1話
鬱蒼とした大森林、その入口に位置するのどかな村だった。
通称、ルクレツィア村… 大森林に住まう魔女ルクレツィアが庇護する村であるからと、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた。魔女なんて誰も見た事が無いというのに、その存在は確かなものとして村民の間で語り継がれており。絶大な信仰の対象ともされている。
そんな魔女信仰のある閉鎖的な村では珍しく、魔女を全く信じていない、飛び抜けて不信心な黒髪の青年───ククリ・ユーリは気怠そうに呟いた。
「うわあ、早朝から何の用だよ…」
森に最も近い場所に建てられた二階建ての木造建築、ルクレツィア村の中では村長に次いでニ番目に大きい家の玄関前にて、彼は訪問者の影を見詰める。
薬師の家系に産まれたククリは頭痛に腹痛、熱から打撲に至るまで、凡ゆる"身体の病気"を担当する医者だった。
そう、彼が担うのは"身体の病気"であり…
「ククリくん、ライラちゃんは居るかい? 家の馬鹿息子が女に振られたらしくてなあ… ベッドの中から出て来ないんだよ。このままじゃ畑仕事に手が付かないってんで、取り急ぎ治して貰いたい」
辛い、苦しい、悲しい、寂しい、怖い… それらの感情をこの村では"精神の病気"と呼んでいる。
早朝から訪ねてきたトマト農家のおじさんが求めているのはどうやら"身体の病気"担当のククリではなく。
この家に住まうもう一人、"精神の病気"担当の様だった。
「あー… ライラなら今はお菓子作りに忙しい。そういうのは後にしてくれ」
ライラ・《《ユーリ》》、何を隠そう彼の妹こそが、精神を務める医者であり。ククリは大切な家族を想ってはぶっきらぼうを貫いた。
「そこを何とか出来ないかな! 今日が初収穫の日だから人手が必要なんだよ」
「はぁ? そうは言ったって…」
渋るククリの裏手から、ドタバタ煩い足音が響いてくる。
────ドンガラガッシャーン!!
盛大な破壊音と共に転がって来たのは。
溌剌とした碧眼をぐるぐると回し、翠色のショートヘアが似合うちんまい少女… 件の妹、ライラだった。
「あははは、いっったーい!! 」
何がそんなに面白いのか、ライラはぶつけた頭を擦って豪快に笑う。
十五歳のククリとは大きく歳が離れ、ライラは今年で九歳の幼い少女だった。
そんな彼女が精神の医者と呼ばれるのには訳がある。
「お兄ちゃん、お菓子は何時でも作れるから大丈夫だよ! ボクが必要なんでしょ? 朝ご飯が足りなくてお腹も空いてたしいいよ、《《食べて》》あげる! 」
ライラは不思議な異能を持っていた。
彼女は生まれついて、感情を食べ物のように食べることが出来た。食べられた感情は一時的に喪われ、その機能を発揮しなくなる。今回で言えば失恋の"辛い"と"悲しみ"か… 彼女に掛かれば瞬く間にそれらの感情を食し、忽ちに元気な精神へと治す事が可能だろう。
「…聞いてたのか」
「お菓子もお昼ご飯もちゃんと食べるから心配しないでいいよ! 」
そう宣う彼女の異能は比喩ではなく、実際の食事に等しいものであり。感情を食べればそれだけ腹も膨れる。…とはいえ、見掛けによらず大食漢である事を知っているククリは「そんな心配はしてねぇよ」と呆れた視線を放っていた。
「ははは、ライラちゃんが食いしん坊で本当に助かったよ」
「えへへ、いっぱい食べて大きくなって、将来はお兄ちゃんのお嫁さんになるんだから! 」
トマト農家のおじさんと共に朗らかな笑みを浮かべ、馬鹿な事を述べている小娘を見て「はぁ…」と大きな溜息一つ。ククリはその翠に揺らいだ頭を軽く撫でながら。
「何言ってんだ此奴は…
まぁ、お前が良いってんならそれでいいよ」
と、つい絆されては優しげに。
それでも譲れないものはあり。
「但し、俺も着いていくからな」
逃がさぬ様にと頭を掴み、此方を向かせてじとりと睨みを効かせた。
「えぇー… 別に一人でも平気なのに…」
ライラはいつも、ククリの同行を嫌がった。
それでもククリは出来る限り、幼い彼女の傍にいる事を決めていた。
だから今回も適当な理由をつけてやる。
「失恋後の男子が立ち直ったりしたら、忽ち狼になって可愛い妹を襲っちまう可能性が高いしな」
「お、狼…!!?」
「ク、ククリくん… 流石に家の馬鹿息子でもこんな小さい子は襲わないと思うよ…?」
それぞれの反応を見て、ニヤリと笑う。
「まあそれもそうか。ライラはちんまいしな」
「ちんまくないもん! 」
わちゃわちゃと騒ぎながらもククリは当然の如く、ライラの共を務める。理由は単純明快で、ただ妹が心配な兄心というものだった。
「んぐっ… んっ… あむ…っ」
ベッドに寝込む馬鹿息子の目の前で、ライラはモグモグと感情を食らう。
尤もククリを含めた常人には感情など視る事は出来ず、空を食べている様にしか見えないのだが、確かに其れは食事であった。
「ん…く…っ ぷはぁ… ご馳走様でした!! 」
丁寧に手を合わせて、謝辞を述べる様は何時もの飯時と変わらない。
「いただきます」と「ご馳走様」を教えたのは他でもないククリである。ニ人は早くに両親を亡くしている為、ククリはライラの親代わりも務めていた。礼儀作法は大切だとして、ククリは徹底的にそれを叩き込んだ。
「ライラちゃん、ありがとな! スッキリした気分で、何だかムラムラが止まらねぇぜ!!」
元気になった馬鹿野郎をククリは乱雑に蹴飛ばした。
ベッドから転げ落ちながらも、彼はムラムラと畑仕事へ向かっていく。そこに負の感情の一切は無かった。
「ったく、本当に馬鹿じゃねぇか彼奴…」
「あはは、へんたいさんだったね〜」
「ライラちゃんもククリくんもすまんなあ! あの馬鹿息子には言って聞かせるよ。兎も角助かった! 収穫が終わったらお裾分けをたんまり届けるよ」
「甘いやつ!? 」
「おう、家のトマトは凄く甘いって評判なんだ。期待しててくれ!」
「トマト!! お兄ちゃん、トマトだよ!!」
「はいはい、良かったな」
燥ぐライラを微笑ましく見詰め、畑仕事に行く準備をするおじさんへと声を掛ける。
「それじゃ、俺達は帰る。一応言っておくが、今後は早朝から来るのは止めてくれ。俺が担当する緊急の病気なら兎も角、精神の病気は特にな…
あと畑仕事の連中に伝えてくれ、今日は店仕舞いにするってな。お裾分けは明日の昼にでも頼む」
「おう、朝からすまんな。またお願いするよ!! 」
気軽な調子で朗らかに笑ったおじさんは、早々に畑仕事へと向かって行った。
「また… か」
ククリは小声でボソリとぼやく。
彼は気付いていないのだろうか。
何時も明るく振る舞うライラが、感情を食べる時にだけ、表情を消しているという事を…
「ほら、いくぞ」
「トマト、トマト、甘〜いトマト♪」 なんて呑気に歌っているライラへ、ククリはぶっきらぼうに手を差し出す。
「ん、帰ったらお菓子作りの続きだから、楽しみにしててね!! 」
差し出された手に元気よく縋り、楽しそうに前後へ振るうライラの額には、玉のような汗が薄く浮かんでいて…
ククリはそれを気にしない様に務めながらも、握る手には少しだけ、ほんの少しだけ、力が籠っていた。
その日の昼時のことだった。
馬鹿息子が別の女に振られて落ち込んだと、トマト農家のおじさんが再び、ライラの元を尋ねてきたのは─────