2.小学校の裏庭にて
15年前――。
小学校の裏庭にはボウフラ狩りに精を出す2人の女の子の姿があった。
15年前の6月――。
そろそろ梅雨入りが間近に迫ってきているせいか、晴天にもかかわらず空気は重苦しい湿気をはらみ、放課後の校庭でサッカーに興じる男子児童たちの歓声もどこか淀んで聞こえてくる。
築30年以上が経った小学校の無機質な灰色のコンクリート校舎の裏庭には、使い古したプラスチック製のプランターや植木鉢が乱雑に積み上げられていた。
校庭を含めた表側は定期的に整備のための業者が入ったり、先生たちが草むしりをしたりと日頃からよく管理がなされていたが、外から見えない裏庭は雑草がぼうぼうに生え、使われなくなった体育用具や破れたバレーボールのネットや用途不明の資材が、何かの遺跡のように置かれ昆虫たちの温床になっていた。
職員会議でも裏庭の整備が何度か議題に上がってはいたが、業者に頼むほどの予算はとれず、先生も自分たちで汗水垂らしてやるほどの熱意もなく毎回立ち消えになっていた。PTAのボランティアを募るという提案も出されたが、モンスターペアレントの存在や、両親共多忙を極める昨今の事情を鑑みれば非現実的であると却下され、裏庭はずっと放置されたままだった。
朽ちかけた木のベンチに二つの赤いランドセルが置かれた横で、小学3年生の女の子2人が積み上げられた長細いプランターの一つを覗き込んでいた。
「今日もいっぱいいるね、あかねちゃん」
15センチほどの高さまで溜まった雨水に蠢く多数のボウフラを指差して、さやかがうれしそうに傍らのあかねに話しかけた。丸首の白いカットソーは半袖部分がフリルになっており、ピンクのミニのスカートにも後ろに大きなリボンがついていてかわいらしかったが、ママの趣味で着せられた服だったので、さやか自身はあまり気に入っていなかった。自分で選ぶなら公立中学の制服のような飾り気のない白のブラウスと丈が長めのキュロットスカートだ。しかも色は黒か濃紺でピンクは絶対に選ばない。
あかねはさやかより頭一つ背が低かったが、やはり袖がフリルになった水色のギンガムチェックのワンピース姿だった。着脱の利便性を考えて前開きのボタン留めになっていたが、一番上のボタンは外してあった。ふしだらに見えるからボタンは上まではめておけとこの前言ったのに、なんで今日もちゃんと留めていないんだろうと、さやかは心の中でため息をついた。
さやかの落胆をよそに、少し背伸びをしてプランターの水たまりを覗いていたあかねが、
「先週結構とったのにすぐ増えちゃうね」
と言って、うじゃうじゃ湧いているボウフラを忌まわしいものでも見るような目つきで見渡した。5~6ミリの大きさで頭でっかち、乳白色の紐のようなボウフラのビジュアルは、何度見ても気持ちのいいものではないとあかねは思っていた。そんなあかねとは対照的にさやかの声は弾んでいる。
「じゃあ今日もいっぱい〝クジョ〟しよう!」
「うん! だけどさやかちゃん、なんでボウフラを〝クジョ〟しないといけないんだっけ?」
勢いづいたさやかに水を差すようなことを言ってくるあかねに、さやかは少しいらっとした。
「この前説明したじゃない! いい? ボウフラは大人になると蚊になるんだよ。世界で一番人間を殺している生き物は蚊なんだって」
「へえー、蚊って悪いヤツなんだ」
何度も説明しているのに、これだから物覚えの悪い子は嫌なんだと心の中で毒づく。どうせ忘れているだろうからと、さやかはさらに説明を加える。
「人を刺した後に、かわりに毒を入れるらしいよ。チューって」
おさげにしたあかねの首の後ろに蚊の針を真似て人差し指を突き立てると、
「ひゃー! ひどいね。かゆくなるだけでも嫌なのに」
あかねは跳び上がって大げさに反応した。
「日本では予防注射のおかげで、もう蚊に刺されて死ぬことはなくなったけど、アフリカとかでは今でもいっぱい死んでるってパパが言ってた。蚊になっちゃうとブンブン飛び回って捕まえるの大変じゃない? だから子供のうちに〝クジョ〟するんだ。ボウフラは水に浮かんでるだけだから簡単にとれるしね。さ、早くやっちゃお!」
さやかの話が難しかったのか、口をぽかんと開けているあかねの肘をつつくと、あかねはスイッチを入れられた電池式の人形のように急に動き出して、持っていたビニール袋から小さな網杓子を取り出した。
「うん! どっちがたくさんとれるか今日も競争ね!」
これだから単純な子は扱いやすいと満足気な表情を浮かべながら、さやかも同じようにビニール袋からステンレス製の網杓子を取り出した。家の台所から黙って持ってきたものだ。夕飯の支度をするまでには洗剤できれいに洗って戻しておくから、ママが気づく心配はない。最初の頃は手ですくっていたけれど、すくい上げている間に水と一緒にこぼれ落ちてしまうほうが多くて効率が悪いなと思っていた。だから台所でこの道具を見つけた時は小躍りした。
きれい好きのママが用途を聞いたら絶対に貸してくれないと思ったので、さやかは毎度こっそり拝借していたのだった。黙って持ち出してくることには少し後ろめたさもあったが、大事な任務遂行のためなのだから仕方ないと自分自身を納得させていた。何でもさやかの真似をするあかねも、掌ですくうのは気持ち悪いと思っていたこともあって、すぐに家から網杓子を調達してきた。
生簀から調理用の魚をすくい上げるベテランの料理人のように、はたまた金魚すくい名人のように、いっせいのせで同時に網杓子を斜めの角度で溜まった水に入れると、2人は無言で一心不乱に網を動かし始めた。
右利きのさやかの右側と左利きのあかねの左側の雑草がはびこる地面に、飛び石のように正方形のコンクリート板が少し傾いで土に埋まっていた。2人の少女はボウフラをすくってはそれぞれの側のコンクリートの上に叩きつけていく。
しばしの後、プランターから全てのボウフラがすくい取られると同時に、さやかが右手に持った網杓子を高々と突き上げて快哉を叫んだ。
「あたしの勝ちー!」
左右のコンクリートの上を見ると、築かれたボウフラの山は明らかにさやか側のほうが高い。
「あーん、やっぱりさやかちゃんにはかなわないなあ」
あかねが唇を突き出して不満気な顔をさやかに向けたが、内心では競争に負けたことでこの後の行為を免れてほっとしていた。1回だけまぐれでさやかに勝ったことがあって、勝者の特権を行使する権利を得たのだが、正直、二度とやりたくないと思っていた。ボウフラすくいの勝者は、すくい上げたボウフラを完膚なきまでに抹殺するのが2人の間のルールだったのである。
「じゃ、やっちゃうね!」
さやかはそこらに転がっている大きめの石を持ち上げると、俎板の鯉ならぬコンクリートのボウフラ目がけて何度も振り下ろした。その嬉々とした横顔を見てあかねが小さく身震いしていることにも気づかずに。