1.面接会場にて
面接会場で蚊を潰す女。彼女の正義感は空回りする――。
202X年4月――。
《……本日も4月としては異例の暑さになり、25℃を上回る最高気温が予想されております》
街頭の大型ビジョンが昨日に引き続き夏日の到来を告げていた。
自宅アパートのある京王線の三鷹台から渋谷駅ホームに降り立った途端、火野さやかはパンティストッキングが伝線していることに気づいてかすかに動揺した。混んだ電車内で誰かのカバンか何かにひっかけてしまったのかもしれない。いつもは用意周到のさやかだったが、よりによって今日に限って予備のストッキングを持っていなかった。腕時計を見てまだ時間に余裕があることを確認すると、コンビニかドラッグストアで新しいものを買おうと一旦駅の外に出た。
雑居ビルのトイレで新しいストッキングにはき替えたさやかは、再び渋谷の雑踏の中に身を投じた。額ににじんできた汗を白いタオルハンカチで拭うと、おろしたての黒のパンプスを履いた足元に目を落とす。ストッキングは無事はき替えたものの、履き慣れない革靴に足の小指が当たって少し痛くなり始めている。新しい靴にしないほうがよかったかなとふと思う。しかし、履き古してくたびれた靴はかかとがすり減って色落ちもしていた。頭のてっぺんから爪先まで観察される可能性を考えれば、やはりこの靴にして正解だったのだ。ささやかな先行投資じゃないかと自分を納得させ、多少の痛みは我慢しようと覚悟を決めて、照りつける日差しを避けるように半蔵門線へと通じる地下道をカツカツとヒールの音を響かせて急ぎ足で下りていった。
地下鉄を半蔵門駅で降り、昭和40年代としては相当にモダンだったであろう灰色がかった石張りの重厚な建物を眼前にして、一瞬押し寄せてきた気後れを振り払い、さやかは気合いを入れ直した。自分に自信を持たなくては。何を恐れることがあるの? 今日の日のために勉強も研修もがんばってきたのだ。私には誰にも負けない信念と正義感がある。私以上の適任者はいないだろう。もろ手を挙げて大歓迎されるはずだ。
ふうーっと一息深呼吸をして、さやかは「最高裁判所」と刻まれた石銘板を横目に見ながらしっかりした足取りで入口に向かって歩き始めた。
独創的な外観や石造りの大ホールとは異なり、いたってオーソドックスな会議室の前の廊下で、さやかは面接会場から呼び出しがかかるのを待っていた。会議室の扉には「判事補面接会場」と書かれた紙が貼ってある。長い廊下にはさやかのほかに人影は見えず、腰掛けている簡易な折り畳み椅子は身じろぎするたびにミシミシと音を立て座り心地が悪かった。丁寧に梳かしつけてひっつめのポニーテールに束ねた黒髪には後れ毛の一本も見当たらない。クリーニングに出したばかりで、さらに今朝丹念に洋服ブラシをかけてきた黒無地のジャケットとスカートのセットアップにもほこり一つついていなかった。首元までぴったりとボタンを留めたシャツブラウスも洗剤のコマーシャルにでも出てきそうな白さだ。
しかし、まだ4月だからなのか、それともこの廊下だけがそうなのか空調は利いていないようで、ブラウスの脇の下が汗で濡れて気持ち悪さを感じ始めていた。時折ハンカチでこめかみの汗を軽く拭ったり、少しでも空気を入れようとブラウスの一番上のボタンをつまんで襟と首の間にすき間をつくってみたり、汗をかいた太ももがストッキングにくっついて皺にならないようにスカートの裾を伸ばしてみたりと緊張の度合いが増してくる。
――ブーンと不快な羽音がした。
この時期にもう蚊がいる!
さやかは弾かれたように椅子から立ち上がり、音のするほうを目で追った。蚊は血の匂いを嗅ぎつけたのか、しばらくさやかの周りを飛び回っていたが、殺気を感じたらしく一旦離れて窓側の壁に止まった。
チャンス到来! さやかは目にも止まらぬ速さで蚊が止まっている壁際に移動すると、掌を思いきり壁に叩きつけた。一呼吸置いてそろそろと手を壁から離してみる。白い壁には蚊の一部だったものの黒い染みがわずかについていた。自分の掌を返して内側を見てみる。案の定、蚊はさやかの掌でぺちゃんこに潰れて成仏していた。潰しても血液が染み出ていないところを見ると、どうやら誰も蚊への献血はしないで済んだようだ。さやかは自分の掌を眺めながら、思わずにやりと口元を緩めた。
その時、向かいの会議室のドアが開く気配がした。さやかは電光石火の早業で椅子に座り直し、何事もなかったかのような顔をして蚊の死骸がついたままの掌を握りしめた。
「大変お待たせしました。どうぞ中にお入りください」
40絡みの女性面接官が顔を覗かせ、にこりともせずに事務的に促す。
「はい!」
元気よく返事をしてさやかは扉に向かって歩き出した。女性面接官は扉を開け放したまま、背を向けて奥の自席に戻っていく。その隙にさやかはハンカチでこっそり掌の蚊の死骸を拭き取り、そのハンカチをジャケットのポケットにそっとしまった。
12畳ほどの面接会場は、面接官用の長机が1台と椅子が2脚、それに相対する格好で受験者用の椅子がポツンと一つ置かれているだけの殺風景な部屋だった。失礼しますと一礼してから扉をきっちり閉めて振り返り、すでに座っていた男性面接官とその横に着席した先ほどの女性面接官のほうを見やると、50代と思しき男性面接官が、
「どうぞお座りください」
と空の椅子を指差した。ムーミンパパのような体形のせいか、女性面接官と違ってこちらは温厚な雰囲気を醸し出している。女性面接官は一昔前の教育ママのようなメガネをかけ、全身に怜悧な雰囲気をまとわせていた。
「はい。ありがとうございます」
会釈をし、背筋をピンと伸ばして椅子に少し浅めに腰掛ける。
「お名前をどうぞ」
まずは男性面接官から質問開始らしい。女性面接官とは対照的なにこやかな表情である。
「はい。火野さやかと申します。どうぞよろしくお願いいたします!」
面接官の笑顔に接して少し緊張が解け、さやかはかすかに頬を緩めて元気よく答えた。
「まずは二回試験合格おめでとうございます」
いきなりお祝いの言葉から始めたのは、こちらの緊張をほぐすためだろう。
「はい。ありがとうございます」
二回試験とは司法修習の最後に実施される卒業試験で、正式名称は司法修習生考試という。民事裁判、民事弁護、刑事裁判、刑事弁護、検察の各科目を、1日に1科目ずつ5日間にわたって朝から夕方までかけて答案を作成するのは、試験内容はともかく連日緊張を強いられる過酷なものだった。しかし、さやかは自分でもパーフェクトだと思える答案を提出した自負があったので、男性面接官の祝辞を内心当然のことと受け止めていた。
「司法修習生生活はどうでしたか。何か得るものはありましたか?」
フレンドリーな態度を崩さずに面接官が続ける。ここで司法修習生活の大変さとかを訴えてはいけない。集合修習が埼玉県和光市だったので三鷹台のアパートから通うのが大変だったとか、司法修習生の給与だけでは暮らせないので家庭教師のアルバイトを掛け持ちしていましたとかも言ってはならないのだ。得るものはあったかと聞かれているのだから、法曹界に入るに当たってのポジティブな経験を語らなくては。
さやかはこれ以上伸ばせないほどさらに背筋を伸ばして胸を張って答えた。
「はい。わたくしは最初から裁判官志望でしたので、民事・刑事とも裁判の傍聴は何度もさせていただきましたが、地方裁判所での研修で裁く側の仕事を体験できたことは特に勉強になりました」
面接官はなるほどというように軽くうなずいた。大丈夫、感心しているようだ。
「司法試験は、えーと、法科大学院には行かず、法学部の学部生のうちに司法試験予備試験に通って受験されたんでしたね」
面接官は老眼なのか、少し読みづらそうにすがめた目で机の上に広げた書類に視線を落としてから続けて質問した。
「高校時代からもう裁判官になろうと決めておられた?」
いえいえ、高校時代どころではなくてとは思ったけれど、質問に否定形で返事をするのはNGだと思っていたので、
「はい。小学生の頃から決めていました」
と内心のドヤ顔を表面上は見せないように細心の注意を払って答え、かすかな笑みを浮かべる程度にとどめた。
「ほう、それはどうして? 何かきっかけがあったのですか?」
男性面接官は軽く前に身を乗り出している。どうやら食いついてきたようだ。ここで私の裁判官志望に至った崇高な動機を説明しなくてはと、さやかはかすかに咳ばらいをしてから真っすぐに男性面接官の目を見つめながら答えた。
「はい。父の仕事がODA関係だったものですから、発展途上国にたびたび出張しておりまして、子供の頃から海外の話を聞く機会が多くありました。道徳的にも倫理的にも発展途上にある国においては、きちんとした司法制度を確立し国民に浸透させることが肝要であると、わたくしは父の土産話から学びました。――しかし、昨今の日本国内の現状を見ると、先進国を自認する我が国においても信じがたいほど凶悪な事案が散見されます。わたくしは、犯罪者は厳罰に処すべきと考えますので、法に立脚し公正な立場からの判断を下す裁判官を目指すことにしたのです」
子供の頃から私ほど信念を持って将来の設計図を描いていた女の子は少ないだろう。正義感の強い、まさに司法の申し子のような子供だったのだから。男性面接官の眉間にそれとわからないほどのかすかな皺が寄ったことにさやかは気づかなかった。
「弁護士や検察官という選択肢はなかったのですか?」
そう来ると思った。ここでさらにダメ押しだ。いかに私が裁判官になることを熱望しているかを訴えなくては。
「はい。弁護士は、時に黒を白と真実を捻じ曲げなければいけないこともあります。黒を白だなんてあり得ない、恥ずべき行いです! また、検察官は、国家社会の治安維持に貢献するという精神は大変立派だと思いますが、裁判所に公判請求しても最終的に裁きを下すのは裁判官であって、検察官にその権限はありませんから」
「なるほど、それで裁判官を選ばれたと」
「はい」
男性面接官は終始にこやかな表情を崩さないままうなずき、再度手元の書類に目を落としてから右隣に座る女性面接官のほうを向いて、
「私のほうは以上です。どうぞ」
と追加の質問を促した。私の受け答えを聞いて、こんな優秀な人材はなかなか得がたいと満足したのだろうと、さやかは勝手に解釈して心の中で会心の笑みを浮かべた。
バトンタッチされた黒縁メガネの女性面接官は、男性面接官に軽くうなずくとさやかのほうに向き直り、無表情のまま事務的な口調で質問を開始した。
「ご自分の長所と短所を挙げてください」
まずは軽くジャブといったところか。
「はい。長所は曲がったことが嫌いなこと、目的遂行のためには努力を惜しまないところです。短所は……」
さやかは少しだけ言葉に詰まったが、すぐに後を続けた。
「いまだ決断が遅いと自分で感じる時があります」
「それはどういう時ですか?」
女性面接官が間髪を入れず聞いてくる。
「はい。例えば友人が何か小さな違反を犯したとします。駐輪禁止の場所に自転車をとめたとか。禁止されているのですから、それは明らかに違法です。けれど、その行為を咎めれば、その友人との関係が悪化することは目に見えています。そこでわたくしは友人に注意することを躊躇してしまうのですが、違法を違法と指摘することを恐れてはいけないと、そのたびに自戒しています」
本当は短所はないと自負していたさやかだったが、あまり長所ばかりを強調すると自己反省のない人間のように思われてしまうことを恐れて、正義感ゆえのささやかな欠点を披露したのだ。女性面接官は一切表情を変えないので、胸の内は計り知れないが問題はないだろう。
「少年法についてはいかがですか? 少年に対する刑事罰の年齢も引き下げられていますが」
さやか個人に関する質問から、今度は法そのものについての質問に急にシフトチェンジしてきた。
「はい。少年だから殺人を犯しても法で守られるというのはおかしいと思います。子供にだって善悪の区別はつきます。むろん殺人に至った動機面は十分考慮しなければなりません。例えば親権者等による虐待の末、我慢の限界に達して凶行に及ぶこともあるでしょう。しかし、多くの場合、故意に殺人を犯した者が更生することは非常に稀であると言わざるを得ません。ですので、これは成人犯罪においても言えることですが、税金を使っていたずらに長期収監を続けるのはいかがなものかと思います」
「10代の少年であっても、更生の機会を与えなくてもよいということですか?」
面接官が畳みかけてくる。
「はい。出来心からの窃盗や、悪い仲間に唆されて詐欺に加担する等のことであれば、更生する可能性はあるかもしれません。しかし、殺人となると話は別です。先ほども申し上げましたとおり、情状酌量の余地のない犯罪については、将来の再犯を防ぐためにも、たとえ少年であっても厳罰に処するべきだと考えます」
さやかは日頃からの持論を展開した。何歳であろうと犯罪者は犯罪者だ。面接官は未成年の犯罪者にもチャンスを与えてはと誘導しているのかもしれないが、自分の信念を曲げて安易に迎合するかどうかを見ている可能性もある。
さやかの返答を肯定的に受け止めたのか否かは定かではないが、女性面接官はやはり顔の筋肉をわずかでも弛緩することなく、すぐに次の質問を繰り出してきた。
「裁判員制度についてお尋ねします。法曹界においては〝裁判は専門家に任せるべきだ〟という声もありますが、どう思われますか?」
年齢的にも雰囲気的にも上役に見えた男性面接官が当たり障りのないことを尋ねてきたのに比べて、女性面接官のほうは切り込んだ質問を投げてくる。アシスタントだと思っていた女性面接官のほうが実はメインの面接官なのかもしれない。さやかはみぞおちのあたりにぐっと力を込めると、女性面接官のほうにわずかに体を向け直して答えた。
「はい。確かに一般の国民に広く司法制度を理解してもらうという意味においては必要な制度かもしれません。また、裁判官個人の思想や心情によって判決が左右される危険性が減るということも考えられます。しかし、実際の裁判においては検察も弁護士も裁判官も――言葉は悪いですが――素人の裁判員たちをいかようにも操作できるわけじゃないですか。ですのでわたくしは、裁判はプロに任せるべきだと思います。アメリカにおいて陪審制度がいまだに廃れないのも奇異な感じがしますが、そこはお国柄、国民性の違いもあると思われますので、やはり日本には裁判員制度はなじまないかと思います」
表情や言葉に出して肯定も否定もしない面接官の態度に、さやかはかすかないら立ちを覚えたが、こちらも負けじときつく見えない程度の生真面目さを前面に押し出したままで次の質問を待った。
「日本には死刑制度がありますが、死刑制度についてはどうお考えですか」
ついに直球が来た! 死刑制度については絶対に聞かれると予想していたし、それこそさやかという人間の根幹を形作るよりどころでもあったので、さやかは女性面接官の目を真っすぐに見据えながら熱を込めて淀みなく自分の信条を滔々と述べた。
「はい。死刑制度について特に欧米では人権擁護の観点から、すでに廃止されている国が多いのは承知しています。日本でも廃止すべきとの議論が始まって久しいと思いますが、わたくしは罪は同等の罰をもって償うべきと考えています。ですので死刑制度自体に何ら違和感を覚えるものではありません。そして日本に死刑制度がある以上、厳罰にふさわしい罪状の人間には、ためらわず死刑判決を下すべきだと思います。ハンムラビ法典いわく、〝目には目を、歯には歯を〟です!」
女性面接官はさやかに注いでいた視線をゆっくりと外すと、黙ったまま机に広げた面接書類に視線を落とした。少し熱量が大き過ぎたかなと一瞬さやかは危惧したが、男性面接官がわずかに体を後ろに引いて述べた感想を聞いて、杞憂だったと胸をなでおろした。
「ほう、これはこれは、すばらしい正義感ですね」
さやかはその言葉を誉め言葉と捉え、合格を確信して2人の面接官に向かってにっこりと微笑んだ。