第四章(悪夢の続き 二)
翌朝、朝日の中で目を覚ました。
「う? ……」
再び目を閉じると、頭を左右に振り回す。脳みそが、頭蓋骨の内側にへばり付いてしまうほどの勢いで。
頭を振り止め、しばらくの間 ジッ と目を固く閉じている。そして恐るおそる、そっと薄目を開けていく。
「へ? ………」
果たして、目の前には豚がいた。しかも、あの黒六白のバークシャーたちが。
私は、鉄柵に囲まれた豚房の中にいた。
「なぜ? …」
慌てて自分の体を見回す。
「黒い。…蹄が、」
私の体も黒白の豚になっている。手にも足にも、指の代わりに二つに割れた蹄が生えている。白く短い毛に縁取られた蹄と、尻尾までも。くるっと丸まった、その先端には白い毛が生えている。
私はまた、豚の姿になっていた。
「あれは、夢ではなかったのか。夕べシャワーを浴びて、鏡に映る人間の姿の自分を確かめたではないか⁉」
「ベッドに入り眠りに落ちるまで、確かに私は人間だった …」
「どうして。……」
目を固く閉じ、頭の中心に意識を集中させる。
「まだ、これは夢なのだ … 目を開ければ、また人間の姿に戻っているさ。きっと …」
そう強く心の中で念じながら、思い切り意識に弾みを付け、 バッ! と目を見開いた。
‥ “ ‼ ” ……
しかし … やはり、そこは豚房の中だった。
目の前の、バークシャーたちの向こうに鉄柵が見えている。豚たちが「ブーブー」鳴きながら、鼻先でおが屑が撒かれた床面をこすっている。
「私は、豚 …? それとも人 …なのか?」
頭の中が混乱して、現実の世界がどれなのか分からなくなっている。
「私は人間だ。そう、確かにそのはずなのだ …」
豚たちが私の周りに集まってきて、私の体をしきりに鼻で突っつく。
豚の鼻の先端は鼻鏡と言って、固く、そして平たくなっている。この鼻鏡で私の横っ腹を、下から上へと力一杯擦り上げてくる。
もの凄い力でやられるものだから、とても ジッ と我慢しているわけにもいかない。
豚たちは「ブッ、ブッ、ブッ」と短く鳴きながら、私の体を押しやってくる。
『止めろ! こいつ等が。向こうに行け!』
私は思い切り体を左右に揺すりながら、もの凄い剣幕でそう怒鳴った。しかし、私の発した怒鳴り声は、また豚の鳴き声での叫びになってしまっていた。
空しく、私の怒鳴り声が豚舎に響く。
「ブブー! ブヒブヒ、ブブー!」
「ビギー! ピギー!」
私のその剣幕に驚いて、周りの豚たちは悲鳴を上げ、豚房の中を逃げ散らばっていった。
「ブー …」
私はそう溜息を吐くと、鉄柵の隅に体を預けてもたれ掛かる。
「言葉も、それに体も、どこから見ても立派な豚そのものだし。 … 豚になる事が、私の定めなのだろうか ……」
首をうなだれ、そう頭の中で考えていた。
「私は、何かの呪いにでも掛けられているのだろうか? 豚として一生を終えなければならぬとの …」
今は前足となった手の平を、 ジッ と見詰める。そこには二つに割れ、黒く、白い毛で縁取られた蹄がある。
なぜか無性に悲しくなった。目頭が熱くなってきて涙がこぼれそうになる。
そして実際に、涙が一筋目頭から床へと流れ落ちた。
「豚の目にも涙 …か …」
豚でも涙を流すことができる事に、頭のどこかで関心している自分がいた。
自動給餌器のモーターが唸りだし、給餌器のパイプの中で ガラガラガラ と、軽快な音を立てながら餌を送る螺旋ワイヤーが回り出す。
給餌器の中に、配合飼料が ザー … と音を立てて落し込まれてくる。
豚たちは、その音に合わせて条件反射のごとく給餌器目掛けて集まり、鳴き叫びながら給餌口を奪い合う。
「ブヒー! ギヒー。ビギャー! ビー」
豚舎中に、豚たちの鳴き喚く声がこだましながら響き渡る。甲高く響く鳴き声が、耳に鋭く突き刺さる。
「何て騒ぎだ。奴らには食欲という本能しか無いのか。ただ、ぶくぶくと肥るだけで …」
鉄柵に体を預けたまま、私はそう彼らを見下し冷めた目で、その光景をぼんやりと眺めていた。
今は自分も、完璧な豚の姿になっているというのに。その現実すら、忘れ去ってしまったまま。
豚たちは、ひとしきり給餌器の餌を奪い合って貪り食べ、ガブガブ と飲水器の水を 飲むと、てんでに床の乾いた場所に寝そべって、やがて鼾をかきだし眠りへと落ちていく。
もう自動給餌器の ガランガラン と鳴り響く音も途絶え、豚舎の中は静寂な空気に包まれる。
ただその中に、豚たちの鼾の音だけが響いている。
「ブピー…。プピー…」
私は無言で、傍観者となってそれらの様子を眺めていた。 … 自分が人間のつもりになって 。
ふと、給餌器の中の餌に目が留まった。
お腹が「グー」と鳴るのが聞こえた。無性に腹が減ってきていた。
「駄目だ。あれは豚の餌だ。人間が食べる物ではないんだ」心の奥でそう囁く声がする。
だがその一方で、違う囁きの声も聞こえて来る。
「何を戸惑っているんだ。お前も、奴らと同じ豚のくせに。早く食えばいいんだ」
心の葛藤が激しくなっていく。
「私は人間のはずだ …。」
恥ずかしかったが、口の端から涎が流れ落ちて来るのが分かった。それを否定する心の声よりも、食欲という本能の方が勝っていた。
私は給餌器の所まで四本の足で歩いて行くと、給餌器の中に顔を突っ込み、 ガツガツ と餌を貪り飲み込んだ。
夢中で周りの事など一切眼中には無かった。ただひたすら餌を貪り続けていた。
どれほどの時間が経った後だったのだろうか。私は腹が満腹になると、ふっと、給餌器から顔を上げ周囲を見回した。
周りでは相変わらず豚たちが、鼾をかきながら惰眠を貪っている。
「‼ しまった。また豚の餌を …。何てこった!」
自分を見失ってしまった事に、心の底から恐怖を覚えた。
その自分が、とても恐ろしくもあった。
しかし飲水器の所に行くと、カップのベロを鼻で押しながら、流れ出てくる水を周りも気にせず、 ガブガブ と音を立てながら飲んでいた。
もう既に、恥も外聞も無かった。豚に成りきったまま。
朝と夕方にはいつもの親爺が、スコップを担いで一輪車を引き豚房の糞取りにやって来る。
頭に手拭いの鉢巻きを巻き、白い長靴を履いて。
親爺は私の豚房を覗くと、ほくそ笑みながら呟く。
「病気の豚もなく餌食いもいい。順調に肥っているし。バークは発育が遅いが旨い脂がのるから、良い豚に仕上がっている様だ」
「しかもここの所の暑さで、豚肉市場の枝肉相場も高値で推移している事だし …。あと半月もすれば出荷できるだろう」
そして豚房のドアを開けると、スコップを手に中に入って来る。
「どけ! 邪魔だ」
豚の尻をスコップで叩きながら、豚たちの間を分け入って行く。そして糞をスコップの上にかき取ると、一輪車にドサッと放り込む。
豚たちは親爺の長靴や作業ズボンの裾に噛みつき、ちょっかいを出す。すかさず親父はスコップで豚の頭をビシャッと張り倒す。叩かれた豚は「ビギヤー」と悲鳴を上げながら、狭い豚房の中を走り回る。
豚が汚い動物の代表として見られるのは、その豚舎の構造や飼養者の飼い方に問題がある事が多い。本来豚は、きれい好きな動物である。
だから糞は、餌場である給餌器と反対側に決めて排泄する。
ただ、湿った場所に糞をするため、得てして飲水器の周りに排泄してしまう事もあり、飲水器の中が糞塗れになる場合もあった。だが、給餌器と飲水器が豚房の同じ側にある時は、その反対側が糞場になり、豚房の中は割合綺麗に保たれる。
私が今いる豚房は、給餌器と飲水器が反対の方向にある。それで飲水器の周りが糞場となって飲水器の中にも糞が溜まっている。
それでも豚たちはその飲水器から平気で水を飲んでいる。当然、飲水器の中の糞を足で取り除こうともせずに。
外国では豚にトリュフを探させるほどに、豚の嗅覚は犬並みであるとされる。 それなのに …
豚たちの水を飲みたいという欲求は、糞の臭いという現実を、越えてしまっているのか …。もっとも、豚にきれい、汚いと感じる能力があるとは思わないが。
私もいつしか、その糞場に排泄をし、飲水の欲望に負け、汚れた飲水器から水を飲むという事に慣れてしまっていた。
もう既に、人間としての尊厳が … という次元からは、とうに転落してしまっている。
だがそれでも、時々自分は人間なのだという意識が蘇り、恐怖の感情を伴った深い溜息とともに、自戒の念に囚われる時もあった。
「私は、果たして人間なのか、それとも … 」
だが正直に言って、何方とも捉え切れていないというのが本音だったのだが。
親爺は、豚舎の端の豚房から順番に除糞作業を続けていく。
豚房のドアを開ける音がする度に、スコップで ピシャッ! と叩く音と、豚の「ビギヤー!」と叫ぶ声が豚舎中に響き渡る。
親爺はいつも、最後の豚房の除糞を終えると一輪車にスコップを投げ込み、豚舎の端にある豚の出荷台のコンクリートに腰を下ろすと、鉢巻きにしている手拭いを外して顔中の汗を拭い取る。
そして作業ズボンのポケットから『ハイライト』の箱を取り出すと、煙草を一本取り出しマッチで火を点ける。そして旨そうに煙草の煙を吸い込みながら、遠い目をして煙を吐き出す。
それを数回繰り返し、煙草を足下のコンクリートに押し付け揉み消すと豚舎の裏手の川に投げ捨てる。親爺は「さて」と、呟きながら立ち上がると、また一輪車を押して堆肥場の方に消えて行く。
後には豚たちのざわめく鳴き声だけが残される。
私は黙って床に伏せている。豚たちのざわめきを耳に、 ジッ と目を閉じて。
こうして一日が暮れていく。ただ餌を食べ、寝てはまた食べるという、何の刺激も無い一日が。
私は不安だった。
《 これで良いのか … これで …… 》
人としての自分は、どこに行ってしまったのか。ここで豚として、殺されるまでの単調なだけの日々を、ただ無為に過ごしていかねばならないのか。
私は、自分の人生を、自分で選んで歩む事が許される権利を持った人間ではなかったのか。
心の中でそう、人としての自分の心に問い掛けてみる。
だが、未だ答えは返って来ない。
《 どうすれば、この世界から抜け出す事ができるのか 》
《 人間としての自分は、どうすれば取り戻せるのか … 》
分からなかった。
私はそっと目を閉じた。目の奥には漆黒の世界が広がっている。今の私の心を映す、光の無い鏡の様に。
その鏡の底は、濃い闇に閉ざされていた。
今を現実の世界だと認め、豚としての生を受け入れるべきであるのか。
私は目を閉じたまま闇の世界に身も心も、深く、深く沈み込んでいた。
希望という明日を、心のどこかで夢見、また願いながら。




