忘却を越えて
目尻に涙を残しながらも、笑みを取り戻した彼女は深々と頭を下げ、静かに聖堂を後にした。重厚な扉が閉まる音が、石壁を伝って胸の奥まで沈んでいく。
僕は椅子に身を沈め、肺の底にたまった空気を吐き出した。湿った石の匂いに絡み、すぐに静寂へ吸い込まれて消えていく。
――ある日、新しい人生を歩むとしたら。
「ひとつだけ、何でも望んでいい」と告げられたなら、人は何を選ぶだろうか。
前の世界での生涯に幕を閉じ、どこかの世界の狭間であの天使と会ったあの日。
僕が望んだことは、過去も未来も忘れたくないありのままの自分でいたい――そんな願いだった。
転生という理は、荒唐無稽な受け入れがたい歪な真理で、僕の世界観を粉々に砕いた。
天使に問いただしても、返ってくるのは沈黙と微笑だけ――。焦れた僕は叫んだ。
「なら、この世界の真理を教えてくれよ!」
その瞬間、天使の微笑はかすかに揺らぎ、悲しみを宿した。そして小さく、しかし確かに告げられた。
「もうすでに、ご存知です――」
長く留まることは許されない。決断の時が迫っていると諭され、せめてもの抵抗に、僕は最後に願った。
「過去も未来も忘れたくない。ありのままの自分でいたい」
こうして与えられたのが、スキル<忘却拒絶>。
能力はひとつだけ――「忘れない」。
派手さも華もない、極めて単純な力だった。
転生前ならともかく、剣と魔法の世界でどれほど役に立つのかと思ったけれど結局、魔法の勉強だって暗記から始まる。魔法の基礎も記憶の積み重ねなのだ。
それもあって、幼い頃から神童と言われ、若干16歳―成人の儀を迎える頃には、町で一番の魔法使いと評された。
街にある神学校への進学も進められたが、穏やかな暮らしを望んで、生まれ育った町に残り、育ての親である司祭のそばで学び、養父を支える道を選んだのだった。
前の世界でも似たことをしていたからか、不思議と肌に馴染んだ。
町に出て人々の家を訪ね、困りごとを聞き、聖日には礼拝を導き、説教を語る。
傷ついた冒険者が来たら、癒しの秘跡を行い、呪いを払う。
淡々としていながら、温もりに満ちた日々だった。まるで、何度も何年も何百年も繰り返しているかのように。
<忘却拒絶>の効果か、転生後も自分自身の人格を保っていた僕は、第二の人生を、困惑しつつも、割り切って精一杯生きることにしたのだ。
遠くから足音が近づく――と思った次の瞬間、切迫した声が聖堂に響き渡った。
「ヨナさん、ヨナさん!」
体を預けて、重い扉を開けて飛び込んできたのは、育ての親である司祭の娘リシアだった。
「どうしたの」
慌てて椅子から体を離すと、リシアは一直線に駆け寄り、手を掴んだ。
「ヨナさん、大変!川の堤防が決壊しそうなの」
辺境の町アルヒ。その中心を川が流れ、市場はその恵みによって栄えてきた。だが連日の豪雨で水位は危険域に達し、氾濫の恐れがあると噂されていた。とはいえ、上流の堤防は魔法で補強してあるから大丈夫――そう思っていたはずなのに。
「わかった。すぐに行こう」
上着を掴み、リシアと共に大雨の中へ飛び出す。馬にまたがり、川の上流を目指した。
町を出ると、雨はさらに激しさを増す。水しぶきが頬を打ち、視界は白く煙る。
空を金継ぎするかのように閃光が走り、雷鳴が大地を揺らす。冷たい雨は皮膚にまとわりつき、走りながら溺れていく錯覚さえ与える。
「大丈夫か!」
喉が裂けるほどの声を張り上げる。返事は聞こえなかったが、リシアの口が「大丈夫」と動くのが見えた。次の瞬間――彼女の顔が恐怖に染まり、必死に前を指さす。
視線を上げる。
巨大な蛇が口を開けるように、黒々とした濁流と土砂が迫っていた。
ついに、堤防が――僕が魔法で強化したはずの堤防が、決壊したのだ。
驕りがあったなと自分で自分を責めつつ、目の前の脅威を睨んでいく。
すぐさま、多数の魔法防御壁を練って展開させるも、濁流は容易く呑み込み、木の葉のように消し飛ばした。
「――ッ!」
反射的にリシアを抱え、空中へ浮かび上がる。だが馬は逃がせなかった。濁流に呑まれ、悲鳴すら掻き消される。
「町が……」
抱えたリシアの震える唇から、呻きが漏れる。
歯が砕けるほど食いしばり、拳を頭に叩きつける。
魔法では抗えない脅威。もし力があれば――。
あの時、違うものを願っていれば、この世界を救えたのだろうか。
今、この手に力があれば――。
「ありますよ。その力――」
美しい竪琴のような声にドキッとして、横を見ると、あの天使がそばにいた。
「あなたには、その力があります」
その時、記憶の底から――封じられていた何かが溢れ出すように甦った。
――スキル<穀泉医雨>。
胸の奥が焼ける。心臓を掴まれたような衝動が全身を駆け抜ける。
何故だろう、恐怖よりも「これしかない」という確信の方が勝っていた。僕はその衝動に逆らわず、ただ身を委ねた。
発動の瞬間、空気が震える。
荒れ狂う濁流は、見えざる力に導かれるように大地へと吸い込まれ、奔流の軌道をねじ曲げていく。
崩壊しかけた堤防の土塊が、地の底から押し上げられるように盛り上がり、再びその形を取り戻していった。
「……嘘だろ」
喉の奥から、震える声が漏れた。自分のものだと気づくのに一瞬かかった。
轟音の中、土砂と大水の奔流は町をかすめて逸れ、
市場を飲み込むはずだった濁流は、まるで意思を持つかのように方向を変え、別の低地へと流れ落ちていく。
「止まった……?」
リシアが震える声で呟く。
恐怖と安堵が混ざり合い、思考がまとまらない。
ただ分かるのは、今の自分が“何かを引き出した”という事実だけ。
慌てて横を振り向く。
だが、そこにいたはずのあの天使は影も形もなく、気配すら残っていなかった。
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数日後――。
決壊した堤防の跡に、僕とリシアは立っていた。
花を静かに手向け、亡くなった馬たちのために祈るリシア。その横顔を見ながら、僕は魔法を展開させる。
「痕跡照見」
淡い光が広がり、瓦礫の隅々まで探っていく。しかし――原因は掴めない。
顎に手をやり、ざらついた髭の感触を確かめながら思考を巡らせる。
「やっぱり、質量が多すぎて、補強魔法が壊れたのかなぁ」
そんな僕の呟きに、いつの間にか横に来ていたリシアが口を挟む。
「ヨナが書いた魔法陣が、雨で流れちゃったとか?」
「そんな子どもの落書きじゃないんだから、それ自体も保護されているし、そもそも万が一に備えて強固な石板に掘ったんだよ」
苦笑を浮かべる僕に、リシアはイタズラっぽく唇を吊り上げる。
「だって、あなためんどくさがり屋だから。『まあいいや』って雑に描いてそうだもん」
年齢もリシアの方が上で、幼馴染として同じ屋根の下で育った。普段は司祭の娘らしく敬意を払ってくれるが、二人きりになるとこうして砕けた調子になる。
本人は人前では「最大限の敬意を込めてヨナさんって呼んでる」と言うが、僕にはどうにもからかわれている気分しか残らない。
「仕事なんだから、手は抜かないよ」
少し不貞腐れて乱暴に言葉を返す。
――その瞬間、ふと気づいた。
魔法陣を刻んだ石板。確かめるべきだ。
探索魔法を使い、半ば掘り起こすようにして探す。時間はかかったが、ようやく見つけ出した石板は――無惨に砕かれていた。
「痕跡照見」
細かく調べると、そこに残っていたのは――攻撃魔法の痕跡。
「誰かが意図的に破壊した……?なんのために」
リシアが目を見開き、信じられないという表情を浮かべる。
「わからない。でも――」
苛立ちを抑えながら答える。
胸の奥に冷たい焦燥が広がる。
知識が足りない。この町を守る力が、今の僕には足りない。
自分のいるこの居心地の良い空間を守るために、できることがあるならしたい。
「……神学校へ行こう」
気づけば声に出していた。リシアが驚いたように振り向く。
「もっと学ばなきゃならない。必ず手がかりはあるはずだ」
そう言いながら砕けた石板を睨む。そこに残った魔法の痕跡――燃え残った紋様が浮かび上がっていた。