第5話 相反するもの
光が降り注ぐ庭園に、幼い枢木オーディットはいた。
色とりどりの花が植えられた花壇の中で、とりわけ気に入っているのがデイジー、イタリア語ではマルゲリータだ。赤、白、ピンク、青、黄色など、小ぶりでありながら様々な色が咲き乱れ、目を楽しませてくれる。さらに、デイジーはイタリアの国花でもある。オーディットはアメリカ生まれのイタリア育ちではあるが、父親は日本人である。そして、日本ではデイジーのことをヒナギクと呼ぶ。日本の国花も種類は違えどまた「キク」であり、自分をイタリアへと連れてきた母からそんな話を聞かされた時は、何か不思議な縁のようなものを感じた。
実のところ、現時刻は古典神学の講義を受けていなければならない時間だった。だが、まだ高等教育も受ける歳ではないオーディットにとって、現代的な思想からは相容れない古典神学は退屈極まりなかった。ましてや、彼女は魔術師の家系。神の奇跡とは真逆の力を操る一族である。
現代の魔術は、錬金術の時代から大幅な進歩を遂げている。現代的な新解釈に基づき、世界の力の根源を操るための体系的な整理もされた「魔導科学」といってもいいような代物だった。全ての魔術的な現象に対して原理があり、旧来の目的論からは一線を画す、論理的な原理原則が明らかになっている。故に、才能よりも手法による再現性が高く、十分に良質な材料を用意することができれば、その魔法には最低限の出力保証が得られるようになっている。そこには信仰心のような曖昧な基準はなく、確かに熟練度によっては効果の上振れ、下振れはかなり存在するものの、以前のような大魔導士が魔導の未来を握っているような閉鎖的な分野ではなくなっている。とはいえ、門外不出の秘術には違いないため、一般の人間が知るところではない。中にはオーディットの父親のような、特段才能に秀でていて、古典的な魔術体系を得意とする天才魔導師も存在はしていたが、それはもはや主流ではなくなっていた。
一方、検邪聖省はどうだろう。オーディットには、検邪聖省の掲げる古典神学は、人間が神の僕であることを第一の目的としているようにしか見えなかった。神の存在を疑ってはいけない。神の目的を探ってはならない、神を試してはならない。この世のあらゆる出来事に神の意思を見出すことを目的とし、そこに個人の自由意志が介在する余地はない。聖典では神の命に人が逆らい、楽園を追放されたことで自由意志を手に入れたことになっているが、それはすなわち罪であり、神の計画ではない。人が増え、地に満ちて、そして一人一人の考えや権利が尊重される時代になってもなお、検邪聖省は、人が神の忠実なる無垢な僕に戻る日を夢見ているのだ。だが、魔術師の家に生まれ育ち、神への祈りとは無縁の生活を送ってきたオーディットには、それが人の目指すべき未来であるとは到底信じることが出来なかった。
そんな事をぼんやりと考えているうちに、講義をサボったオーディットを探しに検邪聖省の職員が探しに来た。
「オーディット、こんなところにいたのですね。探しました」
検邪聖省の職員にして侍祭見習いを務めるジーナだった。純白の装束に身を包み、長いブロンドの髪を靡かせて歩くジーナは、歳の割に身長が低く、顔に残るそばかすが幼さを強調してはいるものの、その佇まいはまるで聖女の如く美しい。身に纏っている装束がブカブカでなくなる頃には、より美しく育つであろうことに疑いの余地はなかった。
10歳の頃に飛行機の墜落事故で同乗していた両親が死亡し、搭乗員含め212人のうちたった一人で生き残っていたジーナは、当時マスメディアに「奇跡の子」として持て囃された。その後、親戚に引き取られたのだが、そこにもメディアが大挙して押しかけ、あまりにも執拗なメディアスクラムに耐えきれなくなったジーナの叔母が、精神を病んだ挙句に家に火を放ち、そして家族全員が死んだ。またもやジーナ一人だけを残して。その後、事態を重く見た検邪聖省が介入し、「奇跡の子ジーナ」を職員として迎え入れることにより、世間から隔絶させて保護する事となった。それから5年が経ち、境遇は違えど若くして家族から離れなければならなかったオーディットを見たジーナは、歳もオーディットに近い事もあって、世話役を買って出たのであった。
「わざわざ探しに来なくても、あと30分もすれば戻ろうと思っていたのに」
ジーナの方を振り返りながらオーディットは気だるげに答えた。
「ちょうど古典神学の講義が終わる時間じゃないですか。いけません。怠惰は大いなる罪なのですから」
ジーナは、あえてわざとらしく人差し指を立ててオーディットに説教をするフリをした。そして、石畳をトコトコと歩いてオーディットの隣まで来ると、膨らませた頬を弾ける笑顔に変えた。
「なーんて、わかってますよ。確かに古典神学は楽しいものではありません。わたしは侍祭になりたいから我慢できますが、オーディットは違う。ここは世俗とは隔離された特別な場所です。いつか貴方はここではないどこかへ行ってしまうかもしれません」
笑顔だったジーナが少し寂しげな表情に変わった。そして、オーディットの目を真っ直ぐに見つめて小声で話し始めた。
「だからこそ、せめてここにいる間はお友達として仲良くしたいのです。そして、その期間ができるだけ長ければ、より良い事だと思ってます」
ジーナの真摯な言葉に思わずオーディットの顔も綻んだ。
「もちろん。将来のことはともかく、いまジーナが私の大切な友達だってことはいうまでもないよ」
思わず空を見上げる。この同じ空の下で、今でも兄は父の過酷な修行に苦しんでいるのだろう。魔導の道はかくも恐ろしいものなのかとあれだけ思い知ったはずのオーディットも、この検邪聖省という世界最大の信仰の総本山に来たその日から、何もかも神の御業と信じて疑わない信徒たちのプリミティブな姿は不思議を通り越して不気味にさえ映った。そして、普段は他愛もない話しかしないと決めていたジーナに向かって、頭の片隅にこびりついて離れない純粋な疑問をぶつけてみたい衝動に駆られた。
「ねえ、ジーナ。あなたたちの神が本当に全知全能なら、どうして神を試してはならない、もっと単純な言葉で言えば神の御業や存在を疑ってはならないと、意地悪なことを言うのかな…」
本当に全知全能の神が存在するならば、自分やジーナのような不幸に見舞われる人間はそもそも居ないはず。それに、人は神を試してはならないが、神は時折人の信仰心を試すような事さえする。そのあたりに「神性」を感じることができないというのは、オーディットは昔から考えていたことだった。それもこれも魔術を学ぶ日常がそうさせたのかもしれないが…
「先日、教父様と言葉を交わす機会があったのですが、それは昔から検邪聖省でも重要な議題だったそうです。古典神学はまさにその概念的な神の全能性と自然現象のようなもの、そしてそれらを操作する御業を人の知性でも理解できるように一致させる試みだったようですよ。」
そういうとジーナはまたオーディットのことを真っ直ぐに見つめてきた。
「でも、ここ100年ほどの検邪聖省は神の御業の秘密をあらゆる面から研究しているそうです。例えばここの大聖堂に安置されている聖遺物や神器などは、ある特別な力が宿されている事がわかっています。それは、かつては時代ごとに異なる名前で呼ばれていました。アルケー、クアンタ・エッセンチア、アルカナ、エーテル… 現代の検邪聖省ではそういったものの名前を統一し、アストラルと呼んでいます」
オーディットも少しは聞いたことのある概念だが、正直驚いていた。まさかジーナがこんなに博識だったなんて。
「す、凄いね。ジーナってそういうのに詳しかったんだ。驚いちゃったよ」
普段あまり感情を表に出さないオーディットが素直に驚いてるのをみて、ジーナは少し、いやとても嬉しかった。
「まあ、わたしはこれでも奇跡の子の端くれですからね」
ジーナはイタズラっぽい笑顔を見せながら控えめにポーズを取って見せた。
「あ、そうそう。実は検邪聖省は古代の魔道書の研究もしているんですよ?知ってました?」
全く予想外の発言を聞かされて、オーディットは今日一番の驚きの表情を見せた。
「まさか、検邪聖省が魔導書を?むしろ禁書目録に登録されてもおかしくないのに…」
「魔導書といっても、例えば世界を揺るがすような邪悪な存在を召喚するようなものではなく、アストラルと同じような使い方で効力を発揮できるものはないかという探求が主でした。そして、やはりアストラルと同じような概念が、魔術師の方々の研究でもある程度の秘密が明らかになっていたようです。「アーカーシャの光」と呼ばれたそれは、古代の文献から中世まで少数の書物に記された秘中の秘だったようです」
また少し小声でオーディットに耳打ちするジーナ。教わったばかりの知識を披露するのが楽しいのだろう。神妙な面持ちを装ってはいるが、その表情は確実に綻びを見せ、笑顔になるのを我慢している。
オーディットも「アーカーシャの光」なら聞いた事がある。魔術の歴史は往々にして錬金の歴史でもある。大昔は賢者の石と呼ばれた触媒を利用する事で、魔導士はたくさんの偉業を成し遂げてきた。だが、中世の概念とは違って賢者の石は複数個、いや数千種類以上の存在が確認されている。本来の魔術理論であれば万物の根源となるものを変化させる事であらゆるものを作り出す事ができるはずだったが、賢者の石はどう考えても根源的な物質ではない。万物の根源の探求は、後に一つの答えを導き出す事になる。それが、アーカーシャの光と呼ばれる概念だ。
「それってそんなに昔から研究されてたものだったんだ。近代魔術の成果なんだと思ってた…」
ジーナの顔を見ると、オーディットが素直に驚いてくれた事がよほど嬉しかったらしく、満面の笑みとなっていた。
「古典神学の履修が終われば、オーディットも近代神秘学を学ぶ事になります。たぶんそっちの方が楽しいですよ。だから、なるべく早く古典神学は終わらせちゃいましょう!」
そういってジーナはオーディットの手を取った。そして、今まさに古典神学の講義が行われている信徒会館へと走り出した。
「ねえオーディット、信仰ももちろん大切だけど、わたしにとってはあなたとの友情もとても大切なものなの。だから、出来るだけここにいて欲しい!」
オーディットの手を握るジーナの力が一段と強くなった。普段は物静かなジーナが、ここまで自分の感情を露わにするのも珍しい。
「うん。私もジーナとはずっと友達でいたい」
オーディットは嘘偽りのない言葉でジーナに伝えた。それは、オーディットにとって久しぶりに何も取り繕う必要のない本心そのものであった。
古書店セラエノの従業員であり、自らを異教の神と称する夢見マキナ、またの名をヌトセ=カアンブルは、この小さな書店の奥にある不思議な扉の向こうにあった広大な空間が、現実のものではなくどこか遠く離れた宇宙にある本物の大図書館のアーカイブであるといった。そしてそこでオーディットが子供の頃に聞いた魔術と神学の真髄であるアーカーシャの光の事を話してくれた。
この聖ヶ丘市に来てからというもの、驚かなかった日は一日たりともないが、今回はさすがのオーディットも特別驚いてしまった。なんといっても遥か彼方の宇宙の出来事と、自分が今まで携わってきた魔術や神秘学が重なり合う瞬間が訪れたのだ。
アーカーシャの光により綴られた宇宙の全てが記録されているアカシックレコード。そういう存在の話は聞いたことはあるが、実際にアクセスできたと吹聴する人間は全て偽物である事が今では明らかになっている。そもそも、それが現実の物質界に、人間が触れるような形で存在しているとは考え難いし、物質を超越した存在なのであればなおさらである。しかし、アカシックレコードはその手の人間が作り上げた都市伝説のようなものかと思っていたが、まさか実在するとは
別の意味で信じ難いものを提示され、オーディットは考えを整理するのも困難になっていた。自分の兄ゾハルが父から受け継いだ禁忌の魔導書を見つける旅のはずが、宇宙の真理が綴られた究極の書物の話になってしまっている。しかも、兄はそれも狙っているのかもしれない。
図書館から出て一時間ほど経つが、オーディットはまだ今後の計画を立てることができないでいた。初めはトゥクルという謎の金属が唯一の手がかりで、それもこの古書店セラエノでノーデンス店主に会えば答えに少し近づくことができると思っていた。それなのに、結局は謎が増えただけだった。そして、選択すべき道はどこにも見当たらない。
頭を少し冷やしてくると告げて建物の外に出ていったオーディットを尻目に、輝咲ミサは夢見マキナと話していた。
「ねえ、あの聖騎士の人これからどうすればいいかわかんないみたいだよ?」
ボブに切り揃えた黒い髪を持つ、一見あどけない雰囲気をもつこのボーイッシュな13歳の少女は、とある秘密を抱えていた。語ることを許されない理由で親友を陰ながら守る役割を買って出たのだ。
ミサの親友、緒川マユは日々神話生物から命をねらわれている。それが何故なのかははっきりとしたことは知らない。同級生の男子、私立聖ヶ丘学園の理事長の神園大次郎の孫であり、滅多に登校しない謎多き存在である神園タクヤにその話を聞かされて、いわゆる「スカウト」をされた。神園タクヤの協力者であるゼヒレーテという謎の女性(神園タクヤによれば彼女も「神」であるという)の助力を得て、ミサは常人ではとても到達することのできない力を得た。
ミサが何故そうまでしてマユを守ろうとするのか。それは親友であることももちろん理由の一つではあるのだが、学力の高さだけが取り柄と思い込んでいる自己肯定感の低いマユに、常に神話生物に命を狙われているなどと言う事実を突きつけてしまったら、マユは二度と「普通の生活」を送れなくなってしまうし、下手をすれば自分が犠牲になることで他の人が救われるのなら…などという選択肢を選んでしまうかもしれない。それはミサにとっては耐え難い未来だった。だから、マユには何も告げずに陰ながらマユを守ることにしたのだ。
中学生らしい素朴な質問にマキナは答えた。
「この件についてわたしたちがすぐに取れる有効的な打開策はそう多くはありません。ですが、多少の危険性を許容するのであれば、わたしは自らの領地である幻夢郷に住む、とある存在との交渉を仲介することは出来ます。彼らは商人であり、必ずしも人類に協力的とは言い難いですが、わたしは彼らが奴隷として扱われていた時代に、彼らのうちの少数を解放したことがあります。なので、今回はその借りを返してもらうことにしましょう」
ミサはあまり理解できてない様子だが、一つだけわかったことがある。
「でもそいつら人間じゃないよね?」
至極当然のようにマキナは答えた。
「ええ。彼らはレンの商人。以前は月棲獣と呼ばれる存在の奴隷となり、危険な薬品や別の種族の奴隷の売買などに従事していました。本質的には危険な種族ですが、わたしの名代であれば逆らうようなことはしません」
神々しいまでの微笑みを携えながら、それなりに物騒な物言いをするマキナに対して、ミサは少し気味の悪さを感じた。とはいえ、こういう事はミサがこの役目を引き受けたその時からずっと感じていたものでもあった。
どうせ自分には複雑な交渉や駆け引きなんて出来やしない。いまやらなきゃならない事は、なるべく早いうちに自分の中にある力を引き出して強くなる事。親友を守るために、守れるだけの力を手に入れる事だ。その為に命を燃やす覚悟はできている。
「ふーん、自信あんだね。で、マキナはどこまでお膳立てしてくれるの?」
むしろ、ミサのその顔の方がよほど自信がありそうに見えた。まだ背負ったものに対して覚悟が上回りすぎていて心配なところもあるが、それでもマキナはもうミサのことを心配はしていなかった。
「そうですね。ミサ、貴方のよく知る人にここは一肌脱いでもらうことにしましょう」
マキナが少し意地悪な笑顔を浮かべたのを見て、ミサは誰のことを言っているのかすぐ察した。そして、ミサ自身も咄嗟によくない笑顔になっていたのに気がついた。
「あー、いいんじゃないの。たまにはあいつにも前線に出てもらわないと」
ミサは、マキナが自分に少し気を遣ってくれた事を理解した。あの笑顔が何よりの証拠だ。




