第八章(目覚め 五)
その朝は、心地良い目覚めだった。
私はやはり豚房の中にいた。また、黒白の豚の姿となって。
「またいつもの夢か。放って置けば、じきに覚めるさ …」
私は、もう周りの変化に動じるつもりはなかった。
周囲を豚たちに囲まれる自分の姿も、そしてこの状況にも。
「俺は人間だから! たまたま夢の中で、この豚の世界にさまよい込んでいるだけなんだから」
私は心の中で、自分にそう呟く。心の中の自分も頷き、私を見ていた。
天井で巨大な送風機のファンが、 ゴーッ! と唸り声を上げている。ダクトの穴から吹き下ろす風が、身体に生温かかった。
横の窓に目をやる。
そこから見える欅の木立ではセミたちが、行く夏を惜しんで盛んに鳴き交わしている。
まだ日中はジットリと汗ばむ陽気だった。
「ぶ! ブブブッ、ブー!」
自動給餌器が、 ガランガラン、ガラン …と音を立てて回り出し、給餌器の中に餌が落とし込まれていく。
豚たちはその音に反応して給餌器の周りに集まると、いつもの様に相手の体に体を押し付け、押し合いながら餌を奪い合っている。
私も丁度、空腹感を覚えていたところだった。
私は給餌器目掛け突進すると、そこに集まる豚たちの体を押しやり、無理やり強引に押し退けた。「ブヒ! ブヒ!」と喚き、鳴きながら。
『どうせ全部夢なら、腹一杯餌を食ってやるさ!』そう心の中で叫ぶ。
餌場を独占し満腹になった私は、喉の渇きを覚え飲水器へと水を飲みに行く。
そしてそこで、音を立てて ガブガブ と腹一杯水を飲み込む。飲水器の中に溜まる、豚たちの糞をも気に留める事もなく。
私は、ほかの豚に並んでオガクズの上に両足を投げ出し横になると、大きな欠伸をする。
直ぐに訪れた睡魔に目を閉じると、同様に惰眠を貪っていった。
夕方近くに、豚舎の入り口の引き戸が ガラガラガラ と開く音で目を覚ますと、豚房の前にいつもの親爺が立ってこっちを見ていた。
頭にいつもの手拭いを巻き、両足には作業ズボンに汚れた白い長靴を履いて。
親爺は、私たちの豚房に顔を向け、そこにいる豚を一頭一頭、ねめる様に順番に見ていく。もちろん私をも。
一しきり私たちを見回した後、作業ズボンの右のポケットから煙草を取り出すと、マッチを擦り火を点けた。
辺りに硫黄の微かな匂いが漂い、親爺は煙草の煙を大きく吸い込む。
「もうそろそろ、出荷してもいいな …。順調に育って、どれも丸々と肥っている」
「この夏は暑く豚の餌食いが悪くて、どこも豚が大きくならなかったからな。だからここの所、市場の豚価もキロ七百円を超える相場が続いているし。明日辺り、出荷の準備に取り掛かるか …」
親爺は煙草の煙を吐き出すと、にやついた顔でそう呟く。
そして、煙草を通路のコンクリートの上に落して足で揉み消すと、そのまま豚舎から出て行ってしまった。
「出荷か …。いよいよ、豚たちが屠殺される日がやって来たか」
私はまるで人ごとの様に、そう囁いた。
自分も豚の姿である事も忘れて。『ブヒブヒ』と。
「いいさ。この夢から目覚めれば、俺は元の人間さ! 人として奴らの肉を食ってやるさ」
私は心の中でそうほくそ笑んで、床に足を投げ出すと、横になってまた寝てしまった。
大きな欠伸をしながら。
次の日、餌を運ぶ自動給餌器のタイマーが止められ、私たちは丸一日絶食されていた。
それで私は、水ばかり飲んで一日を過ごした。
食肉市場に出荷される豚は、出荷の前日から絶食させられる。
それは、屠殺場で食肉処理のため内臓を開く時、消化管からの未消化の内容物で床が汚れ、肉が汚染される事を防ぐためだった。
「何で俺まで、こんなひもじい想いをしなければならないんだ」
私はそう独り憤りながら、その日眠りに落ちていった。
その翌日は、朝から豚舎の中が騒がしかった。
例の親爺は私の豚房に入って来ると、豚たちの背中にスプレーペイントで数字を書き込んでいった。
私の背中には、たぶん数字の2が書かれたのだろう。黒い体に良く目立つ様に、白いペイントで。
親爺は、厚いべニア板を盾に豚たちを豚房から外に押しやると、豚舎の通路を豚舎脇の出荷台へと追い込んでいく。出荷台には、荷台を鉄柵で囲まれたトラックが横付けされている。
そうして他の豚房の出荷豚と一緒に、バークシャーたちはトラックの荷台に載せられた。もちろん私も漏れる事無く、トラックの荷台に載せられていた。
私たちを乗せたトラックは、親爺の運転で食肉市場に運ばれ、処理場に横付けされた。
豚たちは柵に囲まれた集荷台に降ろされ、そこの檻の中に数頭ずつ、次々と押し込まれていった。
「屠殺場か、豚たちの命もこれまでか …」
そう呟きながら、私はほかの豚たちと並んで檻の中の床に寝そべった。床には水が撒かれ、冷ややかで体に気持ち良かった。
いよいよ、豚たちが屠殺される時がやって来た。
豚たちは、一つの檻ごとに屠殺場へと追い込まれて行く。
そして屠場の方からは、「ブヒー‼ ギャー。ビヒー‼」と、鋭く響く金切声で鳴き叫ぶ豚の悲鳴が聞こえて来る。
きっと、屠殺される豚たちの、最後の断末魔の叫び声なのだろう。
その声を聞く周りの豚たちは、皆落ち着き無く「ブ!、ブブッ。ブッ!」と、短い鳴き声を上げ、警戒する様に身を固くして、檻の中を鼻をひく付かせながらうろついている。
たぶん、死んだ豚たちの血の匂いも、周囲に漂って来ているのだろう。
それとも豚たちは、本能で『 死 』の瞬間の臭いを敏感に嗅ぎ取り、感じ取っているのだろうか。その意味など、理解しようとしてもでき得ないというのに。
そして、いよいよ私が収容された檻の豚たちが、屠殺される順番が来た。
私は、檻の他の豚と一緒に屠殺場に追い込まれて行った。
私の前にいた豚が、いきなり係員に片耳を掴まれ、額に電殺器の電極を押し付けられた。
その豚は体中を痙攣させながら四肢をビクつかせ、床へと体を横倒しに倒れ込む。
そこをすかさず鋭利な包丁を持った男が、倒れた豚の左の前足を持ち上、胸に深く刀を突き刺していく。
刀を抜いた後からは、暗く赤黒い大量の血液が止まる事無く噴き出し、タイル張りの床に広がって行く。そして豚は、痙攣したまま事切れ、動かなくなる。
それは全く、恐ろしい光景だった。
だが、私には関係の無い事だった。
「これは夢さ。直ぐ覚めるさ。覚めてしまえばいつもの日常さ」
自信を持って、そう思っていた。他人事のまま。
私が屠殺される番が、いよいよやって来た。
体に水が掛けられ、電殺器が額に押し付けられる。
その瞬間身体中が痺れ、硬直した私の体は床へと横倒しに倒れ込む。
間を空けず、左胸に刀が深々と突き立てられる。それは深く、深く更に胸の奥深くへと、刀が突き刺さっていくのが分かる。
だが、痺れた身体には痛みの感覚は既に麻痺して、刀の痛みの苦しみを私が感じる事は無かった。
刀が抜かれた胸の傷からは、生温かい血が噴き出し流れ出していく。
その刹那、私は全てを悟っていた。
「これが夢ならば ……。」
だが、私のその儚い願いに、遂にこの夢が覚める事は無かった。しかも永遠に。
「畜生! 俺は本当に豚だったのだ。生きる権利も希望も、そして未来も、産まれ落ちた瞬間から与えられてはいない、ただの豚なんだ」、と。
胸の傷からは、止まる事なく血が噴き出していく。
「豚の俺が、人を夢見るなんて。しかも自分が本当の人間なのだと、信じ込んでしまうとは …」
「その俺が屠殺され、肉として、今こうしてその人間に殺されようとしている」
「馬鹿な奴だ …」
私は薄れゆく意識の中で、自分を嘲り嘲笑していた。
またその一方で、胸の奥からは噴き出る血とともに、際限もなく深い悲しみが込み上げて来ていた。
知らず知らずに、頬を涙が伝わり落ちていく。幾筋もの涙が。
それは床のタイルに落ちると、直ぐに乾いて消えていった。
私の意識はもう、無かった。
私は二度と覚める事の無い、真の暗黒の夢の世界へと落ちていった。
そこは永遠に時が止まり、全てが凍り付いた、永遠の『 無 』の世界である。
『 私 』が想い悩む事は、二度と無かった。
(了)




