せんち麺と、エキスプレス
しいなここみさん『麺類短編料理企画』参加麺です。
まだ未熟な僕達にとって、その別れは必然だったのかもしれない。
ここから、彼女の住む街まで500キロ。その物理的な距離は僕達にとって、地球と月くらい、ベガとアルタイルくらい、遥か遠く感じられた。
東北新幹線は彼女を遠い街へと連れ去っていく。
見送りの人達がひとり、またひとりと立ち去っていく中、僕は彼女が消えていった線路の先を、いつまでも眺めていた。
新幹線3番ホーム。
ベンチに座り悲しみに暮れる僕の前で、幾つもの再会と別れが繰り返される。
やがて日は傾き、ゆっくりと彼女の存在する『今日』が死んでいく。そして遅かれ早かれ、彼女のいない『明日』は生まれるのだろう。
何かが吹っ切れた気がした。
僕はずっと温めていた樹脂製のベンチから、ゆっくりと立ち上がった。
新幹線ホームから改札へ向かう途中、芳しい匂いが俺の鼻腔をくすぐった。出汁のような深みがあり、それでいて甘味も感じせる香り。僕は唐突に、猛烈な空腹を覚えた。心にぽっかり開いた風穴が、お腹の中身まで吸い込んでしまったのかもしれない。
香りを辿るようにして、コンコースの端に辿り着く。
『せんち麺』
なんだそれ?
立ち食い蕎麦店のような施設に掲げられた看板、そこに書かれた文字に思わずツッコミが漏れる。
意味がわからないが、強くなる香りの影響で、空腹は耐え難いものとなっていた。考える事を放棄して、逃げ込むように暖簾を潜る。
「はぁ!? また辛気臭い顔した客が来やがったよ!」
カウンターで何かを調理していた店主が、僕を見てあからさまに眉を顰める。頭に白いタオルを巻いた、髭面で強面の男。黒いTシャツを着て腕組みをしているのも、いかにも感じだ。
「なんで俺の店にはこう辛気くせえ野郎しか来ねーんだ? おら、そこの券売機で券買ってさっさと座れよ!」
あいにく、僕以外の客はいないようだった。踵を返そうとしたのだが、男に怒鳴りつけられ渋々券売機に立つ。
『せんち麺 失恋の味』
いや、なんだこれ?
しかも券売機にはそのボタンしかなかった。食うんならさっさと食券をよこしな、と怒鳴る店主の声に急かされ、僕は食券を購入し店主に渡す。
「あー、失恋の味ね、おーけーおーけー」
店主は食券を一瞥し、あっという間に一品作り上げる。
「へい、お待ち」
カウンターから出されたその麺は、今まで見たことのない麺だった。桃色のスープの中に漂うのは、白く透き通った麺。具材は一切なく、麺だけが鮮やかなスープの海を優雅に泳いでいた。
その麺を一本箸で摘んで、恐る恐る啜ってみる。
異様なまでにすんなりと唇を抜け、すっぽりと口腔に収まる。ひと噛みすると、弾力のある麺がぷちんと千切れた。
その瞬間、思い出が一つ、浮かんで弾けた。
彼女と出会ったあの日。緊張して上手く話せなかった僕の顔を覗き込んで、優しく微笑んだあの顔。
もう一口啜る。
初めて僕の部屋に来た彼女と唇を重ねた夕暮れ。
さらに啜る。
クリスマス、ちょっと奮発した高級レストランで、二人の未来を語った夜。
啜るたびに幾つもの思い出が浮かび上がり、僕は涙が溢れそうになる。
「失恋てのはな、終わりじゃねーんだ。新しい自分に生まれ変わるための、大事なイベントなんだぜ、にいちゃん」
いかつい店主のありふれた恋愛ソングみたいな一言が、やけに深く僕の胸に突き刺さった。誤魔化すようにレンゲで掬って飲んだ桃色のスープは、温かくて甘酸っぱい。
はい……
はい……
何度も頷きながら、一心不乱にセンチ麺を啜る。感傷で空いた心の穴を、白く透き通る麺が満たしていくようだ。
「ほら、にいちゃんは特別辛気くせえからな、サービスしとくよ」店主が丼に細長い天ぷらを添えた。「彼女さんがこれから暮らす街は、イカの名産地なんだってな。イカのゲソ天でも食って、彼女の未来を応援してやんな」
僕はゲソ天を齧る。
サクサクの衣の中に、歯応えのあるゲソ。噛み締めるとイカの旨みが口いっぱいに広がった。
さっきは目を見て言えなかったけど……
頑張れよ、アケミ……
「もう二度と来んじゃねーぞー!」
スープの一滴も残さずたいらげた僕を、店主はドスの効いた言葉で送り出す。僕は苦笑いを浮かべ、でもどこか晴れやかな心を抱えたまま、暖簾を潜った。
せんち麺
変わった麺だったけど、べらぼうに美味かったな。こんな田舎の町では見たことも聞いたこともない麺だけど、東京の方では流行っているのだろうか?
そんな事を考えながら、なんの気無しに振り返る。
しかし、そこには何も無かった。
さっきまで店があったところには、ただ白い駅構内の壁が見えるだけだった。せんち麺店も、愛想の悪い店主のおっさんも、何も無い。
僕は呆然と立ち尽くしたまま、店のあった空間を見つめていた。
胃の中にはまだ、温かなせんち麺の余韻が残っている。
懐かしき『GOING UNDER GROUND』の『センチメント・エキスプレス』って曲のタイトルをパクって、そっから広げました(*´Д`*)