初めての冒険
「ありがとうね。助かるわ」
宿屋の女将は嬉しそうに笑顔をこぼす。僕は軽く会釈して、魔刃・水天滅衝を握り直した。
今や、その戦略級の魔剣はただの“高圧洗浄機”と化している。刃先から噴き出す水流が、宿の外壁を瞬く間に白く蘇らせていく。
噴き出す水音。石壁に散るしぶきが頬を打ち、冷たさに少し身を竦める。
最近は、口コミで評判が広がり、僕たちのパーティ<町の便利屋さん>への指名依頼も右肩上がり。
回復魔法による腰痛改善、支援魔法による武具のメンテナンス――。。最初は冒険者向けだった仕事も、今ではすっかり町の日常に溶け込んでいる。
ルフィーナの回復魔法の施術は腰痛に効くと年配者に人気だし、リシアの支援魔法の刃研ぎは主婦に好評――そして、僕の高圧洗浄魔法も売上に貢献している。
魔刃・水天滅衝。本来は竜の鱗を貫き、幾万の兵を切り伏せても刃こぼれ一つしない魔刃――なはずなのだが。
少し悲しくもあるが、かなり売上に貢献しているのも間違いない事実である。
女将からお代を受け取り、そのまま宿代を先払いする。最近は常連扱いで、ちょっと割引してもらえるのがひそかな喜びだ。
ひと仕事終えた達成感に身を包まれつつ、広場を抜けて、組合へと足を運ぶ。
入り口近くの掲示板は相変わらず雑然として、依頼書と落書きと誰かのメモがごちゃ混ぜになっている。横目で流し、奥の酒場へと歩みを進めた。
通りに面した窓辺の席。リシアとルフィーナがすでに腰掛けていた。
ルフィーナがぱっと手をあげ、陽光のような笑顔を投げてくる。その明るさに、不意に肩の力が抜けた。
「先生、聞いてください!」
待ちきれないといった様子でルフィーナが声を弾ませる。
「どうしたの」
「リシア、しばらく組合の働き人として雇ってもらえることになったそうですよ」
僕は椅子に腰を下ろしつつ、リシアを見る。
「ダメ元で、どうですかって聞いたら、たまたま欠員が出たからいいってさ」
嬉しそうにリシアが言う。
パーティ<町の便利屋さん>のそもそもの目的は、学費と生活費を稼ぐことだ。
その意味では、組合の働き人になれたのは吉報だ。
――だが同時に、それは僕らの“便利屋稼業”が終わりに近づいている合図でもある。
「もう少しで、このパーティもおやすみか」
声に出してみると、思った以上に胸がざわついた。名残惜しさが舌に残る。
入学後は、勤労学生として学内の仕事をするつもりだったから、僕もルフィーナも、冒険者稼業はいったん休止になる。
――とはいえ。この6週間、僕らはいつ冒険らしい冒険をしたんだろう。疑問が喉奥に引っかかった。
「あのね……」
リシアが視線を伏せ、声を落とす。
「まあ、目的はだいたい達成できたと思うんだけど、冒険者なのに、まだ冒険してないなと思って」
少し躊躇いながら、リシアは言葉を続ける。
「そりゃあ」
「そうなんだけどね――」
僕が言おうとした言葉を言わせまいと、重ねるようにリシアは言ってきた。
「やっぱりね。その……」
曖昧に濁した声。視線は泳ぎ、僕を正面から見ようとしない。
釈然としない僕の顔を見たのか、ルフィーナが柔らかく割り込んだ。
「別にこれで終わりではないと思うのですが、思い出があってもいいかなという話になったんです」
なるほど、なんとなく話が見えてきた。僕は顎に手を当てて、言葉を整える。
「つまりは、思い出づくりの冒険がしたいと」
「冒険……まで行かなくても、景色なきれいなところとか行けたらいいなって」
そう言うと、少し慌てたそぶりでリシアが手を振る。
「試験前で忙しいだろうから、旅行とかじゃないの。依頼のついでに見たいな」
横に立つルフィーナへ目を向けると、彼女は困ったように微笑みつつ、瞳だけで何かを訴えてきた。
「別に息抜きにどっか行ってもいいのに」
なぜか、この僕の言葉にリシアは膨れて言い返してくる。
「ダメ。ついでなの」
「ついでね」
「そう。ついで」
強い口調と、しかし照れ隠しのような仕草。肩越しに差す夕日の赤が彼女の頬を染め、拗ねた横顔をひときわ鮮やかにしていた。
なんとも、リシアらしい考えだ――。
「それで少し装備が必要ですが、この依頼はどうかなと――」
ルフィーナが机の上に依頼書を広げる。
「おっ――。採取じゃないんだ」
依頼の内容は、ケントロスの駆除。初めての討伐依頼に、期待が高まる。
「先生がつくった、魔剣の……。なんとか剣――の威力とかも見られていいかなと」
ルフィーナが小首を傾げ、愛嬌を含んだ笑顔を浮かべる。示し合わせたように僕を乗せている気配を感じるが、不思議と悪い気はしない。
剣山竜の一種――ケントロスは草食動物で、体長4メートルほどで比較的竜種の中では小柄だ。
「場所は…南西の沿岸部の丘陵地帯か」
依頼書の文言を手でなぞりながら、丁寧に読んでいく――。
「最近になって、人里のほうに降りてきてしまっているようで、少し頭数を減らしたいそうです」
ルフィーナが補足してくれる。
「それに――。このあたりの海辺に美味しいレストランがあるとか」
待ちきれないようにリシアが身を乗り出す。
「足だけでも海につかれたらいいよね」
胸の前で両手を組み、ルフィーナも微笑む。二人の表情は、依頼よりも海辺の方に心を奪われているように見えた。
依頼書を彼女たちに返しつつ、僕は頭の中で行程を組み立てる。
「わかった。いいんじゃない。そしたら、明日荷物を揃えて、明後日に出発……。5、いや6日目に帰ってくる感じかな」
ルフィーナも頷きながら、それに同意する。
「帰った後、1週間試験に向けてラストスパートということで」
僕もルフィーナも、筆記試験も実技試験も余裕がある。だからこそ、気持ちはすっかり弛緩していた。
それを自覚しつつも、どうしようもない。
翌々日――。
ザックを背負った僕たちは旅人で賑わう、駅馬車広場から馬車に乗り込んだ。