第4話 無限の図書館
「こ、これは…」
オーディットは目の前に広がる光景に度肝を抜かれた。ここに来て一体何度目の体験だろうか。まさか、まだこんな驚きが隠されていたなんて…
聖ヶ丘駅の裏、どちらかというと隣駅の翠乃駅に近い位置にある古書店「セラエノ」は、外から見るとコンビニエンスストアよりも小さく見える。だが、その内部は外見とは不釣り合いなほどに広い。先ほどまでオーディットが眠っていた二階に関しても同様で、何故か空間として間違っているかのような奇妙な感覚を覚えた。そして、オーディットはここに至って確信した。この書店は普通ではない。そう、本来の主人であるノーデンス氏の留守を預かる女性、夢見マキナがそうであったように。ドアや壁や階段で隔てられている空間が、等倍でつながっているわけでは無いのだ。
驚きを隠せずにいながら、しかし何かを悟ったような顔をしているオーディットを見て、夢見マキナはまたあの美しく輝くような、それでいて慈愛に満ちた表情で答えた。
「ようこそ、真の『セラエノ』へ」
驚きも何回も続いて起きると慣れてくるものだが、まさかこのようなものを見ることになろうとは、イタリアの検邪聖省を発った頃には考えもしなかった。だが、今にして振り返ればなぜ教父さまが、我が家の極めてプライベートな話であり、汚点でもある兄が追い求める魔導書の調査のヒントが、こんな極東の小さな古書店にあると仰ったのか、ようやくわかった気がした。
「これが本当のセラエノ…」
思わず口をついて出た言葉にマキナが答えた。
「そうです。とはいってもいま見ている光景は、実際のものではありません。あなたたち人間が知覚しやすいように、身近なものに変換された映像です。ほとんどの人間には図書館のようなものとして見えるはずです」
確かにこれは図書館だった。それもとてつもない規模の。オーディットは目を凝らして奥の方を見つめてみたが、一体どこまで続いているのか見当もつかなかった。そしてそれは縦方向に関しても同じで、上下に無限に部屋が続いていて、無数の書棚が存在しているようにしか見えない。マキナの言葉をそのまま捉えるのであれば、この空間自体がそのままの形で存在しているわけではなさそうだが、それでもここに収められている知識は恐ろしいほどの量なのだろう。
先ほどからずっと圧倒されっぱなしだったオーディットだが、心の中でほんの少し光明が見えた事を実感し始めていた。教父さまが自分をここに派遣した理由も、きっとこの知識が役に立つと知っていたからなのだろう。そう考えたら、オーディットの心はようやく平静を取り戻した。
「やっと落ち着いた?騎士様?」
そう声をかけられて振り返ると、そこには先ほどマキナから紹介された少女、輝咲ミサがいた。オーディットが、およそ人間には理解しがたい光景を前にして、だが少しだけ前向きになることができたことを感じ取ったのか、ミサは笑顔だった。
「ああ。ようやく、ほんの少しだけ、この任務を成功させる可能性を見出せた」
この部屋に入った瞬間から、自分の体は浮いているのかも知れないと感じていたが、マキナに近づこうとして足を前に出すと、何もない空間を踏み締めることができた。不思議な感覚だったが、もういちいち驚いてばかりもいられない。オーディットはしっかり前を見て、マキナに向かって歩き始めた。そして、美しい亜麻色の髪を靡かせて、笑顔で待っているマキナの隣まで来た。
「マキナ、それで、この図書館で今度は何を見せてくれるのかな?」
つきものが落ちたような顔をしているオーディットを見て、マキナはようやくオーディットが事態を素直に受け入れてくれつつある事を理解し、そして、次の話題を切り出した。
「ここには、現在、過去、未来において、知的生命体によって生み出された、あるいはこれから生み出されるあらゆる文書の原本、複製、翻訳、乱丁、落丁、誤訳、不完全版、偽書が収蔵されています。それこそ、粘土版からSNSの書き込みまで全てです。故に、ここは無限の図書館であり、宇宙の集合知でもあります」
そう話しながらマキナは眼前に広がる巨大な空間を指差した。
「あの飛び回っている光は全てこの図書館の司書たちです。ある者は知を求めて、またある者は自らの欲望を満たすために、このセラエノを探して世界を、宇宙を旅しました。私たちが見ているこの光景は、実際に目の前に存在するわけではなく、遠い地にある本物のセラエノ大図書館の投影にすぎません。人間がそこに辿り着くにはヒトの姿のままではおそらく不可能でしょう。だから、彼らはヒトであることをやめ、純粋に知識を求める精神体に成り果てて、ようやく辿り着いたセラエノで、魂の余生を過ごすことを選んだのです。それが、例え人の魂には耐え難い無限の時間の中をたゆたうことになったとしても、彼らはもう知を貪ることしか生きる術を持たない存在になってしまったのです」
そう説明するマキナの眼は、少し寂しそうに見えた。飛び回る光に哀れみを向けているように。
「彼らはこのセラエノ大図書館で働けることが、今では何にも勝る喜びなのです。オーディットやミサにしてみれば、無為な人生を送っているようにしか見えないかもしれませんが、これこそが彼らが選んだ人生の最終目標なのです」
オーディットには完全には理解できなくとも、そういう考えがあるということはわかってはいた。信仰の道においても、神へと近づきたいと考える者もいれば、この世の真理を知るために魂の旅を探究することこそが、真の信仰だと語るものもいた。実際に、はるか昔の預言者と呼ばれる存在は、神の意思を知り、それを人々に伝えることで教義を作り上げてきた。だから、知の探究者が最後には究極の集合知であるこのセラエノ大図書館で過ごすことには、確かに意味があるのだろう。個人としては理解できなくとも、信仰の道を歩んできた人間として、それもまた一つの答えである事を疑うつもりはなかった。
「私の兄も、おそらくそういう考え方をするだろう。魔導の道を極めるためにはヒトである事など簡単に捨ててしまうはずだ。父がそうであったように」
オーディットの脳裏には、あの日母に見せてもらった父の凄惨な死に様が焼きついていた。もう何年も会っていない、だが確かに愛を育み自分と兄の二人の子をもうけた人生の伴侶が、単なる肉の塊を通り越して異形の存在のように「加工」されてしまった姿を見て、母は何を思ったのだろう。子供の頃に遠くイタリアに渡り、しかも幼い記憶には暴力を伴った厳しい指導をする姿しかない父の死は、オーディットからすればそこまでとてつもなく悲しい事件ではなかった。その犯人が兄である可能性を知るまでは。そして、オーディットはマキナの方を見つめ、この大図書館に来てから一番聞きたかった事を聞いた。
「マキナ、ここにわたしの兄が探している魔導書があるのか?」
マキナは、その透き通るような瞳でオーディットを見つめ、わずかにはにかんだ表情でこう答えた。
「ある意味ではその答えは真です。でも、本当に重要なのは別のものかもしれません」
少しはぐらかされたような返答を聞いて、オーディットは戸惑ってしまったが、それでも、マキナが自分に対して何かを隠しているわけでは無いという漠然としたものを感じ取っていた。そして、マキナの次の言葉を待った。
「オーディット、あなたは究極の書物というものをご存知ですか?」
マキナのその質問に対して、オーディットは有効な答えを持ち合わせていなかった。
「先ほども述べたとおり、このセラエノ大図書館には、この全宇宙に存在するいっさいの文章が収められています。過去に書かれたものも、未来に書かれるものも、全て」
そういうと、マキナは右手を前方に伸ばした。次の瞬間、マキナの手のひらが眩い光を放ったかと思うと、図書館で書物を整理していた光のうちの一つが、マキナへと近づいてきた。その光は一冊の本を携えていた。
「そして、この図書館にはいわば書物の中の書物、全ての本を完璧に要約した『究極の書物』が一冊だけ存在するのです。その書物を手にした者は『書物の人』となり、この宇宙で最も優れた知性を手にすることができるのです」
マキナは、手に取った本を開いてオーディットに見せた。そこには、見たこともない記号が書かれていた。数十行にわたって書かれた文字はオーディットには読むことができず、それどころか文章の体を成しているとさえ思えなかった。単語らしきものも判別できず、文節として機能しているようにも見えない。直感的に表現するのならば、これは単なる記号の羅列にしか見えない。
「マキナ、この本に書いてある事に意味が存在するのか?わたしにはこれは単なる記号を書き殴ったものにしか見えないのだが…」
オーディットのその言葉に、マキナは少し満足したように微笑んだ。
「その通りです。ここに所蔵してある本の中身は全てこの様な書式になっています。二十五個の記号を使い、一行八十文字、一頁四十行で綴られた四百十頁で一冊。この図書館にはこの組み合わせで表現可能なすべての表現が納められているのです。そして、ヒトの力でこの内容を解読することはできません」
マキナの説明を聞いて、少しずつ点と線が繋がってきたと、オーディットは感じていた。神話生物ミ=ゴ、そして彼らの操る脳を保存しておくことができる、トゥクルと呼ばれる金属で作られた脳缶。それらが意味するのはやはり…
「つまり、兄はヒトであることを捨てて、それを解き明かそうとしたのか」
マキナは、先日ミ=ゴと対峙した時のような真剣な表情でオーディットの前に立った。気のせいかもしれないが、マキナの体が淡い輝きを放っているように見えた。
「おそらくそうなのでしょう。しかし、ヒトは神になることは出来ない。オーディット、あなたにはそれが何故だかわかりますか?神であるための条件が何なのか…」
幼少期より神の教えを学んできたオーディットだが、ずっと思っていることがあった。それは自分たちの信じる神が、常識で考えるとあまりに掴みどころの無い存在だという事だ。神は全知全能である。であるのに、神は嫉妬深い。自らに従う人間の完全な献身と崇拝を望まれ、裏切りには絶対に容赦しない。神は自らに似せてヒトを作った。なのであれば、神もまた、自分たち人間と同じように感情を持った存在だということなのだろうか。二千年に渡る長い神学の歴史でも、その答えが解き明かされたことはない。何故なら神は不可視であるからだ。神と相見えることは叶わない。神の声を聞くことができたという人間もいるが、それが本当に神の声なのかどうかは誰にもわからない。教父様でさえ実際に神の声を直接聞いたことはない。全ては神託という名の、そして実際には夢という形をとって現れる。それが本当に天啓であるのかは、検証のしようもないし、してはならない事なのだ。何故なら、『神を試してはならない』のだから。だが、時として神はその御業を行使し、人智を超えた力を見せて下さる。そう、それは…
「奇跡、だろうか?」
マキナの顔から強張りが消え、またあの美しい、そして心を穏やかにしてくれる笑顔に戻った。だが、その後に発せられた言葉は、オーディットの考えが間違っていたことを如実に伝えていた。
「少し違います。神と呼ばれる存在は、それぞれ独自の摂理を行使することができます。それらはこの世界の法則であったり、そこに住まう人間たちを導く指針であったり、あるいは滅ぼしたりする神の計画であったりします。神の節理を扱えるのは神のみであり、未だかつてヒトが神の摂理を手中に収めたことはありません。神の摂理は、その神を殺すことができれば奪える可能性はありますが、ヒトの力では神殺しは絶対に不可能なのです」
マキナは手に持っていた本を光の司書に返し、そしてオーディットの方を再び振り向いて言った。
「ですが、一つだけ、確実にそうであると言えるわけでは無いのですが、可能性がないこともないのです」
マキナはオーディットの横をすり抜けて、古書店セラエノから入ってきた入口の方に歩いて行った。そしてマキナに背を向けたまま立ち止まり。何かを待っていた。オーディットは、自分が発言を求められているのだと気づき、先ほどまでの情報を整理して、一つの答えに行き着いた。
「さっきマキナが言っていた、『究極の書物』か」
マキナは少し安堵した。これだけ常識から外れるものを矢継ぎ早に見せられて、このオーディットという聖騎士は正常な判断が可能なのだろうかと、さすがに心配になっていたからだ。だが、彼女は大丈夫だ。家族の問題というデリケートな事態に陥っても、冷静に分析することが出来ている。彼女になら、いろいろと託すことができる。マキナはそう確信した。
「先日、わたしはオーディットのお兄様が探している魔導書は、わたしの支配領域である幻夢鄕という場所にあるといいましたが、おそらく彼の狙いはそれだけでは無いと踏んでいます」
また険しい表情になったマキナを見て、やはりどうしても聞いておきたい事があった。まだその時では無いのかもしれない。だが、もうこのような事態に巻き込まれてしまっていて、尚且つここにいる全員に危険が迫っているかもしれないのに、何も知らないままでいたくはなかったのだ。オーディットは勇気を出してマキナに問うた。
「マキナ、我が兄ゾハルの探している魔導書、仮にその一つが『究極の書物』であるならば、それは一体どんな本なんだ…?」
マキナは今までに無い慎重な面持ちで答えた。
「その名は、アカシックレコード。宇宙開闢より滅亡までのあらゆる事象、痕跡がアーカーシャの光によって記録されたものです」