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第8章 あとがき(内容解説)

 わたしは勝木という者ですが、北海道生まれです。

 父方の曾祖父の実家は福井県で水田稲作をしていたようですが、曾祖父は農家の仕事をやってられなかったらしく、田畑を質に入れて博打に興じ、勘当されて札幌に流れてきたそうです。

 Y染色体は弥生人です。

 父は酒に弱く、そのへんは弥生人の遺伝子のようです。


 

 縄文人と弥生人のちがいについては昔から多少の知識がありました。井上光貞先生の「日本の歴史1」や佐原真先生の考古学に関するご本などを読んで感心しておりました。

 しかし、だんだんと疑問を感じるようになりました。

 縄文人は弥生人に呑み込まれてしまってもともとの生活様式を失い、農耕民になったか、そうでなければ絶滅した、というストーリーが当時の主流だったのですが、そうなのかなと思うようになりました。


 世間を見わたすと、そこにはいろんな人がいます。先祖代々農家をやってきたんだろうなと思われるウチの父のような人間もいますが、そういう人ばかりではなく、この人はどこまで祖先をたどっても農家はやったことがないんだろうな、と思われる人もいます。戦国時代の武将などは、

 ・・・・・・地味な百姓などやってられるか、

 ってなもんで、一発勝負で豪勢に暮らしたい、というような人たちだったように見受けられます。

 で、そういう人たちというのは、実は弥生人の末裔ではないんじゃないかなと思うようになりました。弥生人というのは実はそういう人たちの下でずっと飼い殺しのような境遇に置かれていたのではないか、という気がしました。


 それで、107年に後漢に朝貢した倭国王帥升が縄文人だったとしたら面白いなと思い、その風景を小説風に描いてみました。

 そして、その帥升が後漢に献上した生口160人というのは弥生人で、 


 ・・・・・・弥生人というのは縄文人の奴隷だった、 


 と考えました。


 尚、学術的には、最初の弥生人がどういう経緯で北部九州にやってきたのかはいまだに解明されておりません。多くの先生がたの説によれば、弥生人が稲作の技術を持って日本にやってきた、というだけのことになっています。


 黒潮に乗ってたまたま流れ着いた、というような説もありますが、それはちがうだろうと思います。弥生人は狩猟民ではなくて、はじめから専業農家の人たちだったみたいですから、縄文時代の日本のどこかに漂着したのならこれはロビンソン・クルーソーのようなものです。まずは自分の家に帰ろうとするでしょうし、それができなければ餓死したでしょう。縄文人に助けられたとすれば生き延びられたでしょうけども、しかし、そこで稲作をはじめるなんてことは想像できません。


 森や野原に畑や田んぼをつくるというのは大変な作業です(わたしはやったことないです)。最初の収穫までには最低でも半年はかかるでしょう。5人や10人ではできません。

 少数の農耕民が狩猟採集民に助けられたなら、農耕はあきらめて狩猟採集民に同化するはずです。


 はじめから稲作をするつもりで北部九州にやってきたのだ、という説もあるようですが、その様子もちょっと想像できません。

 船に農耕具を積み込んで、最初の収穫までの食糧も積み込んで、百人とかの集団でやって来たのだとすると、どのくらいの荷物になるでしょう?

 それほどの荷物を運ぶにはかなりの大型船が何隻も必要になるでしょう。それほどの初期投資をして、その目的地は藪と森と山ばかりの縄文時代の日本ですか?

 追いつめられてどこかに逃げねばならなかったとしても、縄文時代の日本に来るというのは投資効率が悪すぎます。


 しかし、奴隷として縄文人に連れて来られたのだとすると話はすんなりつながります。縄文人も小規模な家庭菜園程度の農業はしていたわけで、大陸にわたって交易のようなこともしていたようですから、

 ……大陸なみの大規模な水田をつくるべし、

 と決意して、そのための労働者を大陸から連れてきた、というのであれば、そこから大規模な稲作がはじまる情景が目に浮かびます。


 尚、稲作は長江流域または珠江流域から日本に入ったとする説がありますが、その地域の人たちのハプログループ(祖先を見分ける遺伝情報)は弥生人のハプログループとは一致していないようです。それらの地域の稲作文化が朝鮮半島経由で日本に入ったというのも無理があるようです。長江近辺から北をまわって朝鮮半島に入るとなると、経路の途中が米を作れない地域であるためです。稲作分化を持った人たちが山東半島から遼東半島に渡ったという説もあるみたいですが、リアリティを感じません。長江流域の人たちのY染色体を持った人が朝鮮半島にはほとんどいないらしいのです。


 結論としては、朝鮮半島の稲作は北部九州から輸出されたもののようです。

 弥生人は朝鮮半島から渡来したのではなく、縄文人に連れられて北部九州から朝鮮半島に渡っていったようです。

 東京大学大学院は、朝鮮半島の三箇所(群山市、安島、金海市)から出た人骨が弥生人と同系統の者である、ということを論拠として弥生人が朝鮮半島から渡ってきたと結論づけていますが、その三箇所のうちのひとつである安島の骨のDNAは弥生人のものでも縄文人のものでもないようです。もうひとつの群山市から出た人骨のDNAも弥生人とは別のものだったようです。ただ、その骨が甕棺かめかんに入れられていたので弥生人と同系統とされてるようです。が、甕棺墓による埋葬方法が朝鮮半島由来だという証拠はないようです。

 DNAが弥生人と一致したのは金海市から出た人骨ですが、その遺跡は縄文人の墳墓です。

 金官伽耶国の金海大成洞古墳群という遺跡がそれなのですが、そこの12号墓の墓主は縄文人のY染色体ハプログループである D1a2a1 に属していたようです。で、殉葬者が現在の韓国人(3割ほど)にみられるY染色体ハプログループ O1b2a1a2a1b1 に属す男性であることが判明したそうです。

 O1b2a1a1…であれば弥生人で、O1b2a1a2a…ならば韓国人となります。その末尾が2b ならば漢人になるようです。それらはどれも弥生人と同系統だそうです。ただ、この金海市の弥生人は、縄文人の奴隷として殉死させられていたわけですから、もともと朝鮮半島にいた人というよりは北部九州から縄文人に連れられて朝鮮半島に渡った人の末裔でしょう。


 弥生人が朝鮮半島から来た人たちではないとすると、いったいどこから来たのか、ということになります。


 O1b2a1a・・・というY染色体を持つ人が主流である民族がどこかにいれば、その人たちの一部が北部九州に入って縄文人と混血して弥生人になったということになるのですが、そういう民族は古代にも現代にもみつかっていないようです。 ちなみに、朝鮮族や漢民族の主流は O1b2a ではないそうです。どちらも過半数が O2 系だそうです。

 弥生人は北東アジア系の民族が縄文人と混血したものだと言われてますが、実際には北東アジアの主流も O2 系だそうです。O1b2a1もわずかにはみつかるようですが、10%以下であるそうです。

 弥生人は水田稲作をした人たちなので長江流域から来たのだという説がありますが、長江流域の古人骨でO1b2a1がみつかったことはないそうです。現在の長江流域の人たちにもほとんどいないようです。

 くり返しになりますが、過去においても現代においても、O1b2a1が主流となっている民族というのは発見されていないようです。


 オリジナルの民族がすでに絶滅していて、そこから枝分かれした子孫だけが各地に生き残っている・・・・・・というケースは人間社会ではわりとあるようです。とくに、王朝をつくってその下で寄り集まったような状況にある民族の場合、その王朝が他民族に征服されたりすると民族自体が絶滅してしまうことがあります。征服した側は女子を奪って子を産ませますけども、男子を優遇することはまずありません。大陸では、征服された民族の男子はほとんど皆殺しになりますし、生き延びても生活基盤が失われるので男子のY染色体は短期間のうちに消滅してしまいます。

 この点を踏まえて弥生人の起源を考えますと、それは日本列島に入ってくる少しまえに滅亡した王朝の民であろうと思われます。

 時代的には紀元前1000年頃でしょう。北部九州で水田稲作がはじまったのがその頃のようです。

 で、その頃に滅んだ王朝を探してみましたら、ありました。


 紀元前1046年に滅んだショウ王朝です。


 一般にはインと記されてますが、これは商を滅ぼした周の民がそう呼んだもので、実際には殷王朝というのは存在しなかったようです。殷の民は自分たちの王朝を「商」と記していたそうです。


 で、周の民は商の民を殷人と呼び、これを奴隷にしたそうです。


 尚、商の最後の首都であった殷墟からは多数の骨が出ているようですが、発掘されたのが昔であったために保存状態が悪く、商王朝時代の人骨でDNAを解析できたものはないらしいです。

 なので、証拠はないのですが、弥生人の祖先が商の民である可能性は高いと思います。ちなみに、これを否定する証拠もありません。


 おそらく、縄文人は黄河の河口あたりの市場などで奴隷として売られていた殷の民を買い、北部九州に連れ帰って水田の開墾作業などをさせたのでしょう。


 この作品では、奴隷として買われて来た最初の弥生人は水稲栽培を知らなかったとしましたが、商王朝は水田稲作をしており、これを滅ぼした周王朝も水田稲作をしていたようです。ただ、奴隷となってしまった民には教育を受けるチャンスがほとんどなかったでありましょう。市場で売られていた奴隷には水稲栽培の技術はなかったと考えました。青銅器をつくる技術などもなかったと思います。



 尚、縄文人が北部九州で支配階級を形成していたとことを証明する文献などはありません。

 ただ、北部九州の古墳に埋葬されていた人骨に抜歯をしたものがあり、これが縄文人の文化を継承した者の骨であろうと想像されています(縄文人には歯を抜く風習があった)。古墳時代に至ってもそこには縄文系の人物がいて、これが古墳に埋葬されていたのだとすると、弥生時代を通じて縄文系の人たちが支配階級をなしていたということになります。

 そう考えて5世紀頃の北部九州の装飾古墳の内装を観ますと、それらは明らかに東アジア系の装飾ではありません。東洋系というよりも、アフリカ系に近いです。縄文人は東南アジア経由で日本列島に入った人たちのようですが、共通の祖先であるホアビニアン系の人たちは黄色人種ではなく、アフリカ人に近いです。縄文人の血が薄い地域である畿内などの古墳の壁画などは中華文明系の絵ですが、北部九州の支配層はそれらとは別系統の人種だったろうと思われます。で、それは縄文人だったと思われます。

 北部九州で最初に水田稲作が行われた時期の遺跡(菜畑遺跡 板付遺跡)からは縄文晩期の土器が出ています。このことは、最初に水稲栽培をはじめたのが縄文人だった可能性を示唆しています。

 

 また、弥生人の核ゲノムの解析からも縄文人と弥生人の関係がうかがえます。


 佐世保市の下本山岩陰遺跡から出土した弥生後期の人骨の核ゲノムの6割ほどが縄文人由来のものだとわかっていますが、弥生人と縄文人がそれぞれ別々のコミュニティで暮らしていたならば、縄文人のゲノムが六割も残っているはずがありません。弥生人は稲作をしてどんどん人口が増えますが、縄文人は狩猟採集生活でほとんど人口が増えません。

 縄文時代末期の縄文人の人口は6万人から7万人ほどだと推計されていますが、弥生時代後期の日本列島の人口は50万〜60万人と推計されています。弥生人と縄文人が別々に対等な関係で暮らしていたのであれば、弥生後期の弥生人の核ゲノムにおける縄文人の比率はほとんどゼロであったでしょう。なのに、縄文人由来のゲノムが6割というのは、縄文人と弥生人の間になんらかの共生関係があり、しかも、その社会的地位では縄文人のほうが圧倒的に優位であったとしか思われません。


 ちなみに、そういう現象が北アメリカで起きています。奴隷として連れてこられたアフリカ人の女子は奴隷であったときに主人である白人の子を産むことが多く、今現在の北アメリカの黒人のほぼ全員が純粋なアフリカ人ではなく、ほぼ全員が白人の遺伝子をもっているのです。


 佐世保の弥生人のゲノムの半分以上が縄文人由来であるということは、弥生人が日本列島に入った初期段階で、半数以上が縄文人と混血したということであり、縄文人の子は子孫を残しやすかったということです。


 尚、山口県の土井ヶ浜遺跡からは弥生前期(紀元前5〜3世紀頃)の骨が300体も出ています。そのうちの一体についてゲノム解析が行われましたら、縄文人由来のゲノムは1割程度しか検出されなかったようです。

 佐世保の骨は弥生後期(1世紀〜3世紀頃)のもので、山口県の骨は弥生前期(紀元前5〜3世紀頃)のものだそうです。前期の骨の縄文比率は1割で、後期の骨は6割ということなのですが、このデータをどう読むかは難しいところです。東大大学院は佐世保のデータを無視することにしたようです。

 が、これも渡来人が縄文人の奴隷であったとすると説明がつきます。

 佐世保を含む北部九州は奴隷の輸入の窓口であり、そこには縄文人が支配層となっているクニがあった、とすると、そこから出た弥生後期の骨の縄文比率が高かったことが説明できます。

 で、北部九州の水田稲作は紀元前3世紀頃から一気に北陸方面にまで伝播したようなのですが、これは余った奴隷を輸出するようになったためだと解釈できます。輸出された奴隷は支配層との縁の薄い者であったでしょうから、それらの縄文比率が低くなるのは当然のことと言えます。


 尚、今現在の日本人男性の約3割は縄文人のY染色体を持っているそうです。が、核ゲノムにおける縄文人の比率は1割程度だそうです。混血の比率では1割なのに、Y染色体が3割も残っているという現実を説明するには、弥生人が縄文人の奴隷であったとするとすんなり落ちます。弥生人の男子が縄文人の女子に子を産ませることはほとんどなく、もっぱら弥生人の女子が縄文人の子をたくさん産んだということになるわけです。


 そういう日本のなかでも、縄文人の血統が比較的に濃い地域と薄い地域があるようです。

 濃い地域は東北、島根県、鹿児島県、沖縄県あたりで、縄文人の血統が薄いのは四国、和歌山県、奈良県、三重県、滋賀県、福井県、あたりみたいです。

 濃いところというのは米がつくれない地域であり、弥生人も渡来人も入って行かなかったところだと思われます。で、薄いところには弥生人や渡来人が多かったのだろうという話になりそうですが、もうひとつ別の要素もあったと思われます。


 身分制度が緩やかだった、ということです。


 身分制度が厳しい土地では縄文人の血統が支配層として長く残り、身分制度がゆるやかだった土地では早くから混血が進んで縄文人の血統が薄くなった、ということもあると思います。


 弥生人や渡来人の玄関口となった北部九州では縄文系の血統が消滅していても不思議がないわけですが、実際にはそうなっていません。これは、そこに厳しい身分制度があって、支配層が縄文系の血筋を守っていたからだと思われます。


 いわゆる魏志倭人伝によりますと、倭国には四つの身分があったことが記されています。

 大人、下戸、生口、奴婢、

 の4つです。

 奴婢は卑弥呼の墓に埋められたそうですから、これは奴隷以外の何者でもありません。

 生口も後漢や魏への献上品だったわけですから、奴隷のようなものでしょう。

 下戸は一般庶民という雰囲気ですが、それでも道で大人と遭遇すると草むらに土下座して大人に道をゆずったようです。


 弥生人が生口や下戸と呼ばれた奴隷階級の者だったとして、それらの輸入元だった北部九州では奴隷身分の者を差別する風土が強かったろうと思われます。大陸から連れてきた時点での奴隷たちは言葉も通じず、生活様式もちがうのです。

 しかし、四国や畿内では、その差別意識が薄かったろうと思われます。四国や畿内に入った奴隷は大陸から直に輸入されたのではなく、北部九州から輸入されたと思われるからです。

 北部九州に入って何世代も経た弥生人たちは、言葉も通じますし、生活様式もあまり変わらなくなっていたはずです。それらを商品として売っていた者たちは見栄えがよくて従順な者を選んで送りだしたでしょうから、買う側はそれらの奴隷を歓迎したでしょう。で、あまりひどい身分制度はできあがらなかったろうと思います。

 このため、支配層にまで混血が進み、縄文系の血統は薄くなったろうと思います。


 天皇家の血統(Y染色体ハプログループ)が縄文系なのか渡来系なのかはわかりませんが、ヤマト朝廷の支配が早くから根づいた地域では縄文人の血統が薄いようです。ヤマト朝廷では奴隷を墓に殉葬するようなことをやめて、奴隷の代わりに埴輪を埋めるようになったようですが、それは身分制度がゆるやかだったからでありましょう。

 尚、天皇家が縄文系のY染色体をつないできていたのならば、その落とし胤などは地域の名士になるわけで、畿内とかでもある程度その血統が濃く残ったのではないかという気がします。ヤマト朝廷の支配圏で縄文系が薄いということは天皇家は渡来系なのかなと思ったりします。


 ですが、高い身分の者のDNAは下々の者たちには行き渡らなかったのかもしれませんし、断定的なことは言えません。


 とりあえず、この作品では、天皇家の祖もマツラ国の縄文人のY染色体を持ったタギリの末裔だったとしてあります。


 ちなみに、奴隷身分になっていた者が天下をとって天皇になったということはないと思います。そういう事例を聞いたことがありません。奴隷身分だったのにローマ軍と戦ったスパルタカスの事例がありますが、結局は革命を興すところまでには至らずに戦死したようです。奴隷身分だった者が階級闘争をして平民になるということはあるようですが、支配層に取って代わるということはないだろうと思います。

 オバマ大統領の例がありますが、これは現代の民主主義社会の現象です。王侯貴族が支配層になっているような社会では生じない現象だと思います。それに、バラク・オバマは奴隷の子孫ではありません。父親はケニアのニャンゴマコゲロ村出身です。母親はアメリカ人ですが、これは白人です。


 なので、天皇家の血統が渡来系であったとしても、これが奴隷の末裔であった可能性は低いと思います。

 弥生時代の中期頃には米の生産も飛躍的に増えていて、その米を目当てに自分たちの意志で日本列島に入ってきた渡来人が多数あったと思われます。それらは盗賊団のような組織をつくって弥生人の村々を襲い、そこに国をつくったかもしれません。

 実際に、愛知県清須市の朝日遺跡では、弥生時代中期に支配層の交代があったことが確認されています。それまでの支配層は縄文時代からそこに住んでいた者の末裔だと思われますが、交代した支配層は渡来人でした。

 ヤマト朝廷がそういう経緯で成立した可能性も否定はできません。

 

 尚、この物語はマツラ国が滅亡するまでを描いております。

 なぜマツラ国(末盧國)なのかといいますと、マツラ国があったと思われる松浦半島は縄文時代がはじまる直前まで対馬とつながっていたみたいなのです。当時も対馬海流は流れていたようですが、川に近いものだったようです。

 その松浦半島の先端には古代の先進文明の拠点があり、対馬海峡をはさんだ対岸から大陸を監視していて、その拠点が縄文時代を経てマツラ国となった、という設定になっています。


 実は、この作品は別のもうひとつの作品の後編にあたります。

 前編となる作品は、太古の昔の先進文明を描いたものです。その文明圏の人たちは、大陸に農耕文明が発生することを怖れていて、どこかで農耕をはじめる者が出てくると軍勢を派遣してことごとくその集落を焼き払った、ということにしてあります。

 縄文人が1万年以上も大規模な農耕をしなかったのは、その軍団の拠点が松浦半島にあったから、というのがこの作品の土台となっています。


 縄文人が農耕をはじめたのは、大陸に派遣した軍勢が現地人を支配下に入れて王国をつくったりして、それらと対抗するためには大規模な農場が必要になったから・・・・・・としています。

 農耕を開始すると各地の農場主が独立するようになり、マツラの国はどんどん孤立していき、縄文海進で多くの土地を失い、何度も都を内陸側に移転しているうちに種々の技術も失われていった、ということにしてあります。

 奴国や邪馬臺国はそういうマツラ国の衰退期に台頭した新興勢力で、短期間のうちに消滅した、という設定にしてあります。


 ちなみに、そういう設定にしてあるのは、ただストーリーを面白くするためということではありません。

 縄文人はアフリカを出たホモサピエンスが東南アジア経由で4万年まえ頃に日本列島に入って独自の文化を持ったものらしいのですが、これはニューギニア人やアボリジニやタイの山中で暮らすマニ族(ホアビニアン系民族)などと共通の祖先から枝分かれした人たちだったということです。が、それだと縄文人の文化レベルが高すぎます。

 縄文人が世界に先がけて土器や磨製石器をつくるようになった経緯には、なにか大きな要因があったにちがいないと思われます。で、先進文明を持った太古の民族が縄文人たちに文化面で影響を与えたとしました。

 マツラ国の伝承の中に古代の西アジアの記録があったとしたのは、そういうことです。


 ちなみに、古事記の神話がマツラ国の古文書を参照して書かれたというところは、フィクションです。

 ただ、西アジアの神話や伝説が日本に入って来て、それが日本神話として書かれたということはあったと思います。

 ヒッタイト王国(紀元前1680年頃〜紀元前1190年頃に存在したアナトリアの国)には実際にハットウシリ三世という名の王がいまして、これがエジプト王のラムセス2世と世界最初の平和条約を結んでいます。そのヒッタイトの神話にはイルヤンカという大蛇のエピソードがあり、イナラという女神が天候神を助けるためにイルヤンカに酒を飲ませます。

 大蛇の神話はメソポタミアやインドや北欧などにもありますが、酒を飲ませて殺す、というのは日本神話とヒッタイトの神話だけのようです。

 それから、古代エジプトのオシリス神とセト神のエピソードはオオナムジが八十神に殺されて蘇るエピソードと実際によく似ています。

 また、シュメール人は南メソポタミアの土地のことを「葦の主の国」と記したようです。で、その地で最初の統一王朝をつくったのはサルゴン大王(紀元前2300年頃の人)で、その次にシュメールの地を統一したのはラガシュという都市国家のグデアという王(紀元前2144年頃〜2124年頃)です。で、そのラガシュの守護神の名はニンギスルといいます。ニニギの子音はNNGですが、ニンギルスの子音はNNGSとなります。シュメール人の言語は膠着語なもので筆記する際は母音を省略することが多かったようです。尚、そのシュメール人の楔形文字は表意文字と表音文字の両方を併せて使うもので、漢字と仮名文字を併せて使う現代の日本式の筆記方法とよく似ています。


 また、アレクサンドロス大王(アジアではイスケンデールと呼ばれていた)の東征のエピソードは神武東征のエピソードと似ています。アレクサンドロス大王がペルシャ軍に勝利した「イッソスの戦い」と「ガウガメラの戦い」の地名が個人名になったり、亀の背に乗った人物となったりした、というのはわたしの勝手な解釈ですが、学生のときに最初に古事記を読んでまず思ったのはそのことでした。

 それらの神話や伝説がどうやって日本に入ったのかはわかりません。もしかすると秦氏が伝えたのかもしれません。ただ、シュメール人の時代のことまでが伝説となって西アジアに残っていたのかどうかはわかりません。


 尚、出雲神話にはもともとヤマタノオロチの神話やオオナムジの蘇りの神話がなかったとした件ですが、なぜそのようにしたかと言いますと、それらの神話が「出雲国風土記」(733年)に記されていないからです。ヤマタノオロチの神話は日本書紀にも書かれていますが、オオナムジが八十神に殺されて甦る話は日本書紀にもないようです。

 それらは出雲の話として古事記に記されたわけですが、もともとの出雲の口伝や書物にはなかったのだろうと思われます。なお、出雲大社の口伝にはヤマタノオロチの話があるようですが、それは口伝を伝えた者が古事記を読んでつけ加えたのだろうと思います。


 出雲については、もうちょっと何か書きたいなと思いましたが、よくわからないことだらけなのでやめておきました。


 それから、卑弥呼の描写については、話をおもしろくするためにかなり膨らませてしまいましたが、これも縄文人の末裔だということにしてあります。どんどこ太った、というのは、狩猟採集民の縄文人が米などの糖質をたくさんとると太る、という点を意識したものです。


 ちなみに、すでにご承知いただいていると思いますが、邪馬臺国は北部九州にあったことにしております。

 畿内説もいまだに有力なようですが、実際に畿内の纏向遺跡の調査をしてきた京都大学の教授の何人かは、そこには邪馬臺国はなかったとしていますし、畿内説を唱え続ける考古学者の多くは研究の予算を獲得するためにがんばっているだけだというような話もあります。

 で、いわゆる魏志倭人伝の解釈については書道家の井上悦文氏の説を参照しました。


 それから、壬申の乱にいたる経緯ですが、ここは実は避けて通ろうと思っていました。なにがなんだかわけがわからないからです。それでも、天智天皇と天武天皇の系図を見ながら皇位が継承された順序を見ていきますと、

 ……こりゃおかしいな、

 となりました。

 そこから中大兄(天智天皇)は軽皇子(孝徳天皇)の子だろうとなり、蘇我蝦夷の子だという説を目にしまして、このようなストーリーとなりました。


 いろんな説があるみたいですが、壬申の乱は九州王朝とヤマト王朝の対決だったというような説には違和感があり、九州王朝は磐井の乱で終わったとしました。

 その違和感というのは倭の五王の武の上表文(478年に倭国から宋に送られた文書)の文面に、

 「東は毛人(蝦夷)を征すること55国、西は衆夷(熊襲)を服すること66国、渡って海北(朝鮮半島)を平らぐこと95国」

 と、なっていることによるものです。倭の五王は九州王朝の王ではないかと言われますが、「西は衆夷(熊襲)を服する・・・・・・」となってます。九州王朝(首都は太宰府)からすると衆夷は東と南になります。西に衆夷というのは畿内から見た方角になります。


 その倭の五王についてもなにがしか書こうと思っていましたが、結局やめました。

 倭の五王はヤマト王朝の王たちで、宋へ5回も朝貢したわりにはさしたる成果はなかったようです。5回にわたる朝貢で倭王が宋にお願いしたのは、

 「朝鮮半島の支配権を認めて欲しい」

 と、いうことだったようですが、ついに百済の支配権が認められなかったというのが顛末です。


 尚、その倭の五王の時点ではまだ磐井の乱(527年)は起きてませんし、北部九州にはまだマツラの王朝があったと考えます。ただ、その王朝は中国の王朝に朝貢することはなかったのではないかと思います。107年の倭国王帥升が後漢に160人もの生口を献上したにもかかわらず、金印を授かっていないというのは、これが朝貢ではなかったからだと考えます。皇帝に面会したい、と申し入れたことは記されてあるので、なにがしか用事はあったのだろうと想像しますが、後漢の皇帝の臣下としてひざまずく、ということはなかったのかなと思われます。そして、それがマツラ国の威厳みたいなものであり、今の日本にもそれが残っている、というのがこの作品の主旨です。


 ちなみに、厩戸皇子(聖徳太子)について書いた部分にはなんの確証もありません。


 蘇我蝦夷と厩戸皇子は同一人物だというような説もあるようですが、それはないだろうと思います。厩戸皇子が飛鳥から斑鳩に拠点を移したのは蘇我氏と距離を置くためだったという説にリアリティを感じます。が、斑鳩に拠点をつくったのも実は蘇我氏だったのかなと思ったりしています。

 ただ、厩戸皇子の息子の山背大兄王が蘇我入鹿に殺されたという件については違和感がありました。

 蘇我入鹿の祖父である蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺したようですが、これは蘇我氏がこれから台頭するという時期の話であり、すっかり頂点を極めたときの入鹿が暗殺なんぞをするかなと思いました。普通、3代目というのはおとなしいものです。

 舒明天皇の死後、古人大兄皇子と山背大兄王のどちらを即位させるかでごたごたがあったことは想像できますが、どちらも蘇我馬子の娘の子であり、蘇我氏にとっては山背大兄王を殺してまで古人大兄皇子を即位させたかったとは思われません。暗殺などをした者がいたとすると、それは中大兄だろうと思われます。

 尚、厩戸皇子も蘇我氏に殺されたという説がありますが、もしもそうであるなら、そのように日本書紀に記されたと思います。日本書紀を書いた者には蘇我氏を貶めたいという意図があったようですから。

 なので、厩戸皇子は実際に病気で死んだのだろうと思います。


 尚、この作品は天皇制を批判する意図で書いたものではありません。

 日本という国の成立を描きたい、ということで書いたまでです。

 そこには避けて通れない天皇という存在があり、そこを描かないわけにはいかないので描きました。ただ、この作品に登場する天皇は政治家なので、崇高な宗教的存在ではありません。天皇が宗教的な存在になったのがいつからなのかわかりませんが、基本的には古事記ができてからなんだろうなと思います。

 なので、現在の日本の原型ができあがったのは古事記や日本書紀ができたときなんだろうなと思います。


 尚、古事記は平安時代までは読まれていたようですが、その後すっかり読まれなくなり、鎌倉時代には写本が一冊残っていただけのようです。それも、解読不能な書物になっていたようです。これが広く読まれるようになったのは本居宣長による解説書の『古事記伝』が木版印刷で発行されてからのようです。

 古事記が読まれていた間は天皇の権威が維持され、古事記が読まれなくなると天皇の権威が失墜する、という状況があるようです。本居宣長によって天皇の権威が高まると尊皇攘夷運動が興り、これが明治維新につながったわけですから、明治維新は古事記によるものとも言えます。


 さて、日本という国は他の国とは異なる特殊な国ですが、それは天皇がいるからだという考え方があります。

 鎌倉時代以降、天皇はもっぱら宗教的な存在となり、政治家としての権限を失いました。明治政府は天皇に統帥権を与え、これによって天皇は政治家に復帰したわけですが、GHQの管理下で再度その権限を失いました。で、そういう実権をもたない天皇の存在が日本という国の特殊な要素であると考えられるようになっています。

 ただし、君臨すれども統治せず、という表現は16世紀のポーランドの政治家の言葉が語源だそうです。これは、18世紀のイギリスではじまった立憲君主制の原則でもあります。王を宗教的な存在としてあつかうのは日本ばかりではありません。

 天皇家は他のどこの国の王家よりも古くから存続しているわけですが、それは、ただそれだけのことのような気もします。

 

 日本が他の先進国と決定的に違うのは、天皇の存在とは別の部分であると思われます。

 日本の特殊性はその成り立ちにあると思います。

 世界の先進国は農耕民が狩猟採集民を征圧し、土地を奪い、ほぼ絶滅させることで成立したものです。


 例外は日本だけです。


 日本は狩猟採集民が農耕民の上に君臨するという非常に希な状況から生まれており、これがその特殊性の素になっているのではないかと思われます。

 ちなみに、農耕民というのは自然環境と闘って生きる者たちですが、狩猟採集民というのは自然環境と共生する人たちです。日本人のDNAには、その因子が色濃く残っています。

 欧米人や中共人のように力づくで強引に問題を解決しようとせず、置かれた状況にねばり強く対応する民族であることが日本人の特殊性でありましょう。環境に対して受け身なのです。 

 で、それは狩猟採集民的な要素なのだろうと思います。

 また、同時にそれは、奴隷階級の人間に見られる特徴でもありましょう。

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