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蚊を潰す女  作者: 文重
3/3

3.アパートにて

女の中の“正義”が否定された時、彼女は自ら裁きを下す。

 渋谷から14駅目の京王線三鷹台から徒歩5分、築25年の木造モルタルアパートの一室で、さやかはウロウロと歩き回っていた。手には判事補の合否通知が握り締められている。2DKのダイニングには正方形のシンプルなダイニングテーブルが置かれ、2脚ある椅子の片方の背には、同棲している昌也(まさや)が今朝出かける前に脱ぎ捨てていったTシャツとハーフパンツがだらしなくかかっていた。さやかはテーブルの周りを歩きながら、いま気づいたというように椅子の背を見てハッとすると、手にした通知をテーブルの上に投げ出して、ため息をつきながらTシャツとパンツを丁寧に畳み始めた。眉間の皺がさらに険しくなっている。


「遅くなってごめーん」


 昌也が伸びきった前髪を暑苦しそうに片手でかき上げながら帰ってきて、反対の手に抱えていたビニール袋と吉祥寺駅前のハンバーガーショップの袋をどさっとテーブルの上に置いた。ビニール袋の中身はパチンコの景品で、スナック菓子の箱や袋が溢れんばかりに詰め込まれていた。


「大当たり出ちゃってさあ、やめ時を逸したよ。ほら、戦利品!」


 さやかが無反応なので、昌也は長身を折り曲げ、間延びした顔を近づけて顔を覗き込んだ。


「どした?」


 さやかは途方に暮れた様子で、


「さっき面接結果が届いたんだけど……」


 と言いかけたが、昌也の注意はすぐにそれて、意気揚々と袋からハンバーガーやフライドポテトの包みを取り出してテーブルの上に並べ始めた。


「さやかの好きなデラックスバーガー買ってきたよ。今日は俺のお・ご・り」


 珍しく気前のいいところを見せた昌也だったが、そのあまりの能天気さがさやかの怒りの導火線に火をつけた。さやかはハンバーガーの下敷きになっていた合否通知をひったくると、握り締めながら昌也に詰め寄った。


「あたしが不合格ってどういうこと? 何かの間違いでしょ? 大学も首席で卒業して、司法試験だって予備試験を受けて学部の時に一発合格よ。修習生の二回試験もクリアして、この間の面接だって面接官に褒められたのに」


 さやかの剣幕にタジタジとなりながら、昌也は慣れた様子でさやかをなだめにかかった。


「そうだよなあ、法科大学院出てるのに司法試験三浪の俺と違って、さやかは優秀だもんなあ。落ちたなんて信じられないよー。嘘だろう?」


 さやかがカッカしている時はのらりくらりと交わすに限る。それは昌也がこの間に習得した処世術だった。


 さやかが大学1年の時に法学部の先輩後輩として出会ったのが、2人のそもそものなれそめだったのだが、熱心な学級の徒だったさやかが、ゼミの指導教授の部屋を訪問するたびに、4年生の昌也が教授の助手のような仕事をテキパキとこなしている姿を見て、初めはさやかのほうが強く惹かれたのだった。その頃の昌也は長身痩躯で、髪型も身なりも小ざっぱりと整えた爽やかイケメンだった。

 裁判官になることが幼い頃からの目標で、勉強一筋、真面目一方の山梨の片田舎から出てきたばかりの女の子は、都会的な匂いのする昌也に一目でのぼせ上がってしまったのだ。ちょうど前の彼女と別れたばかりだったこともあり、昌也が軽い気持ちで誘うとさやかはあっけないぐらい簡単に落ちた。


 昌也が学部を卒業して法科大学院に通っていた2年の間は、それぞれ別々のアパートに住んでいたのだが、さやかが学部のうちに司法試験に一発合格したのに対して、長い学生生活で怠け癖がつき始めた昌也は万事において生活がルーズになってきた。弁護士になって田舎の両親――昌也も都会ではなく北関東の地方都市の出身だったのだ――を安心させたいという気持ちだけはまだ持っていたので、すべてにおいてきちんとしているさやかと暮らせば、自分の怠惰な生活も律することができるのではないかと考えて昌也のほうから同棲を提案したのだった。


 さやかも昌也と長くつき合ううちに、優しいけれど優柔不断なだけで、教授の頼まれごとをそつなくこなしているように見えたのも、教授が出した的確な指示どおりに動いていただけだということに気づいてはいたが、一途な性格ゆえに初めての男である昌也と別れるという選択肢は考えられなかった。自分と一緒に暮らすことで昌也が生活のリズムを立て直して司法試験の勉強に邁進できるならばと、さやかも同棲を決意したのだった。


 同棲を開始した3年前はアパートの家賃も生活費も折半という約束だったが、順調に法曹界への階段を上っていくさやかと違って、昌也は牛丼屋のアルバイトに午前中を費やし、午後は図書館で勉強という生活を送っていた。もっとも本当に図書館に通っているのかにもさやかは疑念を持っていたのだが。家庭教師のアルバイトをしているさやかのほうが収入が多く、また、司法修習生時代には給与も支給されていたので、3年経った今となっては昌也は半分ヒモ状態と言っても過言ではなかった。


「でもさ、裁判官が不合格でもいいじゃない。滑り止めで受けた弁護士事務所も楽勝で内定もらってるんだしさ」


 さやかが相変わらず無言のままなので、ただならぬ気配を感じた昌也は、うらやましさがにじみ出た軽い口調で慰めた。さやかの顔色が変わる。これが私が憧れたあの優秀な先輩と同一人物なのだろうか。つき合い初めの頃は授業でわからないところを質問すれば何でも教えてくれた。物知りで包容力があって頼りがいのある(ひと)だった。くたびれたシャツと膝が抜けかかったジーンズをはいて、しばらく床屋の世話になっていないことが一目でわかるボサボサの髪と、20代だというのに腹回りに少し脂肪がつき始めた姿は、そこらの学のない中年オヤジと何ら変わりがなかった。


 さやかが心の中で自分に対して手ひどいダメ出しをしていることにも気づかず、昌也はうれしいことがあった時の常でポキポキと指を鳴らすと、興奮した面持ちで話し始めた。


「俺、今日バイト休みだったろ。で、パチンコ行ったら、隣の台の人のスマホに電話がかかってきてさ、慌てて出て行ったきり20分経っても戻ってこないんだよ。ボーナス確定出てるのにだよ。もったいないじゃん。だから俺、隣の席に移ったんだよ。そしたら大フィーバーだもんな。超ラッキーだったよ!」


 それを聞いてさやかはくしゃくしゃに握り締めていた合否通知を思わず取り落とした。


「え? それって泥棒じゃない!」


「ええー、固いこと言うなよ。戻ってこないほうが悪いんじゃないか」


 昌也は悪びれる様子もなく言う。さやかは自分が不合格の通知に憤っていたことも一瞬忘れて昌也に詰め寄った。


「お店の人も気づいてたんじゃないの? 何か言われなかった?」


「うーん、何かこっちチラチラ見てる店員が1人いたけど、結局、何も言ってこなかったよ」


 昌也は気のない様子で答えたが、急に相好を崩して続けた。


「笑っちゃうんだけどさ、隣のヤツと俺、カッコがもろかぶりでさ。ほら、このお気に入りのスウェット。色も同じでキャップも同系色、背格好も似てたから、店員もあれってなっても同じヤツだと思ったんじゃない? あいつ、もしかして俺のドッペルゲンガーだったのかな? なーんちゃって」


 何がおかしいのだろう。そもそもパチンコで暇潰しをしたりお小遣い稼ぎをする人の気持ちもさやかには理解できなかった。景品の換金も限りなく黒に近いグレーだとも思っていたが、パチンコ自体は風営法で認められている以上は違法ではないのだから、他人が合法的に金品を獲得する権利を得たものを、あたかも自分のものであるかのように横取りするのは立派な犯罪だ。


「だめだよ、昌也! それって犯罪と同じことじゃない! 今からでも遅くないから戻って謝ってきて! ちゃんと弁償もして! ね! お金足りなかったらあたしが出すから」


 そう激しく訴えながら、さやかはこの数年間でこの人のために一体幾らお金を使ったのだろうと頭の中で電卓を叩いた。


「ええー! そんなことしたらかえって藪蛇だよ。どうせ気がついてないんだから、バックレちゃえばいいじゃん。さやかは細かいこと気にし過ぎ」


 何事につけ大らかで包容力があることが美点だと思っていた昌也の性格は、昔ファンだったアイドル歌手の色褪せたブロマイド写真のように、今や何の魅力も感じられないものとなっていた。それでもさやかは、生活を共にしてきた昌也に対する強い責任感から、道を外しかかっている恋人を正しく導くのが自分の務めだと信じて昌也に向って懇願した。


「お願い! 昌也だって昔は無人店舗でお金払わない人のことめちゃくちゃ非難してたじゃない! 神社の賽銭泥棒とか。わざわざ家ゴミをコンビニのゴミ箱に捨てに来る人に注意してたこともあったよね? あの正義感はどこ行っちゃったの? ねえ、お願いだから早く謝ってきて!」


 さやかが正論をぶつけても、いつも適当に受け流し暖簾に腕押し状態の昌也だったが、さやかの剣幕があまりにすごいので、珍しくその顔にうざったそうな表情が浮かんだ。


「大丈夫だよ、さやかってほんと心配性な。世の中、性善説が成り立たないことなんかいっぱいあるんだよ。遅ればせながら俺もその辺がやっとわかってきたってわけ」


 青臭い正義感なんか引っ込めておけと言わんばかりの昌也の態度に、昌也への失望と判事補面接に落とされた理不尽さやもろもろの鬱積した思いが爆発した。


「こんなに頼んでるのになんで行ってくれないの? 小さな罪を隠すと、いつか大きな犯罪につながるんだよ! だめなものは絶対だめなの!」


 またまたさやかの真面目な風紀委員が始まったと、昌也は苦笑いしながらダイニングチェアに腰掛けた。


「冷めちゃうから先食うよ。さやかも早く座りなよ。もう腹ぺこぺこだよー」


 昌也は、もうこの話はおしまいとでも言うかのように、包みを開けてハンバーガーにかぶりつき始めた。さやかは一緒にハンバーガーを食べる気にもなれず、昌也が座る椅子の背後にうつむいて立ったままだった。ハンバーガーを食べる昌也のくちゃくちゃという咀嚼音だけが耳につく。この人こんなに音を立てて食べたかしらと、今さらながらその音に意識が向くとじわじわと嫌悪感がこみ上げてきた。


 ――ブーンと不快な羽音がした。

 出入りする時には蚊が家の中に入らないように気をつけてといつも言っているのに、昌也が帰ってきた時に入り込んでいたらしい。小さく舌打ちをしてさやかは顔を上げ蚊の姿を認めると、その動きを目で追った。蚊はゆらゆらとさやかのほうを目がけて飛んでくる。さやかは素早く反応するとパーンと両手で挟んで一撃で仕留めた。開いた掌を見ると、潰れた蚊の腹から真っ赤な血が染み出ていた。昇天する前にすでに昌也の血を吸っていたのだろう。どうりでハンバーガーを一口食べてはポテトへと忙しく手を伸ばす合間に、時折ポリポリと腕を掻いていたわけだ。さやかの唇の端がおぞましい角度に歪んだ。


 初めて昌也に出会ったあの日から、法学部の先輩として、同じ法曹の道を目指す同志として、ずっと彼のことを尊敬してきた。昌也は、最初は弱い立場の者の味方になる人権派弁護士になりたいと言っていたが、弁護士は弁護士でも実入りのいい企業法務弁護士へといつの間にか目標を変更してしまっていた。

 それでも同じ法に携わる者同士、弁護士と裁判官という立場で切磋琢磨し続け、それぞれが就職した暁には結婚することも視野に入れていた。昌也にはあまりこだわりはないようだったが、法の下の婚姻という制度があるのに籍を入れずにずるずると同棲を続けることにさやかのほうが抵抗があったのだ。


 ずっと同じ気持ちで寄り添っていけると思っていた。それなのに……。さやかの前を走っていたはずの昌也は、法科大学院にまで進学したのに何度も司法試験に落ち続け、さやかのほうが先にゴールに手が届くところまで来てしまった。家庭教師のバイトを紹介すると言っても、教えるための準備に時間をとられて自分の勉強ができなくなるからと牛丼屋なんかで働いている。しかも店長でも何でもなくマニュアルどおりにただ淡々と牛丼を盛りつけるだけの、知的労働のかけらも感じられない時給1300円の下っ端店員だ。


 今回、判事補の面接試験にはなぜか落とされてしまったが、私が裁判官になってちゃんとお給料をもらうようになったら、今まで以上に私に寄生して暮らすつもりなのだろうか。この先も司法試験に落ち続け、そのうち弁護士の道すらも諦めてしまうのだろうか。学生の頃はあんなに熱く法や正義を語っていた昌也が、気軽に闇バイトに応募する未成年のように思えてきて、そんな男をパートナーに選んでしまった自分に無性に腹が立った。


 やがてその怒りは、さやかの落胆に気づきもせずに黙々とハンバーガーを頬張る昌也へと向けられた。道を踏み外した未成年にはきちんと罪を償わせないといけないのだ。さやかは振り向いて壁際のキャビネットに飾ってある重そうなクリスタルの置物を手に取った。長方形のクリスタルの内部に正義の女神テミスが立体彫刻された高さ20センチほどの置物だ。テミスの像は最高裁判所の大ホールにも置かれている、まさにさやかと昌也が目指した法というものを具現化した姿だった。


 さやかは手にしたテミスのクリスタルを頭上高く振り上げると、昌也の後頭部を目がけて思いきり振り下ろした。


「犯罪の芽は早いうちに摘まなきゃね」

                              ― 了 ―


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