿ってもらえると思ったんでしょうな。

 ほいで、チヌの海(大阪湾)に船を用意して、かなりの人数を引き連れてツクシ国に入ったようです。


 ツクシ国もこの一行は朝廷の大臣おおおみをしていた者の息子の一族やさかい、ぞんざいにはできず、それなりのあつかいをしてくれたようです。

 ほやけども、ツクシ国の領主からもろた土地はツクシ国の中でも一番辺鄙なところやったみたいです。ツクシ海(玄界灘)に面しとるのは多少便利やったでしょうが、オカのミナト(遠賀川)に沿ってけっこう奥に入ったところで、西も東も南も山に囲まれた行き止まりの細長い土地(筑豊平野)です。東に行けばカミツミケ(みやこ町)があって、東の海(瀬戸内海)に出ますが、峠を越えねばなりません。西に行けばパカタ(博多)がありますけども、けっこうな距離があります。しかし、隠れるにはちょうどいい場所やったでしょうな。

 その村には名前があったようですが、これ以後その村はカヅラキと呼ばれるようになったそうです。

 尚、ツブラの息子はその村ではヤマトにいたときの名前をつかわず、

 コサダ(小狭田)、

 ゆう名前にしたようです。ヤマトにおったときの領地から比べたらずっと狭まなってしもて、それでそんな名前にしたんでしょうな。

 村の東側にはカヅラキ山という小さい山がありましたが、その山のあたりまでがオサダの領地になったみたいです。



    四 


 カヅラキ(葛城)がカツキ(香月)にかわったのは、ツクシ国の領主の、

 イワイ(磐井)、

 ゆう者がヤマトのモノノベ(物部)氏と戦うことになったときです。


 ゆうときますが、イワイは王ではなく、キミ(君)でした。

 ヤマトの大王はヒの国(火国=肥国)や、ミヌマの国(水沼国)などの領主にかばねの「君」を与えとりましたが、ツクシの「君」はそれではありません。それは、ツクシ国の王から与えられた称号でした。ヤマトの大王が与えるかばねの「君」はツクシ国のやり方を真似たもんです。


 イワイは何代か前まではツクシの南西部のヤメ(八女)ゆうところの小さな領主でしかなかったみたいですが、大陸との交易で財をなして大きな領主になりよったんですな。周辺の領主にも顔が利いたようです。

 ほいで、ツクシ王から君の称号をもろたんです。


 尚、ツクシ国は新羅シラギを配下においとりました。

 新羅が金官伽耶や百済といざこざをおこしておったんは、ツクシの王の指示やったみたいです。金官加耶国とその周辺の小国は全部ひっくるめて任那ミマナゆわれてましたが、それらはもともとツクシの王の配下でした。そこにヤマトのホムタ王が大軍を入れて自分の領地にしたんですが、ツクシ国の王はそれを認めておりませんでした。


 そんときのツクシ国の王の名は、

 ホホデミ、

 ゆうたそうです。

 マツラ国(末盧国)の王やったウガヤゆう者の末裔やそうです。

 マツラ国はイト国(伊都国)やらノの国(奴国)やらパカタ国(好古都国)を合併してツクシゆう国になっとったんですが、王家の宮はもとのマツラ国のあたりにまだあったようです。そこにはワテらのような百姓は入られんようになっとりましたさかい、どんなお宮やったんかはわかりません。


 話を戻しますが、任那は鉄をつくっとる重要拠点やったもんで、ツクシ国王もそれをヤマトに明け渡すつもりはなく、新羅をけしかけて何度も紛争を起こしておりました。北の方から高句麗が攻めてきとりましたんで話がややこしいなってましたが、高句麗も任那が欲しかったんでしょうな。


 ほいで、ツクシの君のイワイはヤマトにもええ顔しつつマツラの宮の王にもええ顔しとったようです。大きな領主になるまえはヤマトの宮殿に息子を入れて小間使いみたいなことをさしてた時期があったようです。ほいで、新羅や百済とうまいこと折り合いをつけながら任那の鉄をどんどん持ち込みよって、それで大きなったんですな。


 ところが、ヤマトの大王にこれまでとは全然ちがうスジの者が即位しよりましてな、これが任那の鉄を全面的に支配することにしたようです。ほいで、

 イワイが邪魔や、

 ゆうことになったみたいです。

 その大王は、

 ヲホド、

 ゆう名前でした。

 ホムタ王(応神天皇)の五代目の子孫だそうですが、ウソやと言われております。

 ヲホド王(継体天皇)がヤマトに入ったんはもう老人になってからのことで、それまではワカサ(若狭)におりました。ワカサ周辺の国々を支配下に入れて力はかなりつけとったようです。

 ほいで大王に即位することになったみたいです。


 ワテの親父はそのヲホド王とマツラの宮の王との戦いにまきこまれました。



     五


 「あんたんとこは百人ほど出しんしゃい」

 とイワイの使者はゆうたそうです。

 親父は、

 「わかったで」

 ゆうて酒を出したそうです。

 村にはおそらく2千人くらいはおったんでしょうな。親父はそこの統領やったようですが、ワテはまだ子どもやったさかい詳しいことは覚えておりません。


 合戦は、不知火の海(有明海)の方ではじまったそうです。


 海が真っ黒くなるほどぎょうさんヤマトの船が来よったそうです。

 イワイはその海側の領主のミヌマの君(水沼君)からも兵を出してもろて2万くらいの軍勢を整えたそうです。

 モノノベ氏はオオトモ氏(大伴氏)の軍と合わせて1万ほどの兵をヤマトから連れて来ており、ヒの国の君やらスオウのオオシタのアタイの君(周防凡直の君)やらからも兵を出させてまして、3万くらいの兵を用意したそうです。


 ただし、馬の数はイワイ軍の方が圧倒的に多かったようです。

 ヤマトにはまだ馬がほとんどいなかったらしく、ヤマト軍はみんな歩いとったそうです。ほやから、地の利も考えればイワイのほうが有利やったかもしれません。


 さて、合戦の模様ですが、これがよくわかりません。

 ヤマト軍を討つならば、兵が船から降りるところを弓でねらうのがよかったわけですが、イワイはこれができませんでした。

 ヒの国の軍勢がヤマト軍を援護したそうです。ほいで、イワイ・ミヌマ軍は手を出せず、ヤマト軍が船から降りるのを黙って見ておったそうです。


 おそらくイワイは、

 「かかれ!」

 と言ったと思います。ほやけど、百姓兵は怯えておって動かんかったようです。ヒの国の兵はワテら百姓兵とは種類がちがいますさかいな。


 弓矢の飛ばし合いになったんはミイ(筑後平野)の真ん中あたりやったそうです。 だだっぴろいとこで、えんえんと田が広がっておって大軍同士がぶつかり合うにはちょうどよかったかもしれません。

 ほやけど、そこにはミイ大河(筑後川)が平野の真ん中を流れとります。

 おそらくイワイ軍は川の北側におったでしょうし、ヤマト軍は川の南側で船を降りたと思います。

 大軍同士が正面からぶつかり合うゆうことはなかったのかもしれせん。


 イワイ・ミヌマ軍は半日ほどで解散しよったようです。

 イワイが逃げよったからです。 

 

 ワテの親父がそこで何をしよったのかを子どもんときに何回も訊きましたが、親父はそれには答えたことがありません。村から百人ほどの人数を出して、親父はそれらを率いておったはずですが、結局は何もせんとカヅラキに戻ったんかなと思います。

 ほやけど、話はそれで終わりではありません。


 戦場から逃げたイワイがカヅラキに来よったんですわ。


 そこんところは、ワテも覚えとります。

 イワイは周囲に30名ほどの兵を連れ、輿に乗っとりました。キラキラ光る錦の衣を着ておりまして、翡翠の勾玉を首からさげとりました。頭には何もつけとりませんでしたが、お付きの者が黄金の冠を持って後ろに立っておりました。

 驚いたのはそのイワイの顔でした。

 黒いんですわ。

 日に焼けてたゆうこともあるんでしょうが、真っ黒でした。

 ワテらも日には焼けますが、あんなに黒くはなりません。

 ツクシの地の領主はみんな黒いと聞いとりましたが、それがイワイみたいな者なんやなとわかりました。


 親父はあわをくって家から出てくると平身低頭しとりました。

 イワイはその親父を見て輿の上から言いました。

 「オマエはカスラキの者か?」


 このとき、開いたクチの中が見えました。上の前歯の真ん中の二本がありませんでした。そのせいか「ヅ」の音が抜けて「ス」になっとりました。


 親父は顔を伏せたまま返答しました。

 「へい」


 イワイは、

 「ワシは今晩はここで寝る。どこでんよか。場所ば貸さんか」

 ゆいました。


 そんときはわかりませんでしたが、イワイは身を隠したかったんですな。

 ほいで、隠れるにはカヅラキの村が一番やったわけですな。ツブラの息子もそれでここに来よったわけですさかいな。



 その日、カヅラキ村は大騒ぎでした。

 みんなでイワイの寝るところをつくっとりました。家臣の者のぶんもありますから親父の小屋ひとつでは足りません。なるべく新しい小屋を選んでみんなで掃除してキレイな藁を集めてきて床に敷きました。

 食事の用意もありまして、オカのミナト(遠賀川)に何人か魚を釣りに走りました。雉を捕りに山に入った者もありました。

 料理はワテの母親が仕切りました。


 その夜、ワテとワテの家族は馬小屋で寝ました。


 翌朝、イワイは言いよりました。

 「今晩もここで寝るばい」


 親父も村の衆もみんな平身低頭しましたが、内心はおだやかではありませんでした。

 ヤマトにばれたら皆殺される思ったようです。


 イワイには息子がおりました。

 クズ、

 ゆう名前でした。

 これも黒い顔をしとりました。

 そのクズさまが、

 「東の海ば見に行かんといけん」

 ゆいました。


 カヅラキ山の向こうの山を越えてカミツミケ(みやこ町)に行くことになったんはその3日後の朝でした。

 ワテの兄が道案内することになり、ワテも一緒に行きました。最初は、あかん、ゆわれたんですが、クズさまが、

 「来ればよか」

 ゆうてくれまして、一緒に行くことになりました。

 子どもが一緒にいたほうが怪しまれないと思ったんでしょうな。


 峠を越えて、下りに入ると、遠くに煙りがあがってるのが見えまして、兵士たちの雄叫びも聞こえて来よりました。

 カヅラキ村は静かでしたが、外は大騒ぎやったんですわ。ワテは子どもやったさかい怯えました。


 集落に入ると、そこらじゅうにヤマトの兵士が歩いてました。刀や槍を持っとりまして、みんな怖い顔しとりました。ときどき、

 「イワイはどこや! イワイを出せ!」

 て大声だしとりました。


 地元民はみんな家に引きこもっておるみたいで、通りを歩いとるんは兵隊ばっかりでした。

 港に出てみましたら、ぎょうさん船がついとりました。

 煙をあげとる船がいくつかありました。

 だれぞが火をつけたみたいでした。


 遠くで叫び声が聞こえたんで、そっちに行ってみましたら、イワイの兵らしき者がはりつけにされとりました。

 すでに息は絶えとりました。


 「もうよか」

 クズさまがそう言うと皆で引き返しました。

 ほやけど、簡単には戻られませんでした。

 ヤマトの兵のひとりがワテらを見て怪しんだんですわ。

 クズさまの顔が黒いので目立ったようです。


 「おんどれら、どこのもんじゃ?」

 ゆうてヤマトの兵は肩をいからせました。 クズさまは顔を伏せて上げませんでしたので、兄がへたくそな言い訳をしよりました。


 「ワシらは魚を買いに来たもんです」

 ゆうたんですが、言葉がちがいました。

 魚ば、ゆうたら怪しまれんかった思います。

 魚を、ゆうたんがおかしいゆうことになりました。

 兄の言葉にはカヅラキ村の訛りがありまして、ツクシの言葉とはちがいました。

 ヤマトの言葉に近かったんですわ。



     六


 ワテらは縄で縛られてヤマトの将のところに連れて行かれました。

 将はちょっとした小屋を屯営みやけにしとりまして、イワイの捜索を取り仕切っとりました。百人ほどの兵の長やった思います。


 将はワテらの顔を見まわしてすぐにニヤリとしよりました。

 「そこのもん、やけに黒か」

 て、クズさまの顔を見て言いよりました。

 クズさまは、胸を張りまして、

 「オイはイワイの息子ばい。はよ斬らんか」

 ゆいました。

 将はちょっと驚いた顔をしましたが、次に兄の顔を見ました。

 「ワレ、ヤマトのもんやな?」

  

 この質問に兄は、

 「ちゃいますがな」

 ゆいました。

 そこにいた手下の者たちは一斉に笑いよりました。ツクシの言葉では「がな」はゆいません。


 「なんでツクシにおる?」

 「ワシはツクシのもんだす」

 「ウソをつけ」

 「ウソはゆうてまへん」

 

 そんな会話があって、兄らは死ぬほど殴られました。

 しかし、何も言いませんでした。

 ワテも殴られましたが、子どもやったさかいひどいことはされませんでした。


 ほやけど、結局、ワテらはお咎めなしとなりました。

 兵のひとりがワテの首に刀を突きつけまして、

 「言わんなら殺す」

 ゆうたんですわ。兄はワテの顔を見てゆいました。

 「ワシらはカヅラキのもんだす。ヤマトから逃げてきたもんの末裔だす」

  そうしましたら、将がすっかり驚きよりまして、

 「ワシもカヅラキのもんや」

 ゆいました。

 

 ツブラの息子とその一族はツクシに逃げましたが、ヤマトに残ったカヅラキの者もおったんです。すっかり落ちぶれとりましたが、生きてはいました。将はそういう者のひとりやったんですわ。

「わかった。もう帰り」

ゆわれまして、兄もクズさまも泣きました。


 この将の計らいがあったのか、カヅラキ村にはヤマトの兵は来よりませんでした。 そして、1年半がすぎました。

 村には百名以上もイワイの手のもんが集まっとりまして、イワイは大層立派な館を建てとりました。

 親父はカヅラキを「カヅキ」と呼ぶようになっとりました。

 ヤマトから逃げて来たツブラの末裔やゆうことを隠さんならん思たんですな。


 ほやけど、しばらくすると、

 「ヤマトん兵は、ほとんどツクシから引き上げよっとばい」

 ゆう報告がイワイんところに入りました。


 そん翌日、カミツミケ(みやこ町)でヤマト軍の屯営をはっとった将が数名の兵を連れて村にやって来よりました。

 将はクズさまを呼びつけよってゆいました。

 「ヲホド王さまがあきらめはった。殺さへんから出て来いゆうとる」


 

     七


 クズさまはヤマトの将と一緒に出て行かれまして、そのままカヅキ村に戻ることはありませんでした。

 

 ヤマト軍はイワイがつくったノの津(博多湾)の港をヲホド王の直轄領にしよりまして、クズさまはヤマトのクニノミヤツコ(国造)に任命されました。イワイと一緒に戦こうたミヌマの君も同じくクニノミヤツコに任命されよったそうです。

 尚、イワイは死んだことになり、もともとの本拠地のミイ(筑後平野)の南端のヤメ(八女)ゆうところに大きな古墳がつくられました。


 ほやけども、イワイはワテらの村に死ぬまでおりました。

 で、死ぬとカミツケ(みやこ町)にちょっとした古墳がつくられました。その古墳には鉄矛やら耳飾りやら馬の鞍の飾りやら、玉類やら、鏡やら、輸入した土器やらが一緒に埋められました。

 カヅキ村は「香月」という文字で書かれるようになり、兄はヤマトからかばねきみをもらいまして、香月君となりました。おそらく、これはクズさまのお計らいでしょうな。


 ワテはその頃にはモノノベ氏の兵となってワカサ(福井)に行かされてました。そのためか、香月君はモノノベ氏の末裔ゆうことになりました。カヅラキ氏の末裔ゆうことはここで完全に消えました。

 ただ、一部にはカツラキとゆいつづけた者もおったようで、ワテが死ぬころには、

 桂木、

 という字をあてとるもんがあったようです。


 ワテが死ぬまで不思議に思てたんは、なんでイワイは逃げたんか、ゆうことです。

 本気で戦うとったらヤマトに勝ってたんやないか思うのです。

 交易で財をなした一族のもんやったさかい、合戦が得意ではなかったゆうことはわかります。人が殺し合うのを見るのもいややったんかもしれまへん。

 だとしたら、


 腰抜けやったんかな・・・・・・


 と、思ったりします。

 そんな気持ちがあったもんで、ワカサでは香月とは名乗らず、勝木ゆうことにしました。


 うっかり忘れとりました。

 マツラの宮の王のことですが、ヤマトの兵はお宮をすべて丸焼きにしよったそうです。

 ホホデミ王は一緒に焼け死んだゆうことです。

 

 クズさまがヤマトに献上したノの津(博多湾)の港には多数の屯倉(倉庫)がありまして、その中にはホホデミ王の財宝やらマツラ国の歴史を書いた古い書物などもあったようですが、それらはみんなヤマトの兵が持ち帰ったゆうことです。



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