第3話 信じられるもの
神は不可視である。
枢木オーディットは、幼い頃から検邪聖省においてそう教えられてきた。神の不可視性とは、すなわち神が地上に顕現することもなければ、肉体を伴って我々の前に姿を現す、つまり受肉することもないということだ。ヒトにとって神は絶対の存在ではあるが、その存在を「感じる」事はできても、己の目を持って見ることは叶わない。それだけ、神という存在は特別であり、それでも大いなる慈愛を持って、ヒトを導いてくださる偉大な存在なのである。その慈愛に感謝し、神の導きに従ってより良く生きる。それこそが、オーディットの考える「信仰」であった。
だが、オーディットは、その信仰に対して人生最大の、ありえない、いや、あってはならない事象に遭遇していた。
検邪聖省の最高位聖職者である教父さまから紹介され、謎めいた魔導書を手に入れるために行方をくらました兄に関する手がかりを得るために、自らのルーツである日本にやってきたのにも関わらず、目当ての「古書店セラエノ」の主人、ノーデンス氏には出会えずじまい、だがなぜか一般の人間の知るはずのない検邪聖省の情報にやけに詳しいアルバイト店員、夢見マキナと共に、謎の化け物「神話生物ミ=ゴ」との戦いに巻き込まれ、なんとそれを撃退したのは、聖剣を預かる聖騎士の自分ではなく、可憐な普通の女性にしか見えなかったマキナであった。そして挙げ句の果てに彼女はこう言い放ったのだ。
「私の名前はヌトセ=カアンブル。あなた方のいう、異教の神です」
神…
この女性が神… ?
確かにミ=ゴを倒す瞬間、彼女の姿は眩いばかりの光に包まれ、神々しい戦乙女のような姿に変貌していた。そして、その手に持つ見たこともないような形をした槍のようなものから放たれる、とてつもない白い光…聖なる光と形容しても過言ではない御業で、一瞬にしてミ=ゴを消し去ったのだった。奇跡というには憚られるが、それでもそれは、人智を超えたものであるという事を本能で理解せざるを得なかった。
彼女がもし本当に神であるのなら、「唯一にして絶対の全知全能の神」は一体なんなのだろうか。この一件だけで子供の頃から培ってきた信仰が揺らいでしまうことは万に一つもありえないが、それでも神の不可視性には、すでに疑義を抱いたとしてもやむを得ないのではないのか。神は唯一ではない? それとも、彼女は神などではない?異教の神というが、一体どのような教えに基づく神なのか。知りたいことは山ほどあったが、どこから切り出していいかわからない。というより、自分の気持ちに全く整理がつかない。
オーディットは、完全に混乱していた。顔には出さずとも、何をしていてもこのことが頭の中を巡っている。兄を探し出さねばならないという大目標があるにも関わらず、人生における重大な、ある種の事件に遭遇してしまったことで、オーディットは頭が完全にコンフリクト状態に陥っていた。そして、あまりにも考えすぎたのか熱を出し、あのミ=ゴとの戦いの直後から寝込んでしまっていた。宿を探すこともままならず、仕方なく古書店セラエノの二階にある一室に宿泊せざるを得なくなってしまった。
結局、丸一日熱にうなされ、そして翌日の昼頃にようやく気分が良くなり、オーディットはベットから起き上がることができた。辺りを見回すと小綺麗な部屋にいた。窓には遮光カーテンがあり、その内側にレースのカーテンがあった。家具のようなものはベッドの脇のサイドテーブルと、おそらく看病の時に使われた簡素な椅子があるだけだった。不思議だったのは、この部屋には音が何一つないことだった。そう、無音なのだ。外はそれなりに自然豊かな森のようになっているはずなのに、鳥の声も虫の声も、風の音ひとつすら聞こえなかった。
眉間の辺りに少し残った頭痛を感じながらも、とりあえずベッドから立ち上がり、傍に置かれていたスリッパを履いてドアまで歩いてみた。今のところ、過度にふらついたり、体を動かす事に特に違和感は感じない。完全復調とはいかないが、普通に歩き回ることはできそうだ。オーディットは意を決して目の前にあるドアを開けてみた。ここが二階だという事は認識していたが、廊下から続く階段、そして左右にいくつかある扉。なんだか、外から見たこの建物の形状からしてあり得ないほどの広さがあるように見えた。初日に書店の入り口から中に入った時にも感じた空間的な違和感がここにもあった。まさかこれが神の御業なのか?
「いや、大袈裟すぎるか…」
思い直してから再び歩き出す。すると、二十メートルほど続く廊下の先に、螺旋状の階段があった。うっすらと覚えている。この下が古書店セラエノの店舗部分だったはずだ。とりあえずそこまで歩いて行って、下の様子を確かめよう。そう考えたオーディットは壁に設置されている手すりを一応伝いながら歩いて行った。そして、階段に差し掛かった時、またあの美しい声で話しかけられた。夢見マキナだ。
「あら、もう大丈夫ですか?オーディット」
相変わらずの心が洗われるような透き通った声。そして、慈愛に満ちた輝きを持つその瞳は、だが、全てを見透かしてしまうかのような深みを感じる。色の問題ではない。オーディットの本能が何かそういう得体の知れないものを感じているのだ。だが、不思議と恐怖はない。
「あなたが着ていた服は勝手ながら洗濯させていただきました。なるべくプライバシーに配慮したつもりですが、もし差し出がましい事をしたのであれば深くお詫びします」
マキナにそういわれて、オーディットは自分が薄手のワンピースしか着ていないことに今更気がついた。これはマキナの服なのだろうか?絹のような光沢を持ち、肌に触れていることすら忘れてしまうような心地よい質感の美しい布。そして、あらためて自分のまとっている服を、体を動かして確認している時に気がついたのは、衣擦れの音が一切しないことだった。自分がさっきまで寝ていた二階の部屋といい、何がどうなっているのかオーディットには全くわからなかった。
「いや、こちらこそ泊めてもらったのみならず、看病までしてもらって、この恩をどうやって返せばいいのか、異国にいるわたしの力では出来ることはあまりに限られているが、いつの日か必ずや報いさせていただく」
「いえいえ、どうぞお構いなく」
マキナはオーディットにそう告げると、入り口近くの本棚へと向かった。たしか、初日に入ってきた時には、入り口から入って左側に簡易的な机と椅子があったのを思い出した。どうやらマキナはそこへ向かっているようだ。ひょっとして自分の体調を考えて、座って話をしようという事なのかと思い、これ以上気遣いをさせるわけにはいかないと告げようとしたその時、本棚の奥の椅子に一人の少女が座っているのが見えた。
歳の頃はローティーンといったところだろうか。アジア人はどうしても若く見えてしまうので、ひょっとしたらもう少し年上なのかもしれない。前髪をある程度切り揃えたストレートボブの黒髪の少女。パーカーを着てショートパンツ、スニーカーを履いてはいるが、力強い光を携えた目は、およそ見た目通りの少女の目とは思えなかった。ついでにいえば、なんだか不機嫌そうにしていた。
少女の隣に立って振り向いたマキナが、笑顔でこういった。
「実は紹介したい子がいるんです。この子は輝咲ミサ。あなたのお手伝いをする仲間として迎えていただきたいのです」
オーディットはさすがに呆気に取られた。こんな子供を仲間に?マキナは私の任務が一筋縄ではいかないことも、そして、自分が思っていた以上に危険な話に首を突っ込んでしまったことを先日は思い知らせてくれた。それなのに、今度は子供を仲間にしろという。いくらなんでも無茶苦茶だと思い、やや声を荒げて反論した。
「マキナ、それは流石に無理がすぎる。たとえば屈強な戦士なら話はまだわかるが、どう見ても子供のこの子をわたしの任務に同行させようというのか?部外者で、かつ非力な子供を…」
それを聞いていた少女、輝咲ミサが話に割り込んできた。
「黙って聞いてりゃ好き放題言ってくれるけどさ、アタシはあんたが思ってるような子供じゃないし、あんたが首突っ込んでる分野になら、たぶんあんたより詳しいと思うんだ。あんた、神話生物が何かも知らないだろ。しかも、この先あんたが追い求める道を進むんなら、もっと強くてヤバいやつに出会う可能性だってあるんだ。それなのに、この分野じゃ素人のあんた一人で大丈夫なんて事あるわけないだろ? 大人ならもう少し広い考えを持ってほしいもんだね」
オーディットも簡単に退く事はできない。
「わたしの任務を手伝ってくれるのはそこにいるマキナだけでいい。正直子供が苦しむ姿を見るのは忍びない…」
それを聞いて、怒りを少しだけ露わにした輝咲ミサは、しかしやや落胆の気持ちも込めて言い放った。
「マキナがいつでもどこでも面倒をみてくれると思ってんの?ちょっと考えがお花畑すぎやしないか?マキナはあんたの守護神じゃないんだ。あんたが問題を持ち込んだから助けたんだよ。わかってんの?ここのオヤジさんはしばらく戻って来ないし、マキナはこの店を守らなきゃいけない。ハッキリ言って手が空いてるヤツがいないんだよ。アタシを子供扱いする割には随分子供っぽい考えしか出てこないんだね!」
そうだった… わたしはなんて傲慢な考え方をしていたのだろう。オーディットは、自分は助けられて当然だと考えていたことに愕然とした。今までは検邪聖省の威光がある程度通用するところでの任務が多く、尚且つ関係者とともに臨む作戦も多かった。だが、今回は根本的に今までの作戦とは性質が違うのだ。一応検邪聖省の許可は取り付けているとはいえ、これは決して教父さまの公式な勅令ではなく、むしろ枢木家の問題といったほうが遥かに真実に近い。兄を探して魔導書を使った企みを止め、尚且つ父の死の真相を明らかにする必要がある。そして、その計画には今のところなんの具体性もない。これで助けてもらおうなどとはムシが良すぎる。どうしてそんなに甘い考えでいたのか… あの時見せられたマキナの「神の力」、初めて実際に目の当たりにした神の奇跡といっても過言ではない凄まじい御業。あれを見て、やはりわたしは混乱しているのか…
「輝咲ミサ、といったな。確かに君のいう通りだ。すまない…」
オーディットはマキナの方を振り返って続ける。
「マキナにもすまないと謝りたい。正直出会ったばかりの君に、あろうことかわたしは全面的に甘える気でいたようだ。検邪聖省の聖騎士として、そして一人の人間として恥ずかしく思う」
マキナは、表情ひとつ変えることなく、相変わらずの輝くような笑顔でいった。
「いいえ。大気振動型のコミュニケーションには誤解がつきものです。思念伝達型の会話をいつか教えて差し上げましょう。意図を正確に伝えることができて便利ですよ。それはさておき、わたしはこのセラエノを守るのが最大の職務ですので、今のうちにあなたには、わたし以外の味方になるべく紹介しておきたかった事もあって、回復間もないあなたにミサを会わせる事にしたのです。ミサはまだ修行中の身ですが、きっとあなたの力になってくれます」
そして、今まで何度か見せていたような悪戯っぽい表情を浮かべて、可愛らしい声で彼女の言葉が紡がれた。
「ミサは自分の身をちゃんと守れる術を持っています。彼女、歳の割に強いんですよ?」
オーディットはにわかには信じられなかった。明らかにローティーンであるミサが強い?見たところなんの神器もアーティファクトも持ち合わせていない、本当にごく普通の少女にしか見えないのに…
「まあ、そりゃあたしの見た目でそんなこと言われても信じられないってのはわかる。でもさ、あんたもう見たんでしょ?人智を超えた力ってやつを」
ミサはそういうと、マキナの方に向かって目配せをした。それに呼応してか、マキナはニコッと微笑んだ。そう、つまりそういうことだ。オーディットは、また凝り固まった考え方を拭いきれていなかったのだ。あれだけの事を経験し、自らの信仰を揺るがすかもしれない迷いに恐れ、そして自ら異教の神であると自称する存在に救われた。それを鑑みれば、明らかに若すぎるミサがパートナーになったとして、それがなんだというのか。事態はもう私の知る常識からは遠くかけ離れている。いい加減、考え方を改める時なのだ。
オーディットは胸に手を当て、息を整えた。心を落ち着かせ、神に祈る時と同じように目を閉じ、そして胸に当てた手をぎゅっと握りしめた。目を開き、ゆっくりとミサの方を見る。
「輝咲ミサといったな。すまなかった。まだ状況を整理出来たとはいえないが、とにかく見ず知らずのわたしに協力してくれることをありがたく思う。わたしは枢木オーディット。検邪聖省の聖騎士だ。これから、よろしく頼む」
ミサの表情が和らぎ、そしてそこからさらに口角が上がった。
「こっちこそよろしく。あたしは訳あって強くならなきゃいけないんだ。だから今は修行中の身ってやつ。でも、実戦はいくつも経験してるから、神話生物と戦うことになったとしても、安心して任せてくれていい。もちろん、ものすごく強いやつと出会ったら二人して一目散で逃げることになるけどね」
オーディットとミサは握手を交わした。そして、それを待っていたかのようにマキナが微笑みかけながら二人に近づいてきた。そして、満足そうに二人を見た後、こう切り出した。
「それでは、今後の方針を考えましょう。二人ともこちらに来て下さい」
マキナは振り返り、カウンターのある方へと歩いて行った。そして、その奥にある小さな扉を開け、中に二人を誘った。ミサはともかく、オーディットにとっては少々窮屈な扉だったが、潜り抜けた瞬間にオーディットは度肝を抜かれた。扉の奥に広がっていたのは、今まで見たこともないような空間だった。
それは、一言で言い表すのであれば、書庫だった。空間自体がどこまで続いているのか見当もつかないほど広く、さらに空中に浮いているとしか思えない書棚が無数にあった。何やら光を放つ球体が飛び交っており、その球体の後ろにはいくつかの本が連なって飛んでいる。まるで、球体が本を整理しているかのように見えた。オーディットは周りを見渡したが、何一つ理解できなかった。たとえば自分たちが今立っている場所。いや、立っているわけではないのかもしれない。素直に表現するのであれば、これは浮いているのだ。だが、体に浮遊感はない。目の前で起きている光景と見えているもののギャップがあまりに激しすぎて目眩がしそうだった。
「こ、これは一体…」
動揺を隠すこともできずに、しかし一歩も動くことも叶わず、必要最低限の言葉を振り絞ってオーディットは質問した。にこやかに振り返ったマキナは、オーディットの目を真っ直ぐ見つめ、こう答えた。
「ようこそ、ここが真のセラエノです」