追手
――ッ。
思わず心中で悪態をつく。窓を割って、通りに出たのはいいものの、追手もくらいついて着いてきたのだ。
暗い路地を縫うように、黒衣の影が迫ってきていた。4、5人。いや、それ以上か。赤い魔光が手のひらに集まり、蛇の舌のようにこちらへ伸びる。
慌ててフードを深く被りつつ、魔法を練る。
素早く後ろに防御結界を多重に展開し、背後から放たれる魔法を弾く。同時に足へ強化を刻み込む。
「迅雷迅駆」
途端、音がなくなる――。
空気を裂く音すら吸い込まれたように消え、残るのは自分の鼓動だけ。
追手の魔法が鞭のようにしなり、迫る。獲物を絡め取る拘束系だろう。
足に力を込め、地を蹴る。
視界が跳ね、屋根の上に身を乗せた。瓦が割れる感触。夜気が頬を斬る。さらに次の屋根へ――。
だが、ふと力が抜けた。
魔力が途切れ、足の軽さが霧散する。
振り向きもせずに、後ろ手に拘束魔法を幾度も撃ち返し、間髪入れずに詠唱を重ねる。
「迅雷迅駆」
空気が震え、再び音が消える。
足裏に宿る衝撃が爆ぜ、屋根瓦が砕け散った。
――土砂にのまれかけた経験から僕は学んだ。油断せずに、詠唱を重ねる大切さを。
「朧煙霧!」
瞬間、白い靄が噴き上がる。視界を曇らせ、分身が影を踊る。
僕はその隙に身を沈め、雑踏の闇へと滑り込む。
迅雷迅駆が解けるや否や、短い詠唱で服装を変える。フードが外套に、色が別の布地に。
流れに紛れ、息を潜めた。
相手はルフィーナを追っている。ならば、まったく別の背格好の僕に気づくはずがない。
確かに背丈はやや近い。けれど、艶やかな薄栗色の長いウェーブと、根元で真っ直ぐに分けられた淡金色の短髪では、印象そのものが別人だ。
やがて、空が白み始める。
尾行の気配が完全に途切れたのを確かめ、僕はもとの宿へと歩を戻した。
泥を練り込んだような疲労が全身にまとわりつく。足を引きずりながら階段を上り、ソファに身を投げ出す。
革の軋む音が耳に心地よい。重力に飲み込まれるように意識が沈み――いつ、瞼を閉じたのかさえ分からなかった。
――柔らかな熱に包まれる。
温かな手の温もりに揺さぶられて、僕はゆっくりと目を開けた。
「大丈夫?」
リシアの声は、春の陽だまりのように心地いい。
「今は?」
「もうすぐお昼――」
驚きよりも、心配がまさったのだろう。そっと寝かしておいてくれたのが、素直に嬉しい。
「向こうでは寝れなかったの?」
怪訝そうに首を傾げるリシアに、慌てて手を振る。
「違う違う。変な奴らに襲われたんだよ」
――間違っても、安宿が嫌で女性の寝室に忍び込んだのではない。
そのことを強調するように言葉を選びながら、昨夜の顛末をかいつまんで説明した。
話を聞き終えたリシアは、心配の二文字を顔に貼り付けて、僕を見回してくる。
「怪我はないよ。大丈夫」
安心させようと笑ってみせると、彼女は胸を撫で下ろし、今度はルフィーナへ視線を向けた。
「ヨナさんでよかったね。ルル!」
呼ばれたルフィーナは、モゴモゴと口ごもり、反応に困った様子。
「どういう意味だよ」
思わず口を尖らせると、リシアはくすっと笑って肩を叩いてきた。
「まあ、でも本当に良かった。もう、ここにみんなで泊まったほうがいいかもね」
その言葉に宿る優しさは、彼女の瞳と同じ色をしていた。
「……そうさせてもらおうかな」
素直に頷いた僕は、その視線に甘えることにした。
横で僕とリシアの会話を聞いていたルフィーナが、おずおずと口を開いた。
「ヨナ先生……それって、どういう人たちでしたか?」
宙を見上げて、記憶を辿って見るが、あまり鮮明には出てこない――。
「しっかりと見たわけじゃないから、わからないなあ」
「そうですか……。あっ、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げるルフィーナ。その背に手を添えるように、リシアが寄り添った。
「ちなみにだけど――。先生じゃなくてもいいんだけど」
重くなった空気を和らげたくて、少しおどけて言ってみる。だがルフィーナは首を傾げ、不思議そうに見返してくるばかりだった。
「でも、ヨナ先生は助祭なんですよね」
「いやまあ、そうだけど、まだ叙階されていないから、先生は……」
「そうなんですか……。神父様はみんな先生というイメージだったので――」
困り顔のルフィーナも可愛らしい。とはいえ、呼び名というのはなかなか変えるのに勇気がいるものだ。僕もルルとは呼べない――。
「まあ、うん――。呼びやすいのでいいよ」
ルフィーナは手を頬に当てて少し考えたが、結局は変わらなかったらしい。
「じゃあ、先生で!でも……リシアはヨナさんなんですね」
不意に気になったのか、ルフィーナは首を傾げながら、リシアを見る。
「昔からの仲だしね。でも、一応敬意を込めて『さん』って呼ぶようにしてるんだよね。ね!ヨナ」
そう言って、わざと強めに僕の肩を叩いてくる。
「敬意はどうした敬意は」
僕が軽口を言うと、空気が弛緩して、久しぶりに笑いが生まれた。
「とりあえず、事件のことは考えても仕方ないから、できる準備を進めようか」
僕の提案に、二人とも頷く。
リシアは広げた紙にびっしりと書き込まれた必要品リストを示す。
「ごめん」
僕は両手を合わせ、彼女に向き直った。
「先に古物商へ寄ってもいいかな。魔道書を見ておきたくて」
「いいけど――。必要なものも、ちゃんと買わないとだからね」
リシアの釘を刺すような声に、もちろんと答えつつも、心の中では少し拗ねる。魔道書だって必要品のはずなのに。
「この辺に、魔道書が多いところはどこかな。攻撃魔法について、学びたいんだよね」
眉間に皺を寄せて、頬に手をついたルフィーナが答える。
「うーん……向こうの通りに小さな古物商があって、そこに意外と安く色々あったかもだけど」
そう言って、ルフィーナは顔の前で手をパタパタと振り添える。
「でも、専門店じゃないから、そんなに数はないかもしれません」
横からちらりとリシアがつくったリストを見ながら、ルフィーナに答えた。
「じゃあ、最初にそこを見て、それから専門店も回ろう。初級の魔道書も一冊欲しいし――」
「初級のなら、私のを貸しましょうか」
意外そうな表情のルフィーナがこちらを見ていた。
「本当に基礎の基礎ですが」
「いや――むしろ助かる。攻撃魔法は本当に手つかずだから、基礎で十分ありがたいです」
ルフィーナの顔に浮かぶ戸惑い。首を傾げた僕に、彼女は少し心配そうな声で続けた。
「一ヶ月後の試験にも出るはずだけど――」
僕は肩をすくめるように頷いた。
「まあ。実技はなかったしね」
<忘却拒絶>で、丸暗記すれば、筆記試験は行けそうだったし、実技は得意の支援魔法だったので、そこまで心配していなかったのだ。
だが、ルフィーナは眉を寄せたまま僕を見つめてくる。心配と不思議がないまぜになった瞳。その視線に、なぜか胸の奥がむず痒くなる。
「でも、攻撃魔法が不得意な神父様に初めて会いました」
ルフィーナの言葉に、今度は僕が驚く。逆に僕の価値観では、攻撃魔法が得意な神父の方がしっくりこない。
「修道女の人たちは、割と回復や支援をメインにする人は多いんだけどね」
横にいたリシアが割って入ってくる。
「修道者はダメ――。なんとなくでなってる人も多いし、特に何かこう……志とかがあるわけじゃないの」
声には毒が混じっていて、止まる気配がない。
僕は少し不安になってルフィーナの顔を伺った。だが彼女は静かに頷いている。どうやら、これはどこでも共通の現実らしい。
「つまり普段の職務は修道女に押しつけて、有事のときだけ攻撃魔法で手柄を持ってくのよ」
リシアの声には皮肉が滲んでいた。僕は軽く頷き、相槌を打ちながら返す。
「なるほどね。まあ、攻撃魔法ってのは冒険者にも傭兵にも使い道が多いし、潰しがきくもんな」
言いにくそうに、ルフィーナが補足する。
「その……。どうしても細かな魔法式は男の人は苦手みたいで」
僕としては、そんな奴らと同じ男性として見られたくないが、大雑把な攻撃魔法を好む者が多いのは納得した。
確かに修道院の評判は一部で芳しくない。怠けたり素行の悪い修道者の噂は耳にしていたし、「果たして本来の職務を果たせているのか」と疑問を持つ声も少なくない。
「なので、攻撃魔法が不得意というのは意外でした。……ちょっと待っていてください」
そう言うと、ルフィーナは荷物を探り、一冊の本を取り出して差し出した。
「はい。これが入門書です」
受け取った本は小綺麗で、紙からはほんのりとインクの匂いが漂う。ページを捲ると、ところどころに細い可憐な文字でメモが書き込まれていた。まるで持ち主の優しさがそのまま染み込んでいるようだった。