第5章 秦氏
一
ワタクシは、クチャ国の生まれです。
漢語では亀茲国と書きます。
これはタクラマカン砂漠の北側にあるオアシス国家です。
父はユダヤ人です。
ハドリアヌス(76年~138年)というローマ皇帝に攻められて故郷を追われた者の末裔です。
で、父の祖先はクチャ国のさらに北の山脈を越えたところに村をつくってました。
ゴンユエ(弓月)、
という村です。
父はその村からクチャ国に移住してきました。
クチャ国では葡萄酒やら鉄やら銅やら塩なんかを商っており、それなりの財をなしました。母はソグド人で、父の第二夫人でした。
クチャ国では、あちこちから商人や職人が集まりまして、皆、暮らしぶりはよかったです。黄金をたっぷり貯め込んだ者も多数ありました。葡萄酒は高級なものもよく売れました。
しかしながら、ワタクシは第二夫人の子でしたので父の商売を継ぐような境遇にはなく、王家の奉公人として子どものうちに家を出されました。
ワタクシが王宮に召された日のことは、今でも鮮明に覚えております。8歳のワタクシは長いヒゲをのばした侍従長に連れられて奥へと進みました。
青や緑の鮮やかな色彩で彩られた回廊には仏陀が教えを説いている図などがいくつもありました。何度も角を曲がり、やがて小さな庭園に面した部屋に通されました。
そこにはワタクシと同じようにして召し出された子が5人ほどありました。正面には、高貴な衣装をまとった姫さまが金と銀の細工をほどこした椅子に腰かけておられました。
姫さまがワタクシを指さすと、侍従長はワタクシ以外の子どもたちを下がらせました。
「近う寄れ」
姫さまは澄んだ声を出されました。ワタクシは言われるままに前に進み出ました。
まばゆいお顔が目にやきつきました。
「名を申せ」
「父からはヨセフと、母からはユースフと呼ばれております」
姫さまはそれで、ワタクシがユダヤ人とソグド人の子であることがわかったようでした。それで、
「言葉はいくつ話せる?」
と、おっしゃいました。
「3つのみです」
と答えると、
「そうか、あと4つは覚えよ」
と、おっしゃられ、ニッコリと微笑まれました。
ワタクシはどうしてよいやらわからず、その場にひれ伏しました。
このとき、ワタクシは姫さまに気に入られたようです。
姫さまは後のクチャ王陛下の妹君でした。当時は23歳でいらっしゃいました。そして、すでにお子様がいらっしゃいました。その子こそ、ワタクシが生涯つき従うことになりましたお方でございます。
名は、
クマラジーヴァ、
と、おっしゃいます。
漢語では鳩摩羅什と書きます。
二
姫さまは18歳でご結婚なされました。
お相手は留学僧でした。カシミール(罽賓)という国のバラモン貴族の家の方で、姫さまより10歳は年上だったと思います。
姫さまはけっして旦那さまのお世話をおろそかにすることはありませんでしたが、しかし、旦那さまは、ワタクシが姫さまにお仕えするようになった翌年にカシミールに戻られました。
僧であられましたから修行をせねばならなかったのですが、もともとクチャ国で結婚するつもりはなかったようです。
漢土へ仏法を広めるための旅の途中でクチャ国に立ち寄ったところ、陛下に歓待を受け、陛下の要請で姫さまとご結婚されたのでした。
旦那さまが帰国されると姫さまは悲しまれましたが、それでも息子を育てることを生きがいになされました。
そして、クマラジーヴァさまが七歳になられると、姫さまは息子ともども出家されました。
そして、その翌年、姫さまはクマラジーヴァさまとカシミールに遊学することをお決めになられました。
旦那さまに息子の姿をお見せしたかったのだと思います。
しかしながら、カシミールまでは遠ございました。
姫さまは30名からなるラクダ隊を編成されて、水や食糧などを念入りに手配されましたが、崑崙山脈の北側を越えるときには水も食糧も尽きかけました。高山病で倒れる者もありました。行き会った行商人から高額の銭を支払って食べものを買うことがありましたが、水を売ってくれる者はおらず、難渋しました。
それでも姫さまは気丈にふるまわれ、ラクダ隊の皆をはげまし、なんとかカシミールにたどり着きました。
しかしながら、旦那さまはカシミールにはいらっしゃいませんでした。家財を売り払って修行の旅に出られたそうです。
姫さまは気落ちされましたが、それでも、息子のことに専念されました。
クマラジーヴァさまはバンドゥダッタ(槃頭達多)という高僧の弟子になられ、3年間ほど修行され、主にテーラワーダ仏教を学ばれました。これはパーリー語で書かれたもので、仏陀の弟子たちが仏陀の教えに従い仏陀の教えを口語で伝えたものです。パーリー語はサンスクリット語のような古語ではなく、一般民衆が使っていた俗語なので子どもにもわかりやすかったかもしれません。
3年間のカシミール滞在はあっという間でした。
クマラジーヴァさまはなんでもすぐに覚えてしまわれ、論理だった思考に長けておられたのでバンドゥダッタさまからよく褒められていましたが、この頃はまだ有名人ではありませんでした。
ちなみに、僧院などではよく問答を行います。
これは学業における真剣勝負です。
クマラジーヴァさまはその問答がお得意でした。
何を訊かれても即座にお答えになられ、バチンと手を打って相手を指さしながら質問を返す姿はだれの目にもまぶしいものでした。
3年間はあっと言う間でした。
帰国の途は大変でした。
大量の書物を持ち帰ることになったからです。
なのに、途中で立ち寄ったカシュガル(疏勒国)でクマラジーヴァさまが新しい教えに触れてしまい、そこに1年間も滞在することとなりました。
その新しい教えとはマハーヤーナ(大乗仏教)です。
それをご教示されたのはヤルカンド国(莎車国)の王子のスーリヤソーマ(須利耶蘇摩)という高僧でした。
カシミールで小乗仏教を学ばれたクマラジーヴァさまは、ここで思想転換されました。
後に、クマラジーヴァさまはこのときのことを弟子たちに語るにあたり、
「小乗を学んでいたころは、金の存在を知らずに銅を最上のものと思い込んでいたようなものであった」
などと語られました。
その1年は、ワタクシにとっても貴重な時間となりました。
カシュガルは東西の交易の中心地で、カシミールよりも美味しいものが食べられましたし、いろいろな国の人間を観ることができました。漢人の友人もできまして、漢語を学ぶこともできました。
姫さまに言われたとおり、4つの言葉を新たに覚え、7つの言葉を話せるようになったのはこのときでした。
そして、父が話していたアラム語も読めるようになりました。
これにより、ユダヤの律法、預言書、諸書を読めるようになりました。
帰国後のクマラジーヴァさまはクチャ国の僧院に入られました。
持ち帰った膨大な経典の写本づくりをすすめるかたわら、若い僧を集めて講義をされることもありました。
それから問答もよく行われました。
クチャ国にはいくつも僧院がありまして、それらの中から挑戦者がときどき現れました。遠い異国からの挑戦者も希にありました。相手がみつからないときにはワタクシがお相手をすることもありました。千回に一度くらいはワタクシも勝つことがあり、そういうときはこっそり大酒を飲んで祝いました。
三
クマラジーヴァさまが40歳になられたときのことです。
大秦(前秦)を名乗る王朝の騎馬軍団がクチャ国に攻めてまいりました。兵士の多くは羌族でしたが、漢人や鮮卑族なども混じっていました。
クチャの王は勝てると考え、投降せずに戦うことを宣言しました。
すると、大秦軍は陣地を築き、溝を深く掘り、土塁を高く積んで多数の兵をその土塁の上に立たせました。
クチャの王はこれに気後れし、城内に兵を入れて籠城の構えに入り、私財を放出して西方の遊牧民に援軍をたのみました。
援軍は70万に達したと聞きましたが、この数字は誇張されていると思います。それでも、とにかく、クチャ国は兵数で大秦軍をしのぎました。
あとでわかったのですが、大秦が防塁の上に立たせた兵士たちのほとんどは木の人形に甲冑を着せただけのものだったそうです。
しかしながら、決戦してみますと、クチャ国側の惨敗となりました。
王は珍品や宝物を持って逃走しました。
このとき以来、姫さまにはお目にかかっておりませんが、兄さまと一緒に逃げられたのならよかったと思っております。
大秦の軍が城の中に入ってきたとき、ワタクシはクマラジーヴァさまとともに僧院におりました。
窓から覗き見ていると、軍団はすぐに酒盛りをはじめました。
彼ら蛮族にも高級な葡萄酒の味はわかったようで、兵士たちは浴びるように酒を飲み、その日はそのまま何も起こりませんでした。
大秦の軍団を指揮していた者は、
呂光、
という名前の者でした。
テイ(氐)族の出身でした。
呂光はクチャ王の弟君を新たなクチャの王としました。
これにより、クチャ国の民はもとより、クチャ国の周辺国の王たちも安心し、呂光への忠誠を誓う者が続々と出てきました。
ただし、呂光はワタクシやクマラジーヴァさまにとっては大変なお方でした。彼は大秦の王からクマラジーヴァさまを捕虜として連れ帰ることを命じられていたのです。
そして、その件については問答無用でした。
「来い」
と言われて、ワタクシも一緒にそのまま捕虜となりました。
このとき、呂光はさらなる西征を考えていたようですが、クマラジーヴァさまは呂光のまえに出られ、
「ここは不吉な土地です」
と、おっしゃられ、長安に引き返すよう提言されました。
呂光はクマラジーヴァさまのことを小ばかにしておりましたが、配下の兵たちも帰りたがっており、このときはクマラジーヴァさまの提言を入れて引き返すことにしました。
ところが、東方のターパン(高昌)まで行き、そこで合戦になり、呂光がターパンを征圧したときに驚くべき知らせが入りました。
大秦王の苻堅が淝水に陣を張り、そこで晋と戦ったのですが、百万の軍勢を擁しながらたった8万の軍勢に負けた・・・・・・
ということでした。
このため、長安は混乱状態に陥り、苻堅政権は時間の問題となった・・・という予測が飛び交っているようでした。
呂光はそれでもドゥンフアン(敦煌)で補給を行い、涼州まで行きました。しかし、そこで行軍を止め、涼州の城に腰を降ろすと独立を宣言いたしました。
呂光が涼州に入ろうとした際、これを阻止しようとした大秦の将軍がおりましたが、呂光はその軍勢を破り、将軍を殺しました。
この後、呂光はまず、涼州牧を名乗りました。これは大秦が地方支配を任せた者へ与える官職名です。
が、呂光は翌年には酒泉公を名乗りました。これは王に次ぐ爵位です。
そして、呂光はその翌々年に三河王を名乗りました。これは黄河西岸地域を統治する王ということでした。
そして、呂光はその七年後には天王を称します。これは皇帝に次ぐ称号です。
クマラジーヴァさまは、この間、ずっと城の中に幽閉されておりました。
呂光は閑を見てはクマラジーヴァさまのところを訪ねられ、
「僧をやめよ」
と言い続けました。
そして、戒律を破ることを強制し、酒を飲ませたり、妻帯させたりしました。
クマラジーヴァさまにとってはひどい仕打ちでした。飲酒や妻帯は戒律を破ることですから、クマラジーヴァさまはこれによって破戒僧となりました。
しかし、クマラジーヴァさまは破戒僧となったことよりも、父上のことをしきりにおっしゃられました。
「父も母と結婚した。しかし、父の結婚は菩薩行であったにちがいない。わたしの結婚はそうではない」
ということでした。
女人との合歓は快楽に通じますが、そこに大義があれば他者の利益になります。他者の利益が大きければ個人の快楽はあってなきがごとしです。しかし、クマラジーヴァさまの結婚にはその大義がなかったのです。大義のない快楽は心を溶かします。僧としては、恥ずべきところの極みでした。
クマラジーヴァさまは幼いときに見た父上のことしかご存知ありません。立派な僧であられたと信じておられ、そのこともあってご自分の気持ちを整理することに苦悩されておられたようです。
ただ、呂光はクマラジーヴァさまがクチャ国から運んできた経典や種々の書物を取り上げるようなことはいたしませんでした。それが唯一の救いで、クマラジーヴァさまは勉学に打ち込まれました。
ワタクシは、ユダヤの書を所持しておりましたが、それらも取り上げられるようなことはありませんでした。
幽閉は17年間におよびました。
呂光は14年目に病没し、その後継者争いで涼州は弱体化しました。
そして、そこに姚興さまが軍を派遣され、クマラジーヴァさまは解放されました。
姚興さまは羌族の者で、仏教徒でした。
大秦(後秦)の天王を称していましたが、苻堅の後継者ではありません。苻堅を殺して大秦の皇帝を称された姚萇さまの息子でございます。
四
姚興さまは我々を長安に招き、来賓としてあつかわれました。
そこで、クマラジーヴァさまは国師となられました。
国師とは、皇帝の師でございます。
漢土ではすでに仏教が隆盛となりつつあり、多数の僧が活躍していました。
その漢土の第一の都市であった長安は大都会でございまして、その規模はクチャ国とは比べものになりません。
城壁の内側には数十万の民が暮らし、市場には世界中の品物が集まり、夜になっても灯火が絶えることはありませんでした。
姚興さまは、その長安の郊外にクマラジーヴァさまのための庭園をつくられ、その中に寺院を建立されました。庭園の名前は逍遥園で、寺院は草堂寺と名づけられました。草堂となったのは屋根が草でふかれていたからです。質素で風通しがよく、気持ちのいい僧院でした。この草堂寺は漢土で初めてつくられた国立の訳経所でございます。
クマラジーヴァさまはすでに仏法世界では有名人でしたが、長安に来て国師となられてからは天人のようになられました。
そして、経典の漢訳を開始されると世界中から門弟が集まってきまして、その数は百名を超えました。訳経事業に参加された者たちの総数はクマラジーヴァさまが亡くなられた時点では3千以上であったでしょう。
門弟が増える度に草堂寺は何度も増築され、やがて城のようになりました。
多数の門弟のうち世に名前が響いたのは4名で、それらは、
四哲、
と呼ばれました。
それら4名のうちのひとりに道融という僧がおり、これはクマラジーヴァさまが老いると、その訳経事業の中心人物となりました。他の3名はそれぞれ名を成して独立して行きましたが、道融は最後までクマラジーヴァさまの下で事業を継続しました。
しかし、クマラジーヴァさまも永遠には生きられず、弘始15年(413年)、入滅されました。
享年70でした。
末期の水をさしあげたのはワタクシでした。
遺体は火葬しました。
骨灰は黄金でできた蔵骨器に納め、新たに立てられた舎利塔に保管しました。
入滅間際のクマラジーヴァさまは、
「火葬してもワタシの舌だけは焼けずに残るかもしれない」
と、おっしゃられましたが、そのようなことはありませんでした。
葬儀はかつて見たことがないほど盛大なもので、百名をこえる僧が集まりまして昼夜を問わず読経が続けられ、これが10日以上催されました。
焚かれた香の量は千斤(約222kg)を超えました。
炊かれた米は9千斤(約2t)でした。
葬儀が終わると、草堂寺には米が2千斤、銭が2千貫残りました。
この後、道融は訳経事業の中心人物ではなくなり、クマラジーヴァさまが残された膨大な量の巻子本の整理をはじめられました。
ただ、草堂寺での訳経事業は継続され、建物の増築も続きました。
しかしながら、弘始18年(416年)、姚興さまが逝去されました。
長安はこのときから不穏な状態になり、大秦国内では内紛が絶えなくなり、南側の国境で接していた晋国も国境を脅かすようになりました。
ワタクシは、王を失った国がいかに脆いかを何度も見ておりました。
なので、草堂寺に居つづけることに危険を感じておりました。呂光のような野蛮人が王となって長安を征圧したりすれば、我々のような者がどんな目にあうかを簡単に想像できました。
五
「逃げましょう」
と、道融に言ったのは姚興さまが逝去された翌年でした。
ワタクシは、74歳になっていましたが、まだしばらくは動けそうでした。
道融も歳をとっておりましたが、ワタクシよりはずっと若く、壮健でした。
「しかし、文書の整理がまだ終わっておりませぬ」
と、道融は言いました。
道融はそのとき書庫で巻子本の整理をしていました。仕事に打ち込むことで不安な気持ちをそらしているようでした。
「このままここで一生をすごすつもりですか?」
と、訊ねると、道融は自分のつま先に目をやりました。
巻子本などはいくらきちんと保管していても、建物が焼かれればそれまでです。
そのことを言うと、道融は言いました。
「逃げる先のあてがあるのですか?」
あてはありませんでした。クチャ国は遠すぎました。兵団の援護もなしに行くのは危険でした。
ただ、銭がありました。クマラジーヴァさまの葬儀で残った銭がそのままになっておりました。
で、ちょっとだけ小耳にはさんでいたことがありました。
ウアイ(倭)という国の王が文字を使える者を欲しがっているというのです。
道融のように名のある僧ならば国師待遇で受け容れてくれるかもしれないと思いました。
「ウアイですか?」
と、道融はわたくしの顔を見ました。
「そういえば・・・」
と、道融は言いながら書庫の奥へと歩き出しました。
草堂寺の蔵書は経本が主でしたが、そればかりではありませんでした。西方の歴史や文化や地理に関するものもあり、我々はそういうものを漢語に訳す仕事もしておりました。そして、参考資料として古い歴史書などもありました。それらが奥の棚にまとめて置かれていました。
古い書物は紙ではなくて竹簡に書かれてありました。
道融は大汗をかきながらそれらの中から大きなひと束を降ろし、
「これは、魏の時代の書物のうちの東夷伝です」
と、言いました。
広げてみるとウアイについての記事がありました。
女王国に内乱があったが収まったというようなことが書かれてあり、草深い田舎であるような記述があり、水人は沈没して魚や蛤を捕る、とか、薑、橘、山椒、襄荷があるが、それを使って滋味を出すことを知らない、とあり、また、婦人は貞節で嫉妬しない、とか、窃盗せず、訴訟も少ない、というような記述もありました。
質素で穏やかに暮らす人々が、いざとなると果敢に戦うという情景が浮かびました。
「仏法を伝えるには理想的な国ですな」
と、ワタクシは言いました。
道融の目にも輝きが現れました。
場所については、帯方郡から南東に向かって1万2千里で都に着くとなっていました。
「帯方郡とはどこだろう?」
と、ワタクシが言いますと、道融は、
「昔の地名です。もうありません。百済のあたりです」
と、言いました。
「船を用意して黄河を下り、百済までたどり着けば、あとはなんとかなりそうです。ウアイは百済と同盟しています」
と、ワタクシは自分が知っていることを言いました。
道融は、
「遠いですなあ」
と、言いました。
ワタクシは笑いました。
ワタクシにとってはすぐ隣の国に思えました。
クチャ国からの旅を思えば1万2千里などは旅のうちには入りません。
その夜、長安の城郭内で騒乱がありました。多くの家屋が焼け、死人も多数でているようでした。草堂寺は城郭の外にあったので騒ぎにまきこまれることはありませんでしたが、僧たちはみな不安な顔をしておりました。
翌朝、ワタクシは手の者を集め、ウアイ(倭)について調べさせました。
王の名はホムタ(品陀)となっていました。国号は、
ダァイウアイ(大倭)
となっていました。
強大な兵力を持っており、高句麗や新羅と戦っているようで、鴨緑江まで攻め登ったことがあるようでした。
金官伽耶に大きな拠点があり、本拠地は細長い南の島の奥の方にあるようでした。
高句麗と戦えるほどなら大変な強国だ、
と、皆が言いました。
ただ、気になることがありました。そこには二つの王朝があるようで、金官伽耶の対岸にも別の王がいました。その王の国は、
ツクシ、
と呼ばれていました。
しかし、ツクシはすでに文字をつかっていたようでした。
我々を高く買ってくれそうなのはダァイウアイのホムタ王でした。
ホムタ王の国は軍事的には優れていても、まだ文字をもっておらず、暮らしぶりは未開のままのようでした。
六
ワタクシは50名の僧を選びました。
「残りの者は現地の様子を見てからあとで呼び寄せる」
と言いました。
皆、不安そうな顔でした。
50名の代表者は道融としました。
道融はワタクシに代表になってもらいたかったようですが、わたくしは僧ではありませんでした。
ホムタ王への土産には織物や紙や酒を用意しました。
同行者には酒づくりの職人や鍛冶の技術者や馬具の技術者や養蚕の技術者なども加え、護衛の者も含めると人数は百名以上になりました。
運び出す巻子本の数は千を超え、これには経典以外のものも多数ありました。この他の大きな荷物としては錦を織る機械がありました。
尚、我々が長安を出ることは内密にしておきました。
新たに即位した姚泓は弟たちとの争いで忙しく、我々を支援することはできなかったでしょうし、我々の脱出を喜ぶはずがありませんでした。
我々はまず黄河に出ねばなりませんでした。蒲州というのがもっとも近い黄河の港で、そこまでは400里でした。
馬や駱駝を使い10日間かかりました。
この陸路のためだけに百人の兵士を雇いましたが、それらにも僧服を着せました。そして、先頭の兵には仏教のハン(幡)を持たせました。これは、三角形の旗の下に帯状の飾りを垂らしたものです。仏に仕える者を襲う者は少ないだろうと思われたからです。
途中、何度か秦の兵士たちの検閲を受けましたが、道融の名前を出すと通されました。
事前に手配しておいた船はかなり大きなものでしたが、すべての荷と人員を乗せるためには10隻でも足りませんでした。各船には船員も乗るからです。
船員たちはあらくれ者が多くいましたが、我々に害をなす者はおりませんでした。
百済までの船旅は20日ほどかかりました。
途中、何度か雨が降りましたが、嵐には遭いませんでした。
百済にはいくつか大きな港がありましたが、ワタクシは漢江に向かうよう指示しました。
漢江が見えてくると、多数の小舟が寄ってきました。乗っていたのは百済人ではなく、ウアイ人(倭人)でした。
「何者だ?」
と問われたとき、船頭は、
「晋だ」
と、答えました。
百済は秦とは交流がなく、晋との関係が深かったからでした。
船を降りると、驚くべきことが耳に入りました。
・・・・・・秦が滅んだ、
というのです。
我々が黄河を抜けた直後に晋の将軍が黄河に軍を入れ、秦の軍と激突し、秦軍を破って長安に攻め込み、秦の王を捕らえた、ということでした。
「草堂寺はどうなりましたか?」
と訊ねてみましたが、そこまでの情報をもっている者はおりませんでした。
ただ、我々は大歓迎を受けました。晋から来たと言ってしまったからです。
道融とワタクシは首都の漢城に招かれ、久爾辛王の謁見を受けることになりました。王は祖父の代から仏教を保護していました。
しかし、道融の名前を出すと秦国から来たことばれるので、その名は伏せました。
道融は代表として王に何を言うべきか迷っていました。
ワタクシは、その様子を見て、
「すべて正直に伝えましょう」
と言いました。
秦の者だとわかっても僧を殺すようなことはないだろうと思ったのです。
広間に通されますと、久爾辛王は一段高くなった床の上の玉座に座っておられました。耳には黄金の飾りがついていました。頭にも金属の飾りがありました。
まだ若く、おどおどしたような態度でした。あとでわかったのですが、この王の母はウアイ人(倭人)でした。
王は道融の話を聞き、声をあげました。
「ウソを申したか!」
しかし、案の定、我々に害をなすことはありませんでした。
道融の名前は王も知っておられたようで、援助を申し出ていただけました。
そして、
「晋の者には黙っておくから、今すぐここを出ろ」
と、言いました。
ただ、このとき、
「おまえたちは秦の者ではない。どこから来たのかをもう一度申せ」
と言われました。
王としては、秦の者をかくまったと言われることが怖かったようです。
わたくしは、クチャ国から来たとは言いませんでした。クマラジーヴァさまの門弟であるとなれば秦から来たことになるからです。
それで、自分の父の出身地を言いました。
ゴンユエ(弓月道)です。
百済人にはその発音が聞き取れませんでしたので、漢語で文字にして渡しました。
ワタクシと道融が港に戻ると、そこにはウアイ人が待っていました。
多数の武士を指揮していたひとりのウアイ人は我々に気づくと、
「ヤマトに連れて行ってやる」
と言いました。
港に残った者たちがウアイ国に行きたいのだとウアイ人たちに話してしまっていたのです。
しかし、ワタクシはヤマトという地名を知りませんでした。
「それはどこですか?」
と問いますと、
「ダエワェの都だ」
と言いました。
そのダエワェは百済の発音でした。それが「大倭(大和)」のことだとわかるまでにはしばらくかかりました。
ワタクシたちの船団は漢江を出たあと、海岸線沿いに南下し、半島を東にまわりこんだところで金官伽耶という国の港に停泊しました。この間、何度か港に寄り、水や食糧を補給しましたので、金官伽耶でも水や食糧を補給するだけだと思っておりました。しかしながら、我々はそこで船を降ろされました。
新羅と金官伽耶との間に紛争が起きており、これを平定するためにホムタ王の軍が来ていて、港の人員はそのホムタ王の軍への補給で忙しく、ワタクシたちの船への補給ができないということでした。
ヤマトへ向かうにはまだ数千里の航海をせねばならず、補給をせずに出発することはできませんでした。
足留めを食ったのは10日間ほどでした。
突然、ホムタ王の軍勢がヤマトに戻ることとなり、これと一緒にワタクシたちの船団もヤマトに向かうこととなりました。
何が起きていたのかはよくわかりませんでしたが、新羅に寝返って金官伽耶に軍勢を出していたヤマトの将のひとりが逃走した、ということだったようです。
その将の名は、
サチヒコ、
というようでした。
ツシマ(対馬)、オキシマ(隠岐の島)を経由して、我々はウァカサ(若狭)という港に着きました。
港にはホムタ王の使者が出迎えてくれておりました。
草堂寺を出てから55日が経過しておりました。
七
ホムタ王の宮殿はカハチ(河内)というところにありました。ウァカサから陸路を3日ほど歩くと大きな湖に出ました。海のように大きいためか、アハウミ(琵琶湖)と呼ばれていました。そこから船に乗り、カハチには翌日着きました。荷物はすべてホムタ王の配下の者に運んでいただきました。
王の宮殿は質素なものでした。
茅葺きの屋根を支える柱には礎石がなく、地面に穴を掘って直接そこに立てられており、床は舗装されておらず、板をはっただけのものでした。部屋数も少なく、壁にはなんの装飾もありませんでした。
王の座は一段高くなっていましたが、椅子がありません。敷かれてあった敷物は木綿のようでした。ホムタ王はその木綿の敷物の上に直に座っておられました。
服装も質素で、頭からすっぽりかぶったような衣を着ておられ、その生地には模様はありませんでした。首からは研いた石をぶら下げておられ、これは玉のようでした。耳たぶに百済王のものとよく似た金属の飾りがついていましたが、頭には何もかぶっておられませんでした。耳飾りだけが光っていて、それが奇異な感じでした。
ホムタ王のお顔は武人でした。
怖ろしい表情をされておりました。
ただ、意味もなく周囲の者に暴力を振るうようなお方ではないようでした。
「よく来た」
というようなことをおっしゃられましたが、言葉はわかりませんでした。
ただ、ワタクシたちを大いに歓迎してくださりました。
期待外れだったのは、ダエワェ国には国師という地位は存在せず、仏教についての知識を持っている者もなく、道融もワタクシも客人というあつかい以上のものにはならなかったことでした。
それでもホムタ王は我々がダエワェ国に居住することをゆるしてくださいました。
我々に与えられた村には名前がありましたが、ワタクシたちはクマラジーヴァ(鳩摩羅什)さまの名前から一文字をいただき、
斑鳩
という文字をあてました。純粋な弟子以外にも様々な者が混じっていたので「斑」という文字を足しました。
尚、ホムタ王には百済から手紙が届けられてあり、それにはワタクシたちの出身地が、
弓月国、
と記されておりました。
のちに、ワタクシたちがダエワェ国の記録を書くことになったときには、百済王のことを思い、自分たちの出身地を、弓月国、と記しました。
しかしながら、我々が秦から来たことは周知のこととなっており、ホムタ王は我々のことを、
秦の衆、
と呼ばれました。
ちなみに、ホムタ王の国にはまだ上質な酒をつくる者がおりませんでした。
ワタクシは、秦国から連れてきた職人に米の酒をつくらせまして、それを王に献上しましたら大層よろこばれました。
あるとき、ホムタ王はひょっこりワタクシたちの村を訪ねられました。
護衛の兵も連れず、裸足であられました。
一同、大いに驚きまして、草履をお渡ししましたら嬉しそうでございました。
このとき、王は、
「秦なる国はいつごろからあるんや?」
と、おっしゃられました。
それで、ワタクシは姚興さまの名前を出し、その父の代に興した国だと答えましたが、ホムタ王は姚興さまをご存知ありませんでした。
それで、苻堅の名前を出しましたが、これもだれだかわからぬようでした。
そこで、
「始皇帝はご存知でしょうか?」
とお尋ねしましたが、これも通じませんでした。
それで、
「シコーテー」
と、発音を倭語風にしてみましたら、
「聞いたことがある」
と、おっしゃられました。
それで、ワタクシたちはこのときから始皇帝の末裔を称することとしました。




