第9話 神の導き、人の一手
その日、枢木オーディットは目覚めた瞬間にとても体が重い気がした。偏頭痛のような鈍い痛みも残っているし、目の奥がどんより重く感じた。嫌な夢を見たとか眠りが浅かったとか、そういう話ではなく、昨夜はまるで気絶するかのように一瞬で眠りに落ち、次の瞬間には目が覚めていた。普通それは常識的には熟睡と呼ばれる。だが、オーディットは目覚めた後もちっともスッキリしなかった。
ふと壁にかけてあるアナログ時計を確認すると、なんと午後二時を過ぎている。睡眠時間は充分に取れたはずだ。
そんなことを考えているうちに、この古書店セラエノの従業員であり、本人曰く異教の神である夢見マキナがノックをして部屋に入ってきた。相変わらず栗色の美しい髪を後ろにふんわりと緩く束ねている。オーディットはマキナが髪を下ろしたところを見たことがない。あの、ヌトセ=カアンブルとしての真の姿を見せたあの時以外は。
「おはようございますオーディット。ようやく目が覚めたのですね。実は貴方は丸二日も眠っていたのですよ?ここ最近精神への負担が大きかったとはいえ、流石に心配しました」
二日間という言葉を聞いて、慌ててオーディットはスマホの画面を確認する。その画面に表示された日付は確かにあのレンの商人と会った日から二日が経過していた。
にわかには信じられないオーディットはマキナに当然の質問をする。
「わたしはレンの商人に何かをされたのか?」
マキナはかぶりを振った。
「オーディット。貴方は幼い頃から検邪聖省で多くを学び、信仰心を鍛え、そして精神の鍛錬にも勤しんできました。さらには聖剣を与えられた聖騎士にまで上り詰めたのです。従って普通の人間よりは遥かにこういった人智を超えた出来事への耐性が強い。一般的になんの耐性もない常人が神話生物を視認してしまった場合、ほとんどの人が正気ではいられません。貴方がミ=ゴやレンの商人、そして神格であるわたしの真の姿を見てもなんとか正気を保っていられるのはひとえに貴方が幼い頃から育んできた信仰の力によるものなのです」
オーディットはそれを聞いてある話を思い出していた。神の御使である天使は本来は人が正気を保てない恐ろしい姿をしているため、人の前に姿を現すときは神々しい人の姿をとって現れるのだという。本物の天使の姿を見たものは基本的には発狂してしまうほどのショッキングな姿だというのだ。神話生物も似たようなものなのだろうか…
「さすがの聖騎士さまもお腹が空いたでしょう。簡単なものならすぐ用意できますので、問題ないようなら下に降りてきてくださいね」
冗談めいたセリフを言い残してマキナは一階に降りて行った。それまで全く意識していなかった空腹感が途端に込み上げてきた。オーディットは軽く身だしなみを整えた後に下の階へと進み、古書店のレジの裏にあるスタッフルームへと足を運んだ。そこにはマキナが用意したエッグサンドが置いてあった。
「本当に簡単ですが、どうぞ召し上がってください。わたしは店番をしているので、何かあったら声をかけてくださいね」
そういってマキナはスタッフルームの外へと出ていった。よくよく考えてみればオーディットはこの店に客が来たのを見たことがない。マキナがいうにはこの店の店長であるノーデンスという人物もまた「神」であるという。普通に考えてみて、この店が「普通」であるとは思えない。などということを考えながら目の前のエッグサンドを食べ始める。意識はしていなかったが、一口食べたら体が栄養を欲していたことを思い知らされた。オーディットはあっという間にエッグサンドを食べ終えていた。そして、部屋の端にあるキッチンシンクに皿を片付けてからスタッフルームを後にした。
書店エリアに行くとやはり客は誰もいなかった。いつものようにレジのあるカウンターにマキナが座り一人で本を読んでいた。スタッフルームから出てきたオーディットを目にしてマキナはいつもの輝くような笑顔を見せた。オーディットはエッグサンドの礼を言い、気分転換に少し出かけることにした。
古書店セラエノの外に出て周りを見渡してみる。この店があるのは聖ヶ丘駅の西口からかなり歩いた場所である。反対側の東口は聖ヶ丘市の名士でもある神園大次郎の、普通の人間からすれば常軌を逸した莫大な投資の末に、この街にしてみれば分不相応なまでの近代化を果たしている。それに引き換え西口はどうだ。駅の裏の道はほとんど整備すら行き届いておらず、閉店した店舗の建物がそのまま放置されていて、居抜きで入る業者もなく廃墟と化しているといっても過言ではなかった。あまつさえこの店の最寄り駅は実のところ隣の翠乃駅なのだ。だが、スマホのマップアプリのナビゲーションは最寄り駅は聖ヶ丘駅と表示される。そもそも古書店セラエノはマップにすら載っていない。街の近代化に周囲が追いついていないのだろうか。街が歪なら店も歪、何せ神が運営する本屋だ。挙げ句の果てには友達を守るためにその身を悪魔へと変えた少女までいる。
いや、そうではない。ミサは悪魔ではない。見た目が悪魔のようであっても彼女の目的は人を堕落させることではないのだ。オーディットは一瞬でもそのような考えを巡らせたことを恥じた。そして、この街に来て初めて、特に当てのない散策をしてみようと思った。この十日間ほどの間、常に何か目標があって動いていた。二日間寝込んでいたとはいえ、たまには体だけでなく心を休ませる機会が必要だ。
オーディットは翠乃駅から電車に乗り隣の聖ヶ丘駅に向かった。翠乃駅はそれほど立派なわけではなく、日本の駅のことを特に知らないオーディットから見ても普通であった。テナントがあるわけでもなく、人で溢れているわけでもない。だが、電車に乗り聖ヶ丘駅が近づいてくると急に景色が変わる。建物がどんどん立派になり、新しくなってくる。駅に着くとデジタルサイネージに彩られた近代的なプラットフォームが目に飛び込んできた。人の数は東京ほどではないが、少なくともオーディットが合衆国から移住して育ったローマのテルミニ駅よりもずっと多い。ネットの情報によれば聖ヶ丘市の人口はローマに比べて三分の一にも満たないというのに。
電車を降りてエスカレーターを昇り、眩しい光を放ちながら通る人々にこれでもかとアピールしてくる宣伝を掻い潜りオーディットは駅の外に出た。遠くに聖ヶ丘学園が見える。学園まで一直線に幅広の歩道が通っているせいか一キロメートル以上離れた駅からでもよく見える。駅のデッキを通って少し高い場所まで行くと、そこには今度はトラムの駅がある。トラムは勾配に弱いはずなのにこんな所に駅があるというだけで驚きだ。
そうこうしているうちに、オーディットは見知った気配を感じた。学園の方から駅に向かって歩いてくる人の中に輝咲ミサの姿があった。その隣には知らない人物の姿。頭の高い位置で二つ結びにした、ミサより少し背の低い少女は、ミサと同じ制服を着ていた。この少女こそがミサの守りたい親友なのだろう。自らの命をかけて神話生物のような異形の存在と戦う決意をさせたのはいったいなんなのだろうか。それ以前に、なぜミサが彼女を守るために神話生物と戦わなければならないのか。いまオーディットの頭の中にある情報だけでは何一つわからなかった。だが、ミサはおそらくそういうパーソナルな領域にズカズカと踏み込んでこられるのは好まないだろう。そう思ってそのことは尋ねないようにしていた。
そのうち、ミサがその親友に何やら話しかけて別れ、オーディットのいる方に向かってきた。
「オーディット、目が覚めたんだね」
ミサがオーディットの隣に来るなり話しかけてきた。当然ミサにも自分が昏睡していたことは伝わっていたようだ。
「ああ、正直実感はないんだが、二日も寝込んでしまうとは思わなかった。それにしても、わたしがここにいることをわかっていたのか?てっきりさっきの友達と一緒に遊びにでもいくのかと思っていたんだが」
そう返すと、ミサは夜鬼であるから気配の探知能力のようなものがあり、オーディットの存在を数百メートル先からでも感知することができるらしい。その後も知りたかったことを教えてくれた。やはりあの子がミサが命を賭してまで守りたい人物であるようだ。探るような真似はしたく無いからそれ以上のことは触れないでいようとしたのだが、ミサは話したかったのか、興味深いことを教えてくれた。彼女―緒川マユという名前だという―は、子供の頃は合衆国、それもマサチューセッツに住んでおり、父親はアーカムという街の大学で教鞭をとっていたのだそうだ。
「アーカムの大学?まさかミスカトニック大学か?」
驚いたオーディットは思わず話の途中で聞いてしまった。なぜなら、オーディットの父もまた過去にミスカトニック大学で働いていたのだ。表向きは物理学の教授としてだったが、父の目的は別にあった。ミスカトニック大学にある合衆国最大の魔導書の蔵書を抱える図書館である。通常の図書館には無い伝説や禁忌とされる魔導書がその図書館にはあった。厳重な警備の元、幾重もの申請を経た上で閲覧を許される世界でもほんの数冊しか存在しない貴重な魔導書もあるのだという。緒川マユの父親はミスカトニック大学で何を専門としていたのだろうか。オーディットは不思議な縁を感じていた。
その後はオーディットの話になっていった。ミサもマキナと同じようにオーディットを、普通の人間でありながら神話生物を前にして気が触れなかった方が凄いと言って褒めた。検邪聖省の聖騎士として尋常ならざる状況に置かれたことは今までもあったが、今回のような異形の存在と対峙したのは初めてだった。おそらくは自分自身の心の力だけではなく、教父さまに授けられた聖剣カリバーンの加護もあったのだろう。この剣は検邪聖省が擁する聖剣の中でも最強の力を持つ。聖剣に認められれば奇跡代行術すら使うことができる。だが、前任者である聖シルベストロ騎士団長が殉教されて以来、この聖剣に認められるような人物は現れなかった。オーディットも携行を許されただけで聖剣と意思を交わすことはただの一度も出来ていない。それでもあれだけの力を与えてくれる。この聖剣をいつかは使いこなせるような立派な聖騎士になるのがオーディットの目標なのだ。
そんな事を考えながらミサと少し話をしていると、突然ミサがオーディットの話を制してきた。目を閉じて沈黙した後、ミサがマキナからの連絡だという事を教えてくれた。どうやら夜鬼であるミサは神であるマキナと遠隔で思念通話のようなことができるらしい。
「オーディット、朗報だよ。事態に進展があったみたいだからアタシと一緒に来て欲しいってさ」
そういうと、ミサはデッキの下に通じる階段に向かって歩き始めた。事態に進展があったという言葉の意味がイマイチ掴めなかったが、以前にミサから重大なことは口にするだけでも危険と言われていたことを思い出し、質問したい気持ちを抑えて着いていくことにした。十五分くらい歩いただろうか。普通に商店が立ち並ぶ繁華街のとある横道にミサは入って行った。そして突き当たりの照明が控えめの店の前で止まった。看板には「アンダーウッド」と書かれている。
ミサにジェスチャーで促されてドアを開けるとそこにはマキナがいた。六メートル四方程度の小さな部屋で、窓もなく机も椅子もなかった。どういうことか理解できずにいると頭の中に声が響いてきた。
『以前、思念伝達型のコミュニケーションを教えるといったのを覚えていますか?意外なことにその時がはやくもやってきてしまいました』
マキナの声である。さっきミサとやり取りしていたテレパシーの類か?と驚いたその瞬間…
『その通りです。いきなり使いこなすのは難しすぎるため、今回はあくまで練習のつもりでやってみてください。読み取って相手に伝えるのは私が担当しますので』
マキナから詳しい話を聞いてオーディットは合点がいった。事態の進展とはそれ即ちクリルとコンタクトが取れたということらしい。どうやらクリルは限りなくリスクを避けるために、今回の会合を全てテレパシーで行いたいと考えているようだ。
マキナと少しやり取りをした後、さらにドアを開けて奥の部屋に入る。そこにあったのは一脚の椅子と一つの机、そしてそこに置かれていたタイプライター。オーディットが椅子に座ると一人でにタイプライターが動き出し、文章が刻まれていった。一通りタイピングされるのを待って紙を取り出し、打たれた内容を頭の中で読み上げた。
『こんな形で言葉を交わすことを許して欲しい。わたしの名はクリル。君たち人類がわたしに付けた名だ。本来我々は個体を区別するための名を持ち合わせていないのだが、人類とやりとりする上で不便だったので個人を表す名前をつけてもらった。今回、このような形式で君と対話することにした理由は情報の漏洩を危惧したからだ。何も君の事を疑っているわけではなく、我々が大気を振動させて話すことにより、敵対的な勢力に感知されてしまうのを避けたかったからだ。だが、思念伝達型の会話であれば、ましてやヌトセ=カアンブルの加護の元でなら外なる神にでも目をつけられない限りその心配はない。君も質問したいことがあるだろう。わたしに答えられる範囲で答えよう』
声には出していないがそれを読み終わるとマキナがまた頭の中に話しかけてきた。
『聞きたいことがあればわたしに向かって声を出さずに頭の中で尋ねてください。わたしがそれを読み取って彼に伝えます』
この街に来て何度目かの驚きなのかもう数えてすらいないが、狼狽している時間などない。これまで起きてきた事を思えばテレパシーの一つや二つどうという事はない。そう考えたオーディットは358と名乗ったレンの商人がいっていたことを確かめたいこと、兄の行方のヒント、そして兄の目的がなんなのか知っているかどうかの三点の質問に絞った。
タイプライターが打たれている間、先ほどの紙を見返してみると文字が綺麗さっぱり消えていた。紙には何の凹凸もない。確かにこれならこの会合の情報が漏れる事はなさそうだ。そしてクリルが打ち終わった紙を見ると驚くべきことが書かれていた。
オーディットの兄ゾハルは、現在アメリカ合衆国の極秘の超法規的組織マジェスティックトゥエルブ(MJ12)に在籍していて、合衆国の機密に触れられる立場にあるのだという。ゾハルはミ=ゴから手に入れた脳缶を手土産にMJ12に取り入ったのだが、MJ12もクリルのロングスパンすぎる交渉に剛を煮やしていたのだ。元々クリルは同胞の遺体を回収するのが目的であったので、合衆国への技術供与は本意ではなかった。だが、対価を払わなければ遺体を引き渡すつもりはないとした合衆国の姿勢が強硬だったので渋々条件を飲んだ。適当に時間稼ぎをしながら数十年彼らとコンタクトをしてきたが、いつまで経っても人類がその強欲さを捨てることはなかった。クリルは月棲獣の中でもひときわ穏やかな個体である。その気質と長い寿命による時間感覚の人類との齟齬が、MJ12とゾハルの出会いを招いてしまった。MJ12はゾハルが魔術の力を通じて神話生物とコンタクトを取った過去に目をつけて、煮え切らない態度を数十年続けているクリルではなく、同じ人類であるゾハルを選んだのだ。
最後に出てきた紙に書いてあった内容を見てオーディットは驚愕した。ゾハルがMJ12の権限を使ってミスカトニック大学から何らかの魔導書を手にしたというのだ。確かにミスカトニック大学なら強力な力を秘めた魔導書を手に入れることは容易だろう。クリルがいうには魔導書によっては神を召喚することも可能らしく、最悪なのはゾハルが手にした魔導書がなんなのか不明であるということだ。当初マキナが予想していた魔導書は彼女の治める領域である幻夢郷というところにあり、なおかつそれはこの世にたった一つしか存在しない。もちろん写本や複製なども存在しないらしい。だがミスカトニック大学で望む魔導書をゾハルが手にしたのであればマキナの見立ては外れていたことになる。
ゾハルはおそらく何らかの儀式を行うために魔導書を手に入れたのだろうが、何をするつもりなのかは全くの不明。あらかじめこちら側が打てる手はゼロである。完全に一手先んじられたことになる。
一連の会合が終わり、オーディットとマキナはミサの待つ店の外に一緒に現れた。マキナからのテレパシーを通じて状況を把握していたミサは、オーディットになんと声をかければいいかわからなかった。だが、その重い空気を払いのけるかのようにオーディットが沈黙を破った。
「マキナ、ミサ、わたしは一度検邪聖省に帰ろうと思う。兄の完全な行方は掴めなかったが、教父さまのおっしゃる通り、日本に来て君たちに会えたのは暁光だった。ここからはわたしの本来の職務が生きる時だ」
予想とは反対に力強い物言いをしたオーディットを見て、ミサは驚いて思わず尋ねた。
「あんまし状況良くなかった感じがしたのになんか突破口でも見えたわけ?」
オーディットは、この街に来て失いかけていた聖騎士としての自信と心の中の大義を取り戻したような気がしていた。教父さまは、だからこそ自分に聖剣カリバーンを携えてこの地に来るように命じたのだろう。検邪聖省からしてみれば異端でしかない、神を名乗る夢見マキナことヌトセ=カアンブル、そしてノーデンスという人物の営む人智を超えた古書店セラエノに引き合わせた意味がようやくわかったような気がしていた。
「わたしは検邪聖省の聖騎士にして奇跡調査委員会監察官、枢木オーディット。今こそ我が使命を果たす時が来たんだ。必ずや兄であるゾハル・シモンズ・枢木を止めて見せる!」
少し状況描写を減らして読みやすくしました




