第五章(目覚め 三)
目覚まし時計が鳴っている。
朝日の光が目に眩しい。
「うーん …」
思い切り伸びをする。全身を、新鮮な血液が駆け巡る。
「ん?」
ガバッと体を起こす。私はベッドの上に座っていた。
「また⁉ どういう事だ。俺は豚じゃなかったのか?」
そう呟くと、両手の手の平を広げて見詰める。十本の指がある。蹄はどちらの手にも生えていない。
指を握り絞め、開く。そしてまた握る。紛れもなく、それは人の手の平だった。
「また、夢だったというのか …」
顔を上げると、目の前の壁を見詰めてそう呟く。
壁には、結婚披露宴の時写して貰ったパネル写真が、額に入れられ飾られている。その中には、妻と私がウエディングキャンドルに、今まさに火を点けようとする瞬間がセピア色に焼き付けられている。
その私の顔は、緊張で多少引きつっている様にも見える。それはもう、かれこれ十年以上も前の出来事であった。
「やっぱり、私は人間なんだ。そうとも。 …しかし、深刻な夢だった …。あんなに、豚になった自分の運命を呪っていたというのに」
脳裏には、豚として死んでいかねばならぬ運命を己の心と問答し、思い悩むさっきまでの自分の姿があった。そして、それを嘆く自分の声が、鮮明に残り焼き付けられていた。
まるで、それが本当の出来事であったかの様に。
隣のベッドに目をやると、長男はもう起きたらしくベッドは空になっている。
部屋の中をグルッと見回す。いつものままの寝室が、そこにはあった。
私はのろのろとベッドから這い出ると、夕べテーブルの上に置いたままの煙草とライターを掴んでベランダに出た。
空は晴れ渡り、一片の雲も浮かんでいない。遠くに緑色に光る山並みの姿がはっきりと見渡せた。その上に富士の頂が微かに顔を覗かせている。
東の空には今し方昇ったばかりの太陽が、眩く輝いている。朝日の光がひどろしく、目に強くしみ渡った。
私は思わず目にギュッと力を入れ閉じた。目の奥底で白く、くっきりと光る太陽の残像がくるくると踊っている。
「ふーうっ …」
ため息を一つ吐くと、私は煙草とライターをガラステーブルの上に投げ出し、デッキチェアーに深く腰掛けた。そして目を閉じ、首をゴリゴリと回す。首筋が張り頭の片隅がちりちりと痛む。
私はしばらく目を閉じたまま、ぼんやりと朝の空気を全身で呼吸していた。
「あーあッ、」
大きな欠伸が一つ出た。まだ寝足りない気分だった。
「今日は、と …」
そう呟きながら部屋の中を覗き込み、壁のカレンダーに目をやった。日にちと曜日の感覚が無くなっている。
「ああ、土曜日か。休みだ」
「ふー。…」
そうため息を吐き、ガラステーブルの上に放り投げられていた煙草の箱とライターを手元に引き寄せた。
煙草を一本口に咥えて引き抜く。銀のジッポーを カチッ! といわせ火を点け、深呼吸をするように肺の奥深くまで煙を吸い込むと、また思い切り吐き出す。
「ふー …」
煙草がとても旨かった。なぜか、久し振りに吸った様な気がする。紫煙が右手の指に挟んだ煙草の先端から立ち上り、朝日の中で揺らめいている。
煙草を灰皿の中に揉み消すと、私はベランダから寝室の中に戻った。まだこめかみの辺りがちりちりと疼いている。
部屋の真ん中に立って寝室を グルッ と見回した。夕べ寝る前の様子と変わらずに、いつも通りのままである。
「そうだよな。…そうさ」
そう納得すると、リビングに向かって階段を下りて行った。
リビングでは子供たちが、テレビでアニメを観ていた。妻はキッチンで朝食の用意をしている。
「おはよう」
「あら、早いのね。今日は休みなのに。まだ寝ていればいいのに」
妻が私に、そう問い掛けてくる。
「うん。うっかり目覚ましを掛けて寝てしまってね。その音で目が覚めてしまったのさ。まだ頭の隅がちりちりとして、痛いけれどもね」
「そう。いつもの習慣ね。直ぐご飯にする?」
「うーん。そうだな、外をちょっと散歩してからにするよ」
そう言うと玄関に出て、サンダルを足に突っ掛けた。
庭に出ると、相変わらず眩いばかりの太陽の光が辺り一面に降り注いでいる。
私は庭の椅子に腰掛けると目を細め、家を眺めた。記憶の中のそれと、何ら変わったところは無かった。
「そうさ …」
そう頷くと、ポケットから煙草を取りす。
身体中がけだるかった。煙草の煙が風に乗って、ふわふわと漂い流れていく。
「しかし。……」
また頭の中に、夢の中での記憶が甦ってくる。そう、それは私が豚になっていた時の。
煙草の煙を吸い込むと一瞬息を詰め、またゆっくりと吐き出す。煙が渦となって流れていく。
「はー…」
ため息がまた一つ、自然にこぼれた。
「何で、俺が豚になるんだ。しかも一回だけでなく二回も …。…夢? 夢なら、夢でもいいさ」
「だが、妙に実感が … 豚になった俺が、まるで本当に悩み、そこで実際に足掻き苦しんでいた様な気分だ」
無意識に頭の中で考える。頭の芯が、ちくちくと僅かに痛む。
煙草の煙を大きく吸いながら目を閉じた。そして目を閉じたままゆっくりと静かに煙を吐き出す。気を落ち着かせる様に。
そのまま、またゆっくりと目を開けていく。朝日の光が目の奥に眩しく差し込む。目の前には家が、そのままの姿で佇んでいる。
「そうだよな … そんな事があるはず、無いよな」
そう一人納得する。
煙草の煙を吸い込みながら自分の手足に目を落とした。煙を吐き出しながら手足を眺める。そこには十本の指があった。
「当り前だよな。人間だもの」
その自分の姿を思い浮かべ、自分でも妙に感心していた。と、同時に、その事があまりにも滑稽に思えて、自然と可笑しさがヘソの辺りから込み上げて来る。
「やっぱりどうかしているよな。仕事の疲れが溜まっているのかもしれない。今日、明日の休みはゆっくり休養するか …」
そう自分の心に囁き掛けると、煙草を吹かした。
「とうと。朝ご飯だよ」
「はいよ」
子供の呼び掛けに煙を吐き出しながらそう答えると、灰皿の上に揉み消し、椅子から腰を上げる。
「今日もまた、暑くなるな」
空を見上げそう呟くと、玄関に歩いて行った。
ダイニングのテーブルの上には既に、朝食が用意されていた。
席に着き、朝食を食べ始める。メニューはいつも通りのパンと牛乳、そしてバナナ。今日は別に、目玉焼きも添えられていた。
「いただきます」
そう言いながら心の中で手を合わせると、パンを取り上げ口の中に放り込む。
「ん⁉。…」
また頭の中に、あの配合飼料の味が、味覚の記憶となって蘇ってきていた。
「またか。…でも旨かったよな …」
いや! …
私は「ふん!」と、自分を嘲笑う様に鼻先で笑うと、首を左右に振った。
「何を感心しているんだか …。夢の中の話だというのに。他愛も無い」
私は目の前の目玉焼きに心を戻すと、半熟の黄身をフォークの先で崩した。
「今日は、皆でどこかに出掛けようか?」
朝食を食べ終わって洗面所で顔を洗った後、リビングにいる妻と子供たちにそう呼び掛けた。
「行く行く」
子供たちが私の周りに寄って来ると、飛び跳ねながら口々に言う。
「そうねえ~ … 涼しい所に行ってみたいわよね」
妻もそう言う。
「うーん。涼しい所か。どこが良いかな …。山、海、湖? 迷うなー」
私は、首を捻りながら考えている。
「よし! それじゃあ、富士山の麓にでも行ってみるか。どうだい?」
「富士山、富士山!」
子供たちがはしゃいで、口々にそう繰り返す。
「いいわよね。そうしましょう」妻も同意する。
「よしっと、じゃあ早速出掛けるとしよう」
私たちは準備を済ませ、車に乗り込んだ。私はサングラスを掛けると、目的地に向かってサーフを走らせた。
富士の麓までは、車で約一時間半の距離だった。
車は盆地を抜けると、山間を縫ってジグザグに進んで行く。夏休み時とあって車の列が長く続いている。
峠に差し掛かろうとする頃、長く暗いトンネルが幾つか続く。
車はやがて峠を越える長いトンネルに差し掛かる。トンネルの中に入ると、壁面に取り付けられたネオン灯の光がサングラスの中に黄色く滲みながら過ぎ去って行く。
排気ガスに霞むトンネルは薄暗く、永遠に外には出られないのではないかという感覚に囚われる。
やがて出口の光が遠くに小さく見えて来る。出口は次第に大きくなっていく。「出口か …」そう私は呟く。
トンネルを抜けると、目の前に湖が広がった。
「精進湖だ」
誰にともなく呟く。
湖面にはボートが浮かび、釣りをする人々が糸を垂れている。
「湖、湖」
子供たちが後ろの席ではしゃいでいる。
車は湖畔の道路を縫うように走って行く。標高が上がったせいだろう、頬に当たる風が爽やかに感じられる。
車はやがて丁字路にぶつかり、赤信号で車が停まる。正面には『右 富士宮・本栖、左 大月・富士吉田』の看板が架かっている。
「河口湖のハーブ館に行ってみようよ」
助手席で妻がそう言う。
「河口湖ね」
そう返事をすると、国道を左に曲がる。
車は緑色に染まる鬱蒼とした木立の中の道を走って行く。
『青木ヶ原樹海』。頭上に案内を示す看板が見える。
やがて右手には雄大な富士山が聳え立ち、頭を雲の塊の中に突っ込んでいる。
対向車線を大勢の乗客を乗せた大型観光バスや乗用車が、列を作って走り抜けて行く。国道沿いの風穴や氷穴といった観光スポットにも、沢山の県外ナンバーの車が停まって、人々が列を作っている。
『左折 河口湖畔』の看板に従って左折する。しばらく走ると河口湖が見えてくる。
湖畔の道路を走り抜ける。深緑色に沈んだ湖面をモーターボートが疾走し、湖畔ではルアーを投げる沢山の釣り人たちが見える。
湖畔沿いの道を走りながら、助手席の妻が笑って言った。
「キムタクがいるかもね?」
「工藤静香と、か? まさか …」
私は真面目な顔でそう答える。
湖畔を右に折れると目的地のハーブ館があった。駐車場に車を入れると後ろの子供たちに呼び掛けた。
「着いたよ」
「やったあ!」口々にそう言いながら子供たちは車を飛び出すと、建物目指して走って行く。妻が慌てて後を追い掛けて行く。
「車に気を付けろよ」
そう言いながら車の鍵をロックすると、私は彼らの後をゆっくりと歩いて行く。
ハーブ館はハーブの季節だけあって、観光客たちで賑わっている。特に若い女の子たちが大勢訪れていた。
館内では、様々な種類のハーブやガラス工芸品が売られていた。
「ねえ、ねえ。こっちに来てみて」
妻が土産コーナーの一角から手招きで私を呼ぶ。
「何?」
私はそう言いながら妻のいる所に歩いて行く。
「これ見て。可愛いでしょ。どう?」
妻が一つ手の平に載せると、手を私の目の前に持ってきた。
そのコーナーは、ガラスで作られた色々な種類の動物をテーブルの上に並べて売っていた。
「良いでしょ!」
差し出すその妻の手の平の上に、ガラスでできた透明な小さい豚が乗っかっていた。
「豚⁉」
私はそう小さく呟く。
「豚 … か。…」
その時、頭の中で何かが蠢いた。頭の片隅がまた、ちりちりと疼いている。
「どう、買う?」
妻が手の平の上の豚を見詰めながら、そう問い掛けてくる。
「でも … でも、ガラスは割れてしまうからなぁ」私は、そう答える。
「豚。豚ねえ ……。まぁ、いいか」
頭の中で何かが形になろうとしていた。だが私はそう自分に呟くと、そのコーナーを後にして、奥にあるハーブのハウス栽培展示場に向かって歩いて行った。
私たちは館内を一しきり見て土産を買うと、緑色のハーブソフトクリームを舐めながらハーブ館を後にした。
帰りは湖沿いの大きな橋を渡って山道を走り、長いトンネルを抜けて盆地に戻って来た。
「朝も、この道の方が早かったんじゃない?」
妻がそう言う。
「ああ、そうかもしれないな。今度行く時は、この道を通って行く事にするか」
私は煙草を吸いながら、そう答えた。
子供たちは後ろのシートで、いつの間にか眠ってしまっている。
いつしか夏の日も西の山際に傾き、夕暮時を迎えようとしている。だが盆地はまだ蒸し暑く、車のエアコンのスイッチを切れずにいた。
家に辿り着き、遅い食事を終えてシャワーを浴びると、私は夜の庭に出た。
夜風が火照った体に心地良かった。
椅子に座ると、遠くの方から鈴虫の鳴く声が聞こえる。直ぐ傍ではコオロギが鳴いている。
「もう、夏も終わりか …」
私はそう呟く。足下からは、秋の気配が忍び寄って来ていた。
夜空を見上げると、星々が瞬き輝いている。西の空には蠍座が大きく傾き、その心臓でアンタレスが紅く輝きながらこちらを窺っている。
夜風がヒンヤリと体を包み込む。
私はポケットから煙草を取り出すと火を点けた。煙を吸い込みながら目を閉じると、秋の鳴く虫たちの声が心に染み入っていく。
私はしばらく椅子に腰掛けたまま、虫たちの鳴く音色に耳を澄ましていた。煙草の煙を燻らせながら。
寝室に上がると、長男は既にベッドの上で眠っていた。
ナイトスタンドを点け、寝室の電気を消す。スタンドの周囲だけがほんのりと黄色い柔らかい光で包まれ、心の中もほんのりと明るくなったような気がする。
私は読み掛けの文庫本を取り出すと、しおりの挟まれたページをめくった。
それは現在と過去、それに未来の時間軸をテーマにしたSF小説だった。既に半分のページが読み進められていた。
ベッドに横になると、顔の前に本をかざして活字を追う。
最初の数ページはすんなりと頭の中に入っていったが、直ぐに睡魔が訪れ意識は断片となる。私は知らず知らずに眠りに落ちていった。
ベッドの横にはナイトスタンドが灯されたまま、寝室の中を淡く黄色い、暖かな光で照らし出している。部屋の中に、壁の時計の秒針を進める音だけが、静かにそして規則正しく響いている。
その夜も静かに、いつも通りに更けていく。
私はゆっくりと夢の世界に落ちていった。




