機械のおもいで
■プロローグ
頬が、ズキズキと脈打っている。
顔は熱を持っているのに、躰は氷のように冷たかった。
「なあ、殺していいか!?」
鋭い声が鼓膜を震わせる。
早急に最適解を見つけなくてはならない。
今度こそ、最良のアルゴリズムを実行しなければ。
「私が産んだんだから、私が殺すのも自由だよな!?」
あまりの大声に、耳の奥がジリジリする。
「だって、お互い様じゃないの!」
「どれだけあんたに振り回されたと思ってるの?」
母の口から次々と発される言葉の数々。
そろそろ、許容過負荷を超えてしまう。
「おい!!」
突然、背中に鈍い衝撃が走る。胸ぐらを掴まれた私は、壁に押し付けられた。強い威圧。母の目には、狂気が宿っている。
「もうさあ、文句があるなら出ていけよ!!」
そんなことを言われても、行くあてなどなかった。
思い出すだけで息が苦しくなる。
けれども、それも含めて私の人生だと、今は思える。
■第一章 選択
畳の隙間から、扁平で小さな虫が這い出てきた。
ここは「第二ホテル」という名の簡易宿泊所──いわゆるドヤである。寝るためだけの箱、煙草の煙で黄ばんだ壁に、ツンとした異臭。最早、トコジラミとゴキブリの住処に居候させていただいている、と表現した方が正確だ。
私は、なぜここにいるのだろう。ここ数日間、私は記憶を反復し、置き去りにされた人形のような気持ちであった。忘れ去られた躰は、小さく丸まっている。
昔から、毎日が災害時のようだった。焦燥感から視野は狭まり、勉強にも集中できない。怠けているというより、要領が悪すぎるのだと思う。
劣等感を抱える私が唯一誇れたものは、絵だった。当時人気だった漫画の模写をしては、同級生に褒められたことをよく覚えている。
中学、高校と進むにつれ、絵だけが自分と世界を繋ぎ止める糸となった。その細い糸に縋るように、私は描き続けた。劣等感を打ち消すためには、誰かの真似事ではない“自分自身の作品”を生み出すしかない。
私は大学を二年で中退し、画家として生きることを決めた。描いている時間だけは幸福だ。もし、これを辞めれば、いよいよ何のために生きているのか分からない。
作品のテーマは、機械でできた人間。その出発点は“人間に擬態する機械人間”という幼少期からの幻想だった。他人と感情を共有できない自分は、ロボットなのではないか。そんな想いがあった。
幼少期から母に甘えたり、褒められたりした記憶はない。その代わり、馬鹿にされたり、殴られたりした記憶はある。父の方は、心理的な交流を避ける性格だったため、私と母との諍いに割って入ることはなかった。恐らく、先天的にコミュニケーションが苦手なのだと思う。
母の境遇は、ある意味、現在の私によく似ていた。母も実家の母と仲が悪く、早く家を出たかったという。今でも、連絡を断っているらしい。どんなに親を憎んでいても、息子に対して同じ愛し方をしてしまうとは、皮肉な話である。
しばらく、バイトをしながら画家活動を続けていたが、売上は微々たるものだった。就職活動を始めれば、絵を描く時間は取れないかもしれない。私には、どうすることが最善か分からなかった。
「死にたいな……」
ふと、不健康な感情が過る。
否、生きたい。
その言葉は、「幸せに生きたかったが、生きていても苦しいだけだから、もう解放されたい」という意味の婉曲表現だ。それは、多分居場所がないから。私は、家庭以外の人間関係を構築する必要に迫られていた。
個展やイベントに足を運ぶようになったのは、その頃からである。人間の集まる場所に顔を出すと、少しずつ知り合いが増えた。そして、活動を始めて二年目の秋に、陽葵と出会った。
彼女とは、言葉を交わしたその日から打ち解け、制作から恋愛まで、さまざまな話題を語り合った。
「え〜?それは違うんじゃない?」
陽葵は、笑いながら私に言った。
私と陽葵が同意見になることは滅多になかったが、不思議と居心地が良い。お酒、芸人、古着、演劇、同人……。陽葵は私の知らない世界をたくさん知っていて、全てが新鮮だった。私は、あっという間に陽葵に惹かれていった。
親しくなれば、個人的な悩みを打ち明けるようになる。私は意を決して、家庭内での事情を打ち明けた。
「それ……絶対おかしいよ」
陽葵は真剣な口調でそう言った。
陽葵は、嘘で固めていた私の鎧を一枚ずつ剥がし、最も醜いと思っていた部分さえも肯定してくれた。彼女の介入はときに強制的だったが、私にとってはそれこそが本当に嬉しかった。
それから陽葵は、親身になって相談に乗ってくれるようになった。というのも、陽葵は昔から父子関係が悪く、実家から逃げるように現在の家へ移り住んだという経緯があった。私は、陽葵の知識や友人の助けを借りながら、とうとう実家を脱出する準備を開始した。
そうして実家を脱出し、明日で三週間になる。区役所に駆け込んだ私は、まず「第二ホテル」という名の簡易宿泊所に案内された。
「更生施設の利用申請が受理されるまでは、こちらの簡易宿泊所で生活していただく必要があります」
区役所の職員は、滑らかな発音でそう言った。
ホームレスにならずに済むだけありがたい、と思えばそれまでだが、それでもある程度の忍耐が必要な予感はした。
今、居室を満たしているこの陰惨な雰囲気は、単なる視覚的な問題か、はたまた、孤独感からくる不安によるものか。見窄らしい電灯はつけたままにしておき、また私は小さく丸まった。少なくとも、今の私は“あの家”の登場人物ではない。私はただ逃げたのではなく、生き延びるために自ら“選択”したのだ。
■第二章 再編
不安は、常態化していた。
脈動する躰、効かない抗不安薬、
全身の皮膚がひりつくような感覚。
誰かが……話している。
自分は、何だか傾いたまま、正座をしている。
自分?誰……?逆光で表情は見えない。
明滅は有機的で、酸素濃度は低く、
ぱちぱちと……何かを主張していた……。
病院の消毒液のような匂いがする。
目が覚めると、見慣れない場所にいた。
そう、二度寝をしたのだ。酷い夢だった。どんな夢だったのか、もの凄いスピードでイメージは遠ざかる。今はもう……よく思い出せなかった。
五月に利用申請が受理されると、更生施設「新山崎荘」へ移動することになった。
「ここは、支援を必要とする単身世帯を対象に、食事や入浴等の生活支援と、社会復帰に向けた自立支援を行う施設です」
施設の職員が、プリントの文字を淡々と読み上げる。
利用者の年齢層は比較的高く、前科のある者も多い。それでも、清潔な居室と栄養バランスの良い食事、さらには入浴と毎月の理髪まで可能で、療養には最適な環境だった。
新山崎荘では朝の掃除当番があり、私の担当は喫煙室だった。そこには、道路に面した大きな窓があり、並行な四本の車線にミニカーが走っているのが見える。
朝日に照らされたミニカーは、車線に対して45°の影を作りながら流れてゆく。単純な画面構成が美しい。美しさを感じる自分が、また美しかった。窓に映った自分を見ていると、以前とは少し顔つきが変わったような気がする。
施設の中は、社会の流れから隔離されていて、まるで時間が止まっているような錯覚に陥る。単語が、文脈から切り離されると意味を失うように、これまでの社会的関係から切り離された私も、意味を失った存在となって浮遊していた。
無条件の愛を欲していた私にとって、この場所は、その条件のなさを孤独という形で提供してくれた。居心地の良さと寂しさの同居する清潔な居室の中で、私は絵を描いた。テーマはやはり、機械でできた人間。人間関係から切り離された場所で、人間に憧れる自分を描き続けていた。
父の匂いがする。
グローブのような太い指で、器用に柿の種を口に運び、ゴクリと発泡酒を飲む。目線の先のテレビには、どこかの芸人が映っていた。穏やかな目尻に刻まれる皺。私は、父が好きだった。
虐待とか機能不全家族と言っても、悲しい記憶しかない訳ではない。どんな家庭にも、その家庭なりの生活と思い出があり、一概に評価できるような単純なものではないと思う。
母は、傷つきやすい人だった。そのため、私は、察することが苦手であるにもかかわらず、母の顔色を伺うようになった。家庭外でもたびたび遭遇する場面だが、「察することが当たり前に要求されること」が本当に嫌いだった。
私は、過剰適応による過度な抑圧から心身に不調を来した。家庭、恋愛、職場。思い返せば、全てにおいて過剰に適応していた。私が頑張れば、うまくいくはず。いつか平和になるはず。そういう、一種の幻想を生きてきたのである。このような幻想は、短期的には安心を生み出したものの、長期的には精神を蝕んでいった。
新山崎荘での静かな日々は、そんな私の歪んだ認識を、少しずつ洗い流している。本当の私なんて、どこにもいないのかもしれない。時間が止まったようなこの場所で、私は、自己の統一性という幻想からも解放されつつあった。
私は、無数の「私」のスープをかき混ぜるように、大きく息を吸い込んだ。この先、私は私の大切な人を幸せにすることができるのだろうか。そのためにも、まずは自分自身の再編を果たさなければならない。
■第三章 人間
時計の針は、二十時十五分を指している。
十月から物件探しを進め、十二月から東京の賃貸物件「コーポラスやなぎ」で暮らすことになった。家を出て八ヶ月、長い道のりであった。決して広くはないが、必要十分な生活空間。窓の外は、タワーマンションの放つランダムな光に包まれていた。
このところ、全身が鉛のように重く、昼も夜も関係なく眠ってしまう。最早、画家活動は続けられなかった。或いは、ようやく休むことを許せるようになった、とも言える。
浅い眠りのせいか、焦る夢ばかり見ている。年末の、記憶の大掃除といったところか。日々の夢の共通点は、焦燥や喪失の反復と、それが演出的だということ。要するに、自分の人生そのものだった。これで走馬灯のつもりなら、あまりにもセンスがない。
「もう一生、自分は寝たきりなのかもしれない。ならば、絵を描けない自分に価値はあるのか?」
ふと、そんな問いが過る。
「一生ではないし、価値がないこともない。君は、世界中の寝たきりの人に価値がないとでも言うのか?」
即座に私の中の一人が応える。
「回復に向かっていると思いますよ」
精神科医の言葉が録音のように正確に再生される。
明滅するLEDのように、現れては消える反芻思考。横になり、この無意味な問答を反復する私のために税金が使われていると思うと、罪悪感で押し潰されそうになる。
「私が生きていることに、何か意味はあるのか?」
再び、問う。
「何の意味もない。そんな事は分かっているだろ?」
私の中の誰かが返答する。
「でも、何かの役に立ちたい……」
「誰かに認められたり、感謝されたり、誰かと喜びを分かち合ったり…………」
どうして私は、こんなところで泣いているんだろう。
こんなところで、何をしているんだろう。
この見知らぬ部屋は、どこなんだろう。
また、死にたくなってきた。
いっそ誰かが、私を殺してはくれないだろうか。
そんな贅沢が叶うなら、きっと、何事にも代え難いほどの幸福が私を包み込むのだろう。病的な鈍麻感が、ゆっくりと私の躰を支配してゆく。
夜は、次第に密度と重さを増していった。
私は一時期、陽葵に殺されたかった。
そのような妄想が実行される日が来るとすれば、それは完璧な一日になるに相違なかった。
恐らく、「殺されたい」という願望は、「愛されたい」という欲望に近いものであると思う。愛するということは、相手に干渉するということで、それはある種、個人の自由意志を侵害する行為でもある。愛は、決して優しさや共感だけで構成されるものではなく、自由の侵犯を内包した現象なのかもしれない。
また、夢を見た。
あれは、大学生の頃に付き合っていた女性だ。その人は豊かな感性を持ちながら、どこか杓子定規な部分もあり、不安げに笑ったかと思えば、突然人を突き放したりする。変な人だった。
しかしながら、そんな矛盾を内包した彼女の立体的な人格に、私は惹かれたのだった。それは花火のように鮮烈で、圧倒的な魔性を持っている。好奇心を掻き立てられ、創造性を刺激される。
そういえば、昔から線香花火が好きだった。時折、あれが人生の全てを表していると思う時もある。
多分、私は圧倒的な存在に支配されたいのだ。或いは、支配したいのかもしれない。それは、母性への憧憬だろうか。相手に「支配しなければいけない」と思わせることで、相手を支配する万能感を得たい……まるで、赤子のように。
コーポラスやなぎで暮らし始めて二年。
私は、陽葵と結婚した。
私たちは、互いの不安定性を理解しつつも、必要なときには支え合い、尊重し合っていた。彼女が私とは全く違う、独立した“個人”であることを知るたびに、私は感謝と安堵を覚えた。
一方、私は母と連絡を取らない間に、頭の中で安易な幻想を育て始めていた。それは端的に言えば、私と母とが互いに冷静になれば、過去の過ちを清算し、再会できるという幻想だ。
しかし、結婚を機に送った久々のメールに返信が来たとき、私のそれは、容赦なく打ち砕かれた。
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件名:Re: 結婚しました
差出人:母
メールありがとう。
急なことだから、正直心がついていけていない部分もありますが、まずはおめでとう。あなたが家を出て、今の生活を手に入れるまでには、お母さんには想像できないほど辛いこともあったことと思います。でも、お母さんを含め、お父さんも、みんなずっと同じように苦しんできました。
お母さんもうつ病になり、複雑な思考を行うことや、臨機応変に行動することができなくなっています。もともとストレスを溜めやすい性格ではありましたが、コロナ禍に入ってからの私のストレスは相当なものでした。人に会えない辛さ、お父さんとの関係、あなたが大学を退学したこと。
こんなことをあなたに言ってはいけないけれど、私の中の消えてなくなりたい気持ちは日に日に強くなり、一日中涙が止まらない状態です。
今、あなたには彼女が居てくれていますよね。こんなことを書くと、気持ち悪いかもしれないけれど、SNSで二人のことを目にしています。
近くに信頼できる人がいてくれることは、心の回復には一番だと思います。お母さんには今、そのような居場所がありません。お父さんには何度も話をしていますが、理解することができないのだと思います。
一度、会って話をすることはできませんか?
あなたに助けてくれだなんて言うつもりはありません。ただ、もう一度会って、きちんと話をしたい。このままだと、もう永遠に会えない気がします。
お母さんより
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文章を読みながら、キューーッ……と耳が遠くなる。目の前の景色が、何か無関係の映像のように現実味を失っていった。
どうやら、とんだ思い違いをしていたらしい。私は途端に、実家での二十数年間が虚構であったような喪失感を覚えた。何らかの意味があると思っていた諍いや、苦悩、謝罪。
それが今、砂の城のように崩れ去ったのである。
不意に、柔らかくて温かいものが私を包み込む。
陽葵の匂いだ。
「大変だったね……」
陽葵が泣いている。
思考の表面が、僅かにざらついた。
「もう大丈夫だよ……大丈夫……よく頑張ったね……」
そのとき、胸の最深部で何かが音を立てた。
それが何によるものか、私には分からなかった。ただ、その一瞬だけは、私の中の全員が停止していた。
気がつくと私は、陽葵の腕の中で、赤子のようにわんわんと泣いていた。
画家活動の再開に関する計画は、順調に進行している。新たな居住地の準備に関しても、計画通りに進行中。全て、問題はない。
脳内で言語が組み立てられ、現状の私を規定してゆく。
大丈夫。
陽葵の家族とも打ち解けてきたし、友人だって、少しずつ増えてきた。
ほんの少し、頭が軽くなったような気がする。
どうやら私は、早くも新しい幻想を拵えたらしい。
「案外、逞しいじゃないか」
私の中の一人が、私に感心する。
しかし同時に、そんな単純な幻想に飛び付かなければ安定を維持できない精神力の低さと、それを逞しさとして許容してしまう感受性の鈍さに、私は少し幻滅した。
ただ、この幻滅こそが、冷静な自己認識なのかもしれない。
私は、「誰かになること」をやめる必要があった。文脈と単語の関係のように、陽葵の家族や友人がいるからこそ、私は私でいられる。そう思えるようになったのは、紛れもなく陽葵のお陰だった。
私はもう、劣等感に支配される機械ではない。傷つきながらも修復し、他者と繋がり躍動する。不格好だが愛すべき、ただの人間だ。これまでも、そして、これからも。
■エピローグ
コンビニエンスストアを三軒もはしごして、ようやく手に入れた手持ち花火のセットも、終わりに近づいていた。結局、地味な線香花火が最後に残る。
陽葵の線香花火が弾けている。
きっと、全てに意味はない。だからこそ、それがあまりにも美しくて、それをぼうっと眺めながら、私は静かに泣いた。




