第三章(目覚め 二)
朝日が眩しかった。
目を開けるとカーテンが見えた。
「ん。…」
何が起こったのか、直ぐには分からなかった。
頭の上には木目調の天井があって、見覚えのある電灯が取り付けられている。
首を回して周囲を見渡すと、そこは自分の家の寝室だった。私はベッドの上に寝ていた。
体を起こし手の平に目をやる。そこには五本の指があり、指の先にはピンク色の爪が生えている。
指を開いたり、握り絞めたりを繰り返す。そこにあったはずの二つに割れた蹄は無くなっている。足先にも蹄ではなく、代わりに五本の指があった。
「確か、豚になっていたはずでは?…、」
そう呟くと、ほっぺたを指でつまんでみる。頬はちゃんと指でつまめた。
「痛い!」
鏡の前に走る。
そこには人間の姿をした自分がいた。
「夢?。あれはやっぱり夢だったんだ」
「それにしても、長い夢だった。しかも、とても恐ろしい …」
あの出来事が、まさしく悪夢という夢の中の幻想の世界であった事に ホッ としながら、豚としての呪われた運命から逃れることができたことを、誰にともなく感謝していた。心の底からの深い安堵とともに。
机の上に置いてある、黒白柄の豚のフィギュアが目に入った。
「バークシャー…、か。……」
階下に下りると子供たちは既に起きて、朝食を食べていた。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶を交わすとテーブルに座る。パンと牛乳と目玉焼き、そしてバナナがいつもの私の朝食メニューになっている。
夢の中で食べた配合飼料の、砕かれた粉末のトウモロコシと大麦が思い浮かぶ。
( …美味かったな )
なぜか美味しかった記憶が舌先から浮かび上がり、頭の中へと抜けていく。
夢の中の出来事だったというのに、妙に鮮明な思いとして残っていた。
「…不思議だ」「あれは、ただの夢だよな …」
首を捻って思いに沈んでいると、妻の声で我に帰った。
「早く食べないと仕事に遅れるわよ!」
急いでパンを頬張り口に放り込むと、味わうのもそこそこに席を立ち洗面台に向う。
念のため、鏡に映る自分の姿を注意深く確かめる。
当然そこには、豚ではなく、自分の姿を目を凝らして見詰める、人間の姿をした私がいた。
「それはそうさ …」
内心そう呟き、玄関を出て車に向かう。そして車に乗り込みエンジンを掛けると、勤め先に向かって車を走らせた。
「おはようございます」
職場に着くと挨拶を交わして、いつも通りに仕事が始まる。
電話の応対やパソコンに向かっての書類作成。それが一段落着くと外回りと、雑務に追われて一日が過ぎていく。
「お先に失礼します」
課長にそう挨拶して職場を後にする。
ダッシュボードの上から煙草を取ると、一本抜き出して火を点ける。そして胸一杯、煙草の煙を吸い込む。
「ふー …」
煙草の煙を吐き出しそう呟く。体の緊張がほどけ、疲れがゆっくりと緩んでいく。
「今日も疲れたぁー」
「久しぶりに、気晴らしにパチンコにでも寄るか!」そう決めると車を運転しながら、携帯電話で家に電話をする。
「もしもし …」
「もしもし。俺だけど、今日はちょっと遅くなるから。ご飯は家で食べるよ。それじゃあ …」
遅くなる理由は言わない。知られたら喧嘩になる事が分かっているから。いつもの事でもあった。
慣れた帰り道からハンドルを切ると、横道に逸れて行く。
「まいったなぁー、こんな時間まで打つとは。しかも負けかよ …」
家にたどり着くと庭に車を入れる。
家の玄関の明かりは点いたままだが、部屋の明かりは全て消えて暗闇の中で シン と静まり返っている。
家族は皆寝てしまった様で、腕時計の針は、既に十一時過ぎを指している。
玄関の扉の鍵をそっと開ける。 ガチャン! という高い音が、静けさの中に割と大きな音を立てて響く。
「ただいま …」
真っ暗な家の中に小さな声で呼び掛ける。廊下の電気を点けると、リビングに歩いて行く。
リビングの隅に置かれたサークルの中で飼っているチワワの『のの』が、私の気配を聞き付け甘えて小さく吠える。
「ワン。クゥーン」
「ただいま。『 のの 』」
食卓の上を見ると、夕食の支度ができていて器にラップが被せてある。
「先にご飯を食べてから、シャワーを浴びるか」
そう言いながら頷くと麦茶をコップに注ぎ、被せられているラップを捲り食事を始める。
サークルの中では、『 のの 』が食べたそうに飛び跳ねながら鳴いている。
「ワンン。クーン、ワン」
「分かったよ。『 ののちん 』、少しだけだよ」
「はい …。」
肉の切れ端を千切ってサークルの上から落とし込んでやる。『 のの 』は嬉しそうに食べると、ペロペロとサークルの床を舐めている。
そして、やがて満足したと見え、サークルの寝床の上に横になり大きな欠伸を一つすると、首をすくめてまるまり目を閉じた。
私は食事を終えると食器を流しに運び、洗う端から乾燥機に入れスイッチを押す。 ウーン! と唸りながら乾燥機が動き出す。
「さてと、」
そう呟き、風呂場の脱衣所に入って行く。風呂の給湯器のスイッチを入れ、裸になると風呂場の戸を押し開け中に入る。
お湯が出て来るまでしばらく水を流しっぱなしにする。お湯になったところでシャワーに切り換え全身に浴びる。快いお湯の刺激が体中の疲れを洗い流していく。
「フウー、気持ちいい」
体から滴る雫をバスタオルで拭きながら伸びをした。頭の先からつま先まで、心地よい刺激が突き抜けていく。
洗面台に向かい歯を磨く。正面で、鏡に映った私がこちらを見ている。
突然、今朝の事が頭の中に思い浮かび、気になって鏡の中の自分を ジッ と見詰めてみる。
鏡の中の私も負けじと、ジッ とこちらを見詰め返している。いくら見詰め合っても私は自分でしかない。当たり前の事だった。
「やっぱりあれは、夢だものな …。そうさ」
そう納得して鏡から視線を離すと、キッチンに入って行く。
「さてと、寝るとするか …」
キッチンで冷蔵庫から麦茶を取り出しコップに注ぐと、一気に飲み干す。
キッチンと廊下の電気を消し、階段の電気を点けると足音を忍ばせ二階に上がる。
寝室に入りベッド脇のナイトスタンドを点けると、隣のベッドでは長男が既に寝息を立てている。寝室では私と長男が、妻は階段傍の子供部屋で次男と寝ていた。
時計に目をやると、もう一時を指そうとしている。
「さっさと寝てしまわねば。明日も仕事だ」
そう呟きながらベッドに潜り込むと、右手を伸ばして目覚まし時計をセットする。
ナイトスタンドのスイッチを切る。部屋の中は暗闇に包まれ静寂を取り戻す。
ベッドの中でもう一度思い切り伸びをすると、大きなあくびが出て、睡魔が足の指先から静かに這い上がって来ている。
ため息を一つすると、そっと目を閉じる。瞼の裏にも暗闇が広がっている。
「 … 」
今朝の事が、一瞬チラッと頭の中を過ぎる。
だが、考える余裕も与えずに、意識は知らぬ間に次第に遠ざかり、私は、いつしか眠りの世界に漂い込んでいた。
寝室の中は、ただ静寂な空気だけが支配していく。




