第一章(目覚め)
ある日の朝、目覚めると、そこは豚小屋だった。
周りには、ころころと太った豚たちが気持ち良さそうに眠っている。
「⁉。 ?…、……。」
「…夢?」
「何…、…」
とっさには、今の自分の置かれた状況が理解できない。
「昨夜は …、風呂に入ってベッドに入った後、少し本を読んで、…。それから眠った 、…はずだが ……」
昨晩読んでいた本の内容も、まだ頭の片隅に少しだけ残っている。それに、今し方見ていた夢も何となくだがぼんやりと憶えてはいたが、頭の中がちりちりと少し疼いて痛い。
「黒豚?…。 ……」
私の横には四匹の豚が、折り重なる様に寝ている。
周囲は鉄の柵で仕切られていて、外からは隔絶されている。そしてコンクリートで固められた床には、目の細かいオガクズが敷き詰められている。
もう一度、寝ている豚たちを眺めて見る。
彼らは体中が短い真っ黒な毛で覆われていて、前足と後ろ足の先と鼻の頭、そして尻尾の先が白い。
「くろろっぱく、… 黒六白。 ‼ 。 こいつら、バークシャーじゃないか⁉」
それは、昔どこかで見た事がある豚だった。一般的には黒豚と呼ばれており、肉の繊維が細やかで脂肪の風味が良い、肉質が優れた豚の品種の一つだった。
「⁉…」
自分の体を見回そうと立ち上がる。…が、立ち上がろうとしても手が床から離れない。
寝転んでいた体勢からやっと、四つん這いの格好を取るのが精一杯である。
慌てて、自分の手の指先に目を落とす。そこには二つに割れた蹄があった。そして足先も指が無くなり、二つに割れた爪になって、手足とも白い毛に被われた蹄になってしまっていた。
「へ?……。…」
体はと、首を回して見回すと、黒い毛で全身が被われている。
手、…今は前足となってしまったその先は、手首から先に短い白い毛が生えている。後ろ足の先も白い。
体をよじってお尻の方を窺う。果たしてそこには、先の方が白くなり丸まって上を向いた短い尻尾が生えていた。
「や! …。…」
鼻の先を、目を寄り目にして見てみると、やはり白い毛に被われている、 …ような気がする。
私は完全に、豚、しかも周りで寝転ぶ豚たちと同じバークシャーになっていた。
「やいやい、やい! …これは ⁈。…」
私は豚になっていた。しかも、本物の黒豚だった。
「どういう事… なんだ?……」
まだ、昨夜の夢の続きの中にいるのだろうか? 俺は …。
自分の頬っぺたをつねろうとするのだが、蹄になってしまった前足では、頬をつまもうにもつまむ事ができない。だからその代りに、頭を鉄柵にぶつけてみる。
( ゴン‼ )
「ギャビッ!」
「。……痛っ。…?…」
鈍い痛みが走り、目の奥でチカチカと火花が踊る。
「痛い⁉ 夢じゃない? は?。 …本当に、? ⁉……」
益々、今の自分が置かれている状況が分からなくなってくる。
「うーん。 ……」
しばし目を閉じ、首を捻って考え込む。
「まぁいいさ …。きっと、まだ夢を見ているのに違いないのさ。もう一回眠ってまた起きれば、目が覚めるだろうし。その時には元の体に戻っているだろうよ …」
そう、自分に無理やり相槌を打って納得すると、床に敷かれているオガクズの上にゴロンと横になり、さっさと寝てしまった。
身体の下からは、針葉樹の切り屑のオガクズの良い香りが、広がった白い両の鼻孔へと漂ってくる。
そして直ぐに睡魔が押し寄せ、私は心地良い眠りの中に落ちていった。
「ブヒッ! ブビッ、ブヒヒーヒー」
突然、もの凄い悲鳴と、背中を踏みつけられる激しい痛みとで、私は強引に夢の中から引きずり出された。
豚たちが、けたたましい喚き声を立てて騒いでいる。
寝ている私になどお構いなしに、狭い豚房の中を、周囲の鉄柵に沿ってバタバタと走り回っている。
「うるさい‼」
自分では、そう大声を出したつもりだった。だが、なぜか私の耳には自分のその声が、こう聞こえていた。
「ブヒー‼」
「!」
もう一回、言ってみる。
「ブヒー‼」
「?」
「ブヒー⁉」
「何だ …?」
既に、夢からは覚めたはずだった。今し方、豚たちに踏みつけられた背中が痛い。
「⁉。 これが …、現実?」
「まさか?、 な …」
立ち上がろうと、両足に力を込めて踏ん張った。だが体は持ち上がらないし、両腕も、両手とも床から離れようとはしない。だから相変わらず、私は四つん這いの姿勢で、豚房の真中に立ち竦んだままだった。
「え。 …」
不思議に思い、首を傾げながら見てみると、両手も両足も二つに割れた蹄になってしまっていた。恐るおそる、お尻の方に首を回して覗き込んでみる。そこには丸まって上にカールした尻尾があった。尻尾は、先の方が白くなっている。
「ブヒヒー‼」
自分では、『 なんて事だ‼ 』と言ったつもりだった。だが言葉まで、完全に豚になりきってしまっていた。
「???…。…??……」
これは、夢だったはずじゃないのか。さっきの騒ぎで、もう夢からは覚めたはずなのに。
周りでは、豚たちが相変わらず喚いている。
「ブヒヒー!」
「ブヒーヒー!」
豚房の鉄柵伝いに周囲を見回すと、豚が餌を食べるための餌箱にガランガラン と音を立てながら、豚舎の天井に設置されている自動給餌器が餌タンクから送られる配合飼料を落とし込んでいるところだった。
それで豚たちは、給餌器に給与されたばかりの餌を奪い合い、互いの体を押し退け合いながら喚き続けている。
「ブヒー! ブビー。ブー」
私は眉を潜め、呆然としながらこの光景を、豚房の片隅で身を縮め、呼吸を押し殺してジッと見守っていた。ただ唖然と、見ている事しか私にできる術は無かった。
「ブギー。ブビー!」
( ガタン、ガスン。ドッ )
「ビヒー! ブー」
凄まじい騒ぎだった。
豚たちは、お互いに体の上に伸し掛かり押し合いながら、餌を食べようと餌箱の給餌口を奪い合っている。
「ビギー!。ベギー」
( ガタン、ドスッ。バタン )
やがて自動給餌器のガランガランという、飼料を送るパイプラインが立てる音が止まると、豚たちは満腹になったと見え、給餌器から離れるとてんでに床の上にゴロンと横になった。
「ブー…」
自分では、『 ふー… 』と言ったつもりだったのだが、私はそう小さく溜息を吐くと四本の足で立ち上がり、給餌器の前に歩いて行った。
急にお腹が減ってきて、お腹の虫が『 グー! 』と鳴いた。
私は、昨夜から何も食べてはいなかった事を思い出していた。
白い鼻先を、給餌口の中に突っ込んで臭いを嗅いでみる。
黄色いトウモロコシや白い大麦が砕かれ粗い粒になっている、目の前の濃厚飼料が、大変なご馳走の様に感じられてくる。
それでも、私の心のどこかで『 これは豚の餌なのだ! 』という、浅ましいその感情を否定しようとする声が聞こえてきていた。
『 食べちゃいけない 』とも。
( ガッ! ガシュッ。ガコッ、ガッ! )
だが気がつくと、給餌器の中に顔を突っ込んで、私はがつがつと餌を貪り食べていた。お腹が満腹になるまで、我を忘れて夢中になって。
そしてお腹が一杯になり、頭の中に冷静に物事を考える余裕が出てきたのかもしれない。
人間としての理性が戻って。
《 どういう事なんだ。豚の餌を食べてしまうとは…。 》
《 だが、美味かった! 》
頭の中に、豚の餌を食べてしまった事を恥じる自分と、その一方で、その餌が美味しかったと感じている自分がいた。
恐ろしい事だった。私は心底、豚になりきってしまおうとしている。
それを意識した瞬間、我を忘れていた自分を非常に恐怖した。そして強烈な自己嫌悪の感情が、 ドッ と心の奥底から湧き上がる。
『 このままでは本当に、私は豚になってしまう 』
「ブウ、ブウ。ブウ」
だが言葉にしたその私の呟きは、もう『 ブウ 』としか聞こえなかった。




