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かすみの顛末

 友人が身内の不幸で実家に帰った時、庫にあった御先祖様の覚書を見つけたそうだ。江戸時代の初期、ある小藩の家老の息子が変死した。それで若い藩士が死因を調べるように命じられて、つまり探偵をやるはめになったのだそうだ。世間にある捕物帖って感じじゃなく、江戸時代、和製ホームズの奮闘が面白い。私の趣味でもあったので、貸してくれた。「どうだ?」というから、「大層面白い」というと、聞いてた第三者が貸してくれという。友人が貸してやると、和綴じの墨字の手書き文字が読めるわけないだろと怒って突っ返してきた。あいつ、理系だったか。江戸なら、文字にさえ慣れると言葉とかなんとかなるもんだが。とはいうものの、読みたがってるわけだし、ついでだから意訳というか、注釈入りというか、口語訳、解釈をしてみた。ほんとうは全文で二千字程度のものなのだが、いろいろ説明を入れてたら結構長くなった。その他、名称やその他で字の間違いや不統一は正した。浅学ゆえの間違い勘違いはあるだろうが、大筋は変えていない。本文の面白さが伝わったらうれしいのだが。


 真木市之丞が殺されたらしいことを耳にしたのは、道場でだった。ひと汗かいて、さあどうしようかと思っていると、兄弟子の小山内様が、「おい、聞いたか」と声をかけてきた。「何をでございますか」と尋ねると、家老職にある真木様の愚息である市之丞が裏庭で死んでいたのを源助が見つけたとのこと。目鼻口から血を流していたらしい。「毒ですか」「いや、頭を割られていたらしい。」

 市之丞は浅慮で御家老の息子ながら、どうも軽く見てしまう、そんな男だった。ただ、けっして悪い男ではない。だからまず、どうしてそんなことにと思ったことを覚えている。狭い世間のこと、夕べにはもう誰も知らぬものがなくなっていた。ただ、死因は病死となっていた。

 昼過ぎて帰ってきた父が今すぐ椋田様のところへ行けという。話があるのだという。椋田様は殿のお側近くに仕えている。日も高いこんな時刻に見当もつかないままに伺うと、奥に通された。部屋住みに毛の生えたような私ごときに何事と思っていると、市之丞の死因を調べろとおっしゃった。勘定方の見習いではあるが、出仕は月替わりで年内は身は空いている。

 今日、朝一番に真木様が殿に、市之丞の変死を話されたそうだ。まったく思い当たる節がない。ただ、こうなったからにはどんな処遇となっても仕方ない。自分はどうしたものかと殿に申し上げたそうだ。それについて、殿は、今さら死を隠すことはできないが、死因は病死としておけ。真木様はしばらく喪に服して家に控えていろ。だれかに死因を探らせ、明らかになった時点で次の処置を考える。そして、椋田様に調べるよう命じられたそうだ。椋田様は父を呼び、相談しながら、誰が適任か二人で考えたらしい。市之丞の行動範囲は藩校である学問所兼稽古場、求英堂が第一。それで同じく出入りしていて動きやすい者を考え、私に白羽の矢が当たったというわけだ。父は最初、辞退した。万一不手際になったらと考えたからだ。しかし、これだけのこと。遠からず真相が明白になるに違いない。だったら、手柄を立てる機会かもしれない。どうしてもわからなければ、それはそれで仕方ないで済むのではないか。そんな父の打算の上に私の出番となった。

 真木様の御屋敷に行き、裏から源助を呼ぶ。市之丞の友人で顔を知っているので、話が早い。今朝のことを上に報告する必要があるので、正直に話してほしいと言うと、素直に話してくれた。朝、掃除をしようと庭に出たら、隅の、よく木刀を振っていたところで、倒れていた。右を下にして、横たわっていた。上になっていた左の顔面が血まみれだった。最初、市之丞の服装であったから、若と思い近づいたが、そんな状態だから、よく顔をみたわけではない。慌てて中へ入って人を読んだ。後は、内の方達がしてくれた。目が飛び出たようになっていたから、打突は多分、(横面の辺りを指して)このあたりとのこと。昔は知らず、今は、孫の一助が市之丞の身の回りの世話をしている。一助の方が近々の事情はよく知っているとのこと。

 真木市之丞が殺されたのなら、そのわけは。

まず市之丞の父は家老であるが、今、役の上で対立しているようなことはない。少なくとも表向きはないし、そっち方面では手が出せない。市之丞は私同様、重要な役職についているわけではないから、仕事の上の恨みなどということはないはず。色恋の話は聞かず、遊び仲間は我らであって、市之丞を殺そうというような奴はいない。となればやはり道場か。

 今道場は確かに少しきな臭い。

 十日ほど前から、剣術修行の村岡が城下に逗留していて、市之丞と頻繁に接触していた。

 剣術修行の仕組みが成立したのは江戸時代の中期だが、剣を磨く目的で諸国を旅した武士は多くいた。名を挙げて仕官したい者は山ほどいる。隣の細川様には宮本武蔵が立ち寄ったし、新陰流の富田様もそうだし、薩摩の示現流もこの頃興った。  

 真木様は家老とはいい条、国政には携わっていない。他藩や幕府との渉外を担当している。お茶の家で先々代は利休様から、直にお点前を受けたそうだ。それで先代の殿が召し抱えられた。最も真木の家は先々代が高齢で先代は早世し、今の真木様から仕えることとなった。先の大坂の陣ではさっそく陣中、陣後とお茶が立てられると千家との関係を吹聴して取り入り、小田波の殿をよろしくと裏で活躍していたらしい。我が藩が有職故実の家で、だから、一万石に満たぬのに大名扱いとなっているのは、武勲のたまものではない。それでもわれらが父祖は弓馬の家として先の戦では大坂に参ったが、その中で真木様のお振舞を快く思わぬ人々も半数当たりいた。もう弓矢、鉄砲の時代ではない。大筒一つで戦が決すると言うことを老人たちは認めたくない。もちろん我々も認めたくはないのだが、当然われらの比ではない。そんな中、名物の「かすみ」を持って茶会にいそいそと出かける真木様は外様でもあり、決して認められていると言うわけではなかった。

 今回の件で最初、殿は「真木はどうしておる?」と言われていたが、ほどなく「霞亭(真木様の号)はいかに?」と言われ、やがて「かすみの件は?」となった。『かすみ顛末の記』はここから名付けられた。

 大坂の戦の折、我らはまだ、十前後で元服もしておらず、大層悔しい思いをした。次は必ずと思いながら、もう戦はなさそうだ。(そう記している若武者がこの十数年後島原に出陣することを知る現代の我々は複雑な思いをするのだが。そして、やはり戦は大筒の活躍で終わったのだったが)。信吾も弥五郎も悔しがる中で、同じように悔しがる市之丞にわれらが、「お前はお茶を立てておればよい」とからかったからだろうか、市之丞は剣術に熱心だった。それは市之丞のみならず、真木の家をまだ認めようとせぬ我が藩の風を感じたからかもしれぬ。先日も師範代に大目玉を食らっていた。兄弟子たちの稽古を盗み見ようとしたのだ。

 求英堂の稽古は六つ頃、夜明けとともに始まる。師範は老沼様で宗厳と号されている。これは双月を隠したものだ。どの流派にも併伝武術として十手、手裏剣、鎖、鎖鎌術等がある。師範は神道流の流れを汲む草且流の宗家で草且も双月を隠したものだ。では、双月とは何かというと、多くの流派で伝えられる杖術で、神道流では夢想権之助の神道夢想流が特に有名だが、これは夢想権之助が創始したもので、神道流にもとから伝わるものではない。夢想流は黒田、福岡藩のお留流でもある。お留流とは福岡藩の言い方で藩外不出ということ。多くの藩でそれぞれ多くの門外禁止流派があった。少し違うが、薩摩示現流なども有名だ。多くの流派が明治維新で外に開かれた。

 さて、小田波、国東藩だが、この草且流の双杖を禁足としている。流祖、師角新兵衛佐長は、幼少より神道流を学び、長じては扶桑第一の幟を立て諸国を回り、永禄年間、三重の地に着いた。北畠の殿は名うての武芸好きで、しばらく寄宿することとなったが、その折、上泉信綱が当地に寄った。北畠の殿が呼んだともいう。新陰流という新しい流派の鑑定役として、殿直々に立ち合いを頼まれた。新陰流からは高弟の神後伊豆守。木刀での庭での立ち合いとなったが、結局流祖は何もできないうちに終わった。大上段に振りかぶった神後の前に、どうしてよいかわからなったのだ。介者剣法に慣れた流祖は、打ち下ろしの剣として八相しか知らなかった。頭を防御する兜を被っている以上、両手を差し上げるなどという構えはあり得ない。ところが、庭で対した神後はいきなり大上段に振りかぶった。進めば真向を割られる。それだけの威圧もあった。引いてどうするわけもない。なにもできないまま、北畠の殿がそれまでと声をかけた。黙って退き、そのまま館を辞去した。諸国を流れ、大山にこもって百日、夢に二つの月を見た。向かってくる二つの月を見て、両手に杖を持つ術を完成させた。もともと鹿島にいる折から、乳切木と言われる杖の手ほどきも受けていた。ただ両手に持つなら、四尺二寸は長すぎる。二尺一寸としたが、さらに詰めて一尺八寸とした。その分、太さを八分から一寸とした。創案、工夫にさらに半年。ようやく納得して行脚を再開した。双短杖は秘太刀とし、立ち合いは木刀か太刀でした。しかし、短杖の鍛錬、稽古が太刀を変え、その頃より名が世に轟くようになった。二世宗家老松様がその頃弟子となった。二人は、名のある武芸者がいれば刀で立ち合いを求め、二人になると双短杖の稽古をした。一の杖、「卍」を完成させ、神後を追って熊本へ。まみえた初代宗家は手合わせを望んだ。木刀を大上段に振りかざす神後に、宗家は双短杖で対した。両の短杖を順手で持ち、胸元で軽く合わせ、斜め十文字に構えて差し出す。そのまま両手を差し上げれば太刀を受けることになるが、真剣なら杖は真っ二つに切られて頭を割られることになる。どうするつもりか。神後は右足を送って振り下した。

 有名な武道歌に

 切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ 

 下の句は、ただ斬り込めよ神妙の剣(石舟斎)、踏み込み行けば後は極楽(武蔵)、一歩踏み込めあとは極楽(宗矩)などであるが、これは我武者羅に突っ込めと言っているわけではない。真剣は切っ先三寸とか物打ちというように、切っ先から三寸くらいのところまでで切るようになっている。刀を振ることで先端部の威力が増すためだ。勘違いしている人もいるようだが、真剣は押したり引いたりして切るものではない。緩やかな曲線を形作る歪刀であるため、当たればもう押し引きをしているのと同じことになる。試斬などでは巻き藁や竹など的に対して素直に歯を当てろと言われた。パーンという音がして、的は二つになっていた。威力は先端部でもっとも発揮される。だから、相手からも踏み込まれて超接近状態になると剣が使えない。鍔迫り合いになると多少の駆け引きはあるが、圧倒的に力の強い者が有利だ。右の下の句、柳生は無刀取りで相手の剣を殺すため、武蔵は二刀流で短剣があるため、懐対策が万全だった。だからあんな歌になったのではないか。

 上段から振り下ろされた宗家は、両腕を上にあげて剣を受けようとせず、短杖を十字に結んだまま一歩踏み出し神後の両目に斜めに突き上げた。まっすぐ突き出される方が最短で向かってくる分、速い。神後は肘を落として刀で十字杖を受けた。二人の間合いは狭く、懐に入られている。宗家は相手が鍔元で受けるように繰り出した。鍔元ならそのまま押して顔面の前にある剣をそのまま、神後の顔面にぶち当てることができる。しかし神後は柄で受けた。柄を握る手のひら、指が潰されないよう、握る両手のわずかの間で重ねた杖を受けた。受ける剣が鍔元であれば顔面を、柄であれば指を潰せたはずだが、神後は指のそのわずかの隙間で、杖を受けた。宗家はそのままさらに一歩踏み出し、両手の間を広げ、十字の杖は剣に対して一文字になっている。剣は歪刀なので押し引きせずとも切れると書いたが、鍔元で振れぬ状態なら一刀両断というわけにはいかない。ただし、剣者は杖を支点にして右手を前に押し、左手を上に引けは、真剣ならば宗家の頭を切ることはできる。ものうちではなく、振ることもかなわぬが一瞬の打突である程度の威力は出せる。頭蓋骨を割るのは無理でも、頭上で滑って頭の皮が頭上から耳辺りまで削げるだろう。一瞬、二本の杖を重ね、その両端を左右それぞれの手で持って突っ張っている状態になったが、すぐにまた一歩踏み出すと同時に、右手を左に滑らせて右手で杖の左端を握った。右手の握りは逆手、小指側に長く杖が出ている。右腕と杖は平行になって握りと肘で杖を支えている。逆手の右手を左手で押して、神後の体を右側に大きく崩し、空いた右わき(電光・右脾腹、ちなみに左脾腹は月影という)に、左手で当身をくらわす。はずが、神後はさらに握りを押し下げて自分の右手で脇を守った。決めるはずであったが、まだいける。神後の顔面に右の二本の杖をと、その時、嫌な気がした。宗家は右足を引いて対し、神後は左に動いて対した。また嫌な気がした。何か来る。一足一刀の距離だ。脇構えにも見えるが、右手は打たれて軽くしびれているはずだ。しかし、強引に振り上げることもできる。もう一歩下がって、かまえ直すか。下手な動きはするなと身体がささやく。稽古してきた今までが、何かを伝えている。宗家は待った。ふっと空気が緩み、静かに構えを解いた神後は「よく工夫なされたな」と言い、宗家に対した。宗家は一礼し、二人はそのまま別れた。これが草旦流に伝わる縁起である。上泉信綱本人と立ち会ったとも言われているし、太鼓のばちさばきから考案したともあるが、剣豪に負けて山に籠り、新流を創始するのはよくある伝説だ。どこまでが真実か、わからない。

 ほどなく、宗家は小田波の殿に、二代目宗家となる現師範老松佐五郎他、向谷、手取川、陣川の三名の弟子と共に召し抱えられ、関ヶ原の後の国替えでこの地にいる。九州には、名立たる、五月蠅い武将が数多いる。黒田如水、加藤清正、島津義久と数え上げればきりがない。関門海峡を渡れば毛利もいる。黒田長政、細川と手懐けたと言えど油断はできない。国東藩など、とても防波堤にならない。くさびにならない。ただ、江戸との連絡は密にしていた。やがて、本家である小笠原がやってくるが、それは後十年待たねばならない。

九州大名の目付として九州探題の役を果たす小笠原家は小田波の本家筋にあたるが、小笠原家が小倉の地に移るのは寛永の頃。小田波はまだ細川が小倉にいたころから国東の一部を治めており、だから、小田波は小笠原の支藩ではない。細川家は武士の作法に通じた名家である。年が明けると、公方様は嫡男、家光様の具足始めを執り行うと通達してきた。そのまま、将軍職を譲り、自身は大御所として権勢を振るうのであろうとのうわさである。年明けの儀式のため、細川様と小笠原の殿は江戸に詰め、近いうちに我が殿も江戸に出立される。どの家も相応の儀式なりの振舞いをしなければならない。その作法の指南をと、細川、小田原はもとより、小藩の国東藩にも大名、小名の使いが来た。どの家もどんな準備をすればよいか分からない。どれほどの人員が必要かわからない。夏頃はだから各江戸屋敷に牢人者が多数押し寄せた。烏帽子親の加藤様はもとより、指南その他の細川、小笠原その他の藩はてんやわんやの大騒ぎ。その上での牢人者の押しかけだった。大坂の陣以降も改易、国替えは続き、牢人は世にあふれていた。江戸はひとまず落ち着いたようだが、地元にまで顔を出すものもいた。小藩である小田波藩ではそれほどでもなかったが、最近、ひょっこりと現れたのが村岡だ。彼はまず真木様を訪れた。名物を見てもらいたいと、茶碗を持参したのだが、出入りの業者に見せると対したものではないとのこと。次に剣術の腕を言い出したが、茶碗の件があったので、誰も相手にしない。図々しくも求英堂の道場に表れ、稽古をさせてもらえないかと言い出した。小山内様が相手をした。そこそこではあるが、それほどではない。その時、市之丞と知り合ったらしい。人の好い市之丞は村岡の話を何でも鵜呑みにする。広島藩士であった。先年の減転封のおりに自ら退いたとか、もとは福島正守に従っていたが、大坂の陣の後、働きを認められて福島正則に召し抱えられたとか、剣は貫心流だとかいちいち嘘くさい。村岡の言うことは市之丞を通してすべて筒抜けで、最初疑う我々を何とか説得しようとしていた市之丞もやがて黙り込むようになった。我々の説得は諦めたようだが、村岡についてはまだ未練があるらしい。それをよいことに村岡は夜な夜な裏から市之丞を訪れ、飲食を供されていたようだ。ここだけの話だがと声を潜め、やがて庭に下りては各流派の型や構えをして見せる。これは手を合わせた小山内様からの話で想像したのだが、なんでも器用らしい。始めは只者ではないと思ったが、慣れるに従い、諸国を廻って覗き見た各流派の見様見真似であって、器用だが重みがない。品、位がない。この頃まだ竹刀は発明されておらず、袋竹刀が使われだしたばかり。型は刃を落とした真剣か木刀がいつもだったが、他流でもあり、万一があってはと袋竹刀を使った。そして、先ほどの感想。市之丞はまんまと騙された。だが、村岡の目的はなんだ。

 村岡はまず小倉藩を目指したようだが、ほどなく退去している。そのおり何かなかったか。その件で村岡の素性が知れるようなことはないか。市之丞の件で最初に思い浮かんだ人物は村岡だった。細川様にお仕えしている兄に父からすぐ連絡を取ってもらった。兄は紹介してくれる人がいて、小倉藩士の家に婿入りし、そののち、我が家は、長兄が亡くなった。年は離れていたが、幼いころ可愛がられた記憶がある。次男、三男でお互いの境遇に思うところがあったのだろうか。

 半月ほど前、数日城下に逗留していた旅の牢人者で思い当たるものがいる。急いで調べてみると使いの者が帰って来て伝えた。結局十日かかってしまったが。

 村岡について、二つのことが気になっている。昼から自主稽古の後、道場の近くをうろついていた一助を捕まえて話を聞いた。一助も市之丞の死因を知りたいが、探ることも調べることもかなわず、ただうろついているという。元服までは源助が市之丞の世話をしていたが、今は一助が小者として従っている。我々と違い、稽古にも荷物を持って付いてくる。道場には入れないからその間はいつも外で待っている。帰ったら打ち込みの太刀持ちもしているらしい。すべてに甲斐甲斐しく仕えている。確か平助だったと思うが、市之丞にあやかって一助と名を変えている。年は我らより少し下だ。市之丞は何とも思っていないのだろうが。ただの小者なのだろうが、一助は熱心に仕えている。そんな一助に聞いてみた。一つは道場で市之丞が兄弟子の稽古を盗み見たこと。

 我らの稽古は、早朝、道場に三々五々集まって始まる。半刻程の後、高弟たちが現れ、我らを指導してくださる。そしてさらに半刻程のち師範がいらっしゃり、神棚の前に並んで手を打ち礼をして、師範の指示のもと、その日の本稽古が始まる。一刻程ののち、若年者等は退き、役に当たっていれば出仕の準備をし、そうでなければ、各自それぞれ家の裏などの場で独習する。我らは数年前元服してほどなく、そのまま残るように言われ、双短杖の手ほどきが始まった。慎吾、弥五郎、市之丞と並んで稽古を見る。見稽古だが、ある日、突然やってみろと言われる。そこで散々なら席に戻される。手順を理解しているようなら、改めて手の位置、足の位置、その型の意味等を一通り師範から教わり、その後指名された兄弟子とその型を稽古する。私には小山内様がついてくださった。

 師範は先代の最初期の弟子で、二人で様々な工夫をし、草旦流の双短杖を完成させた。後には師範の弟弟子で、向谷、手取川、陣川様も参加され、「卍」から「仏」に至る六本を創案した。やがて、表十二本、裏十二本、奥伝十二本と定まるのは宝暦、中興の祖と言われる八世久宗厳の頃である。今物語っている時点では本が六本、枝としてやがて奥伝になる技がいくつかあった。まだ厳密に整理はされていない。宗家を継ぐ者が、儀式の折、工夫した術を披露し、加えられて増えていく。後には既存の型に少し変化を加えたくらいの型であったりもしたが、八世の折に整理して、今のように体系づけた。しかしそれは前述のようにのちの話。宗家争いや、刃傷沙汰など面白い話はいくらかあるのだが、今は「かすみ」の事件に戻ろう。

 先代宗家から老松師範が宗家を継いだ時、新しい「卍」を披露した。先代はその技こそ双短杖のすべてを尽くしていると、一の杖とした。そして古い「卍」は枝とした。だから我らがまず習う杖は新「卍」だ。兄弟子は木刀を構える。こちらは右の杖は逆手、(小指のほうから杖が長く出ている。)、左手の杖は順手、(親指の方から杖が長く出ている。)でどちらも手の甲を上にする。左手を突き出して拳で相手の顔面を狙い、右手は左手の肘の上に右手の肘を置いて、杖の先で相手の右目を牽制する。これで「卍」の構えができる。間を取り、八相に構えた相手がこちらに向かって歩みだすと「卍」に構えたこちらも相手に向かって歩き始める。相手が上段に振りかぶったとき、後ろ脚となっている左足で強く蹴りだし間を詰め、左手拳で振り下ろす相手の右肘を打ち、同時に右手を引いて、刀を握る相手の拳を削ぐ。左肘と右拳を潰して、終わりとなる。

 短杖で人を殺めるなど至難の業だ。急所を思い切り突いても腹筋を鍛えていれば耐えられる。それを破るには正確に急所を突くことと威力を増すための突きの速さ、そして相手が息を吸うその一瞬だ。その三つが合わないと無理だ。稽古で、打ちは寸止めだが、水月への突きは本気だ。突く方は正確さと速さを求めて、受ける側は腹筋を鍛えるためと打突の瞬間に気持ち踏み出し急所を微妙にずらすために。誰も痛がるものなどいない。痛くても効いてないという態度を取る。大体、打たれても突かれても、兄弟子たちは効いてない風を装う。やせ我慢だが、我々下の者が打突したとき、もし兄弟子たちが痛がったら、次回から下位者は打てなくなる。だから誤ってきついのが入っても兄弟子たちは平気な顔をする。しかし間違って本気の打突が入ってしまったら本来耐えられないはずである。それくらい打撃を与えるのが難しい得物が短杖でもあった。太刀ならド素人でも相手に致命傷を与えることができる。しかし相手を殺さず、できるだけ傷つけずに倒したい時もある。そんな捕縛術として、のちに双短杖は発展していく。あるいはとっさの時でも短い棒きれ、薪ざっぽうくらいはあるだろう。それで身を守る。護身術として短杖は受け継がれた。先代はそれを見越していたのだろう。本来敵討ちや恨みを晴らす、上からの命で相手を切らねばならないでなく、相手の腕を計りたいのであれば引き分けで十分だ。負けるわけにはいかないが、下手に勝って恨みを買うのも馬鹿々々しい。相手を傷つけず、当然こちらも傷つかず、形の上では引き分けたうえで、相手が負けを納得してくれたら、それが一番だ。そのうえで将来、真剣で立ち会うことになったら、その時の経験を活かせばいい。相手を殺すのが主命なら、人を連れても槍でも鉄砲でも使えばいい。無駄死にするわけにはいかない。まだ葉隠れ的な抽象的武士道はできていない。戦国の実利的な対戦術が生きていた。

 さて、稽古では裂帛の気合と共に拳を打ち出し、当たる寸前で力を抜き、打突の間合い、適切な瞬間を学ぶものだが、そううまくはいかない。もし兄弟子の肘に拳が入ったらと考えるとどうしても恐る恐るになってしまう。小山内様は「お前の拳くらいで壊れるものか、思い切って来い。」と言われるが、数をこなすうちに次第にそれなりの型になっていく。さて、そんな稽古の折、「卍」の原型を教えてやると言われ(「旧卍」が奥伝に入り、初心者に見せなくなるのは後の話。厳密に決せられるのは八世の頃で、この頃はまだ緩やかなものだった。)神後伊豆守との立ち合いを教わった。そして、まだもう一つ、卍があるという話をどこからともなく聞いた。誰から聞いたか、今となっては覚えていない。旧卍、新卍に加えてもう一つあるというのだ。

 我らの本稽古も終わり、我らは下がる。兄弟子たちはさらに残って上の位の型を学ぶ。あるいは磨く。それを終えたら四つ刻になっていて、役付きの者は直接出仕する。市之丞はその兄弟子たちの稽古の時、ダラダラと残ってさっさと道場から出るよう促された後、今度は着替えて道場の周りをうろついていて「帰らんか!」と叱られたのだ。明らかに兄弟子たちの稽古を見ようとの魂胆が透いて見えた。特別な出仕の者、領地見分の者など朝方の稽古に来れぬ者は昼過ぎて来、まだ道場にいる者と稽古をする。朝方の稽古をさらう者もいる。市之丞はこの頃、用もないのにこの昼からの自主稽古に顔を出していた。我らが顔を出しても、誰も相手をしてくれない。道場の片隅で木刀を振るくらいのものだ。だったら自宅ですればよい。昼過ぎの道場で双短杖を出そうものなら、大目玉を食らう。禁足の術ゆえに、みだりに人前で稽古などすべきでない。市之丞は何かを嗅ぎまわるように道場にいた。そのわけが村岡ではないかと思っていた。ここからは推測に過ぎないのだが、村岡は国を廻って各流派のことを調べ、草旦流についても調べていたのではないか。市之丞を通して調べ、代わりに各流派の知っていることを市之丞に教えていたのではないか。一助に確認したところ、市之丞の兄弟子稽古盗み見の件は言を左右にして確答しなかったが、村岡が出入りし、二人が剣術についてよく話していたことは首肯した。熱心な市之丞に対し、話を合わせて取り入ろうとする村岡の態度に、口には出していないが一助も反感を持っていたようだ。だから、一度ちょっとしたことで村岡の怒りを買い、危うく切られかけたとこのこと。なんでも酒を飲み、肴になる食べ物を持って行き、それが無くなったままにしておいたところ、気が利かぬと突然激高した。あるいは、一助をいやらしい目で見てこちらになびかぬと知り、切ろうとした。もちろん、市之丞がとりなした。どうも村岡は酒癖が悪いらしい。この頃、刀の切れ味を試そうと辻斬り、試し切りなど江戸ではよくあった。戦が無くなり、槍や弓でなく、武士が刀を差して出歩くようになり、新刀が盛んに作られ出回ったころだ。しかし、試されるのは身分の特に低い者。小者とはいえ気に入らぬと仕えている者を手にかけようというのは尋常ではない。一助に木刀を持たせ、村岡も木刀で他流派の型を見せることも何度かあった。言われるまま構えて振ると横に回り、一旦後ろに下がった村岡が打ち込んでくる。手加減なしで打ち込み、とっさに身を引くと「それでは型にならん」と怒ったりする。明らかに一助に対する嫌がらせだった。それを市之丞は笑って見ていたと言う。盗み見たくらいの術をありがたく思う市之丞の馬鹿さ加減にはうんざりするが、村岡の悪辣さには反吐が出る。

 戦では弓と槍だ。しかし、戦が無くなり、刀を差して歩くようになって、剣術が変わった。具足鎧をつけたものと戦う介者剣法でなく、道場で目の前の者一人と戦う素肌剣法が、しかも袋竹刀を使って実際にやりあってみるという形になって、剣術はさらに新しく変わることを余儀なくされた。大上段の構えや袋竹刀などの影響は大きい。兵法三大源流と言われる念流、神道流、陰流を基にした新流派がこの時代大量に生まれた。だからなおさら、新しい情報に敏感になる者が現れた。

 門外不出と言われる流派や技を他所に流す者がいれば、教えを守っている者たち、一門一党はどうするか。それについての伝説も数多くある。闇夜に惨殺された。刀を握れぬよう、指を落とされた。目を潰された。それらのほとんどは多分、伝説だろう。まず他流派の何かをそれほどしつこく詮索する者などいない。この頃はまだ戦国の気風が残っていて何かと殺伐としたところもあったが、一方で各流派も確立してきて、他流派とやりあうなどまずあり得なかった。例えば我が求英堂に出入りする剣士は当然、草旦流であるが、槍を習った者もおり、弓を使う者もいる。一世宗家師角が小田波の殿に見いだされたのが、およそ三十年前。その前からいた者でそれぞれ家に伝わる剣を使う者は多くいた。だから、道場には他流の剣を使う者もいる。立ち会ってみて、面白いことをすれば、真似してやってみようとするだろうが、それが生き死にを決するほどのものでもあるまい。やがて剣は小手先の技術でなく心に向かっていき、一方技術に惹かれる者もいる。江戸も中頃になり、竹刀や面、小手、胴が工夫され、廻国修行の制度も整えられて、他流と交わるころには、もう道場剣法となっているが、それはのちの話。

 もし市之丞が裏切り者だとすれば、・・・。一助は否定した。村岡の剣術談義は熱心に聞いていたが、市之丞が双短杖の話をすることはなかった。まして型など。昨日もしつこく型を見せろという村岡に市之丞は頑として断った。二人はやがて激しく言い合い、村岡は出て行った。しかし、道場で市之丞の振舞いに不審を感じ、疑う者は多い。そうなると、 話はややこしくなる。今道場は、不穏な雰囲気だ。 先代宗家師角師範が老松師範に跡を譲ったのは、七十を過ぎた頃。大坂の役の頃だった。そして数年して亡くなられた。そのころから道場に通い始めたのだが、なぜかずいぶんと先代にはかわいがってもらった。長兄、次兄は父と共に大坂へ行き、結局はさしたることは何もせず、ただ悔しがって帰ってきたが、それでも戦の真っただ中に身を置く経験ができた。豊臣が滅び、もう戦はない。我々は大層悔しがった。それを先代師範師角様は不憫に思われたのか、あるいは生きる伝説として誰もが一歩下がる中、我々子供は偏見なくひたすら純粋に師にあこがれたためか。

 先代が老松様に跡を譲られたのは、耳が聞こえなくなったためだった。その数年前から右手が肩より上に上がらなくなった。しかし、そんなことはないとばかりに、若手の打ち込みの相手をし、手本として木刀を振られるときは、誰よりも鋭く威力があった。いつかこんな日のために、片手で戦う準備をされていたようだ。「もし相手が手負いであれば、そこを突くのが当然でしょ。だから、相手に悟られぬよう、気づかれても、あれは罠かと思わせるような振りをする必要があるんです。日ごろから、手の怪我、足の怪我、肩、腰など痛いとき、そんなときにどう戦うか考えておきなさい。」(師は子供相手にも丁寧な言葉遣いをされる方だった。それが道場に浸透し、言葉についてはどなたも丁寧な言葉を遣う。)そんな師が耳が聞こえなくて身を退く決意をされた。人の気配が感じられなくなったという。これは後に小山内様から聞いた。もともと動物の耳に当たるものは空気の振動を感じる器官だ。人も音と認識できないそれ以上、それ以下の空気の振動を体全体で感じているのではないか。それを気配というのではないか。ただ最も敏感に感じるのが耳で、だから耳がやられると格段に気配を感じる能力が落ちてしまう。そんなことだと思うのだが。  

 先師が亡くなってほどなく私も元服し、続いて双短杖を教えてもらえるようになった。老松様はすごい。朝は求英堂で指導に当たり、昼からは千代松様のお相手をされる。師角師範との折々の話や双短杖のこれまでの成果をまとめて文書にし、暇を見て月に数度は山に籠られる。夜ぴて稽古をして気づけば朝だったなどということもあるらしい。そのまま求英堂に来る事もしばしばだった。

 一度小山内様が真似をしたそうだ。師範の、山での稽古の話を聞き、やってみようと思い立った。幸い家の裏には小高い丘があって子供の頃からよく登っている。明りを持って夏のある日の夜、山道を登り始めた。なじみの道であるはずなのに何か様子が違う。気が散って仕方ない。猿が出ぬか、猪が出ぬかなど日頃なら考えたこともないことが頭に浮かぶ。そのうち木の根が蛇に見え、葉擦れの音が人の話し声に聞こえてくる。自分で自分がおかしくなっていくのがわかる。視界が狭まりやがて何も見えなくなる、とその瞬間、周りが明るくなった。日が昇った。

 のちに師範にその話をすると「よかったですね、帰ってこれて。向こうに行ったままの人も大勢いるからね。」と言われてぞっとしたそうだ。

 武術のできる人で、不思議な経験をした人は多い。不思議な技を使う人も多い。例えば天気を当てる、人の寿命を当てる。催眠術の使える人もけっこういる。それが不思議で、たとえば、双子なのに、一人はできて一人はできないなんてのもある。教えてもらったのか才能なのかわからないが、その他にも不思議な術というかそんな人がいる。小山内様の友人で、遠方に住む方らしいが、小山内様が悩む時に必ず文を送ってくださる方があるそうだ。今悩んでいる。文が来る。奥を見ればもうずいぶん前に書かれている。それが今到着した。もちろん、それについて相談したり連絡したりはない。尋ねると、夢を見るそうだ。随分悩み苦しんでいるようで、だから、文を書く。その方は朝起きると朝餉を摂り、入念に掃除をして家を出るらしい。もう二度と帰ってこれないかもしれないからと言われたそうだ。それが毎日。

 老松師範は催眠術を使わない。しかし随分前に、師範に、いくらこんな稽古をしても人は倒せませんよと言った者がいた。六尺、二十四貫とか言う大男だったらしい。「そうでもないですよ」と言うと、いきなり老松師範は水月に短杖を突き入れた。ちょっと踏み込みはしたが、特に強烈な何かというものでなく、自然と下げた手から相手の水月への素直な突きだったらしい。一寸も入らなかったはずだが、しかし相手はその場に静かに崩れた。また別の時には激しく悶絶した時もあったらしい。わずかな場所の違い、らしい。そして師範はそれを使い分けることができるらしい。師範から突きの教えを受けて、何度か軽く水月を突かれ、稽古が終わって着替えようと道着を脱ぐと、水月に突かれた跡が、一つしかなかった。師範の突きがいかに正確かという小話だ。

 さて、そんな師範だから表立って逆らう者などいない。人格者だし、腕も立つ。強い剣士、上手い剣士はいるが、師範はまさに達人だった。達人と呼ばれる人を間近で見られる幸せ。しかし、誰もが剣だけで生きているわけではない。剣も政治になる。師範も高齢になり誰が継ぐかが皆の興味となっている。老松師範には当然多くの弟子がいるが、亡くなったり江戸に行ったり相応しくなかったり。最も師範に近いのは宗田様だ。師範も何かと宗田様に声をかける。相談もする。皆に術等を説明するとき支太刀や打太刀をされるのは宗田様だ。皆の前で叱責されるのも宗田様。腕は立つ。面倒見も良い。術理もよくされている。ただ、身分が低い。宗田様が跡を継ぐことはまずない。最有力は千代松様。千代松様のお母君は正室ではないが、決して身分が低い訳ではない。次世代では殿の跡を継ぐ満福丸様を助け、家老扱いの相談役になるだろう。聡明な方だと聞いている。もうすぐの元服の折に宗家も継ぐというのはあり得る。宗家は殿に近い方が継ぎ、裁量は道場で師範代が任せてもらえれば、という目論見だろうか。もう一つの選択肢は菅原様。菅原様は老松師範の弟弟子、陣川様が育てられた。陣川様は手取川様の親戚で、紹介され師角師範につかれた。もともと神道流の体術を得意とし、双短杖には体術が多く取り入れられている。太刀より短い杖を使う故、また左右の手に得物を持つため、体術的な動きが多くなる。晩年、宗家を任された老松師範は陣川様を大層お頼りになったということだ。その陣川様も師角師範が亡くなられてほどなく鬼籍に入られた。亡くなる少し前に、陣川様は菅原様の行く末を老松師範に託され、以後師範は菅原様の指導をなさっている。菅原様の家は古くより小田波に仕え、家老の家にも近い、我が藩の名家だ。そして菅原様を推すものがいるのは、菅原様がすなわち老松師範でなく陣川様の流れだと言うことだ。修行しそれなりの技、術を修めれば折紙を与えられ、免許を許される。だから道場にはそんな人物が複数いる。免許が与えられれば弟子を取ることができる。師角師範の高弟、老松様は当然、向谷、手取川、陣川様夫々も免許を許されている。向谷、手取川、陣川様の御三人はすでに亡くなっているが、道場ではその系譜の人々も稽古をしている。また、老松様が折紙、免許を与え許した人々もいる。彼らも弟子を取れるのだが、別に道場を建てるものもおらず、求英堂で後進の指導に当たっている。さて、師角師範と老松師範では技の解釈、術理も違う。当然教え方が違う。老松師範も昔と今では術の解釈が違う。日々稽古されている師範だから、どんどん進化している。強くなりたいと師の跡を追おうとする者がいる。皆自分はそうだと思っている。しかし、師の教えを専一に守ろうとする者もいる。それが忠義だと思っている。昔習った師の教えを今持ち出し、そんな解釈を、もう師は越えて次に行ってらっしゃるのに、前の位置にいつまでもいようとされる方もいる。そんなそれぞれの位置が、千代松様であったり、菅原様であったり、あるいは子のいらっしゃらない老松様が誰かを養子にするなどという可能性まで考える者もいる。

 私は小山内様から指導を受けているが、小山内様は宗田様から指導を受けている。小山内様は新しい解釈が好きだ。宗田様も剣に貪欲な方で、手取川様や陣川様の所に行き、指導を受けられたこともある。もちろん、老松師範の許しを得てだが。そんな貪欲な方でありながら、新しい解釈をなんでも受け入れるかと言うとそうではない。人は不思議だ。市之丞は大野様から指導を受けていた。大野様はもともと手取川様から教えを受けていた。大野様は今、師と仰いだ手取川様がおらず、私のような勘定方でなく、番方でありながら、言わば蚊帳の外であるから、師の教えにひたすら従うことが武士らしい振舞いだと思われているのか、少しかたくなになっておられる。明らかに主流派ではない焦りだろうか。

 師範とは、平時は殿の相談役であり、家老職扱いだが、もし戦となれば侍大将として、兵を率いて先陣を務めることとなろう。あるいは、殿の一番お傍近くにいてお守りする役となろう。そんな者には愚直なまでの忠が求められる。それを体現なさっている。市之丞の盗み見の時、青筋立てて叱り飛ばしたのは大野様だった。市之丞の面倒を見る役だから当然であろうが、そんな道場の決まりについての思いも多分にあったと思われる。そしてもし市之丞が他流に草旦流の何かを流したと知ったら。これは大野様だけではない。そんな風にして忠を表そうと言う者が何人かいる。一助に近頃、市之丞の傍に表れた者がいないか聞いたが、思い当たらないという返事だった。一助は何か隠してる、そんな気がしてならない。まさか主人の仇を自分が打とうなどと考えているとも思えないが、思いつめた様子が見える。しかし、口を割りそうにない。こっちに切り札もない。だったら、もうひとつ、気になっていることを聞く。村岡の不審な行動で特に何かないか。私が懸念してるのは、村岡が切支丹ではないかということだ。

 この夏、長崎で多くの切支丹信者が火あぶりの刑に処せられたそうだ。切支丹とか天主とかよくわからない。一向宗のように一揆をするのだろう。先の大御所様は一向一揆に悩まされたから、切支丹も禁止したのか。昔はこの辺りにも住んでいたという。今でもあの辺りはそうではないかと言われる所もある。近くの村のある男は、海の向こうに行ったっきりになっているそうだ。もし村岡が切支丹で縁を頼りに国を廻っているなら、そして連絡を取って一揆を図っているのなら、それに気づいた市之丞を殺したのかもしれぬ。

 村岡が来て、市之丞が死んだのなら村岡に原因があるのだろう。昨夜、市之丞と村岡が激しく口論していたと訴えた者がいる。多分源助だろう。話を聞こうと椋田様が人を遣わされると、宿はすでにもぬけの殻だったとのこと。小者が触れ回り追うこととなった。市之丞の死は伏せてある。しかし誰もが何か感じている。村岡は山に入ったらしい。山の中の集落を目指しているのか。今手の空いている藩士、百人弱が集まった。若手が中心で道場で見知った顔はほぼ来ている。実戦を経験できると思った者もいるだろうし、ある老人は鉢金に鎧、具足を付けていた。小山内様は槍を持っている。持槍の素槍なのは、山に入るからだろう。道場の数人が、双短杖を布で巻いて帯に差している。一助は鎧どおしを持っている。本来なら市之丞が太刀を差し、その後を一助が追いかけて、市之丞と相手が組討ち、組み伏せた時さっと近寄り鎧通しを渡すのだろうが、今、その主人はいないまま集団から少し離れて、いる。士分でもないものがおこがましいが、市之丞のことがあったから、それと関連があるやもと思っているのか、誰も何も言わない。私も刀を差したままどうすればよいのかわからずに只ついて行く。大きく横に広がって山を登っていく。数人ずつ脇道があれば散り、確認する。大野様の小者で猟もする太吾がどんどん山を登っていく。跡が見えるらしい。大野様も槍を持っている。小山内様も大野様もかろうじて大阪の陣に間に合った。その経験からであろうか。

 村岡はなぜ、昼頃まで城下にいたのだろう。多分、市之丞の変死を知って疑われると出立したのではないか。昨夜殺したのなら、そのまま逃げれば良い。なぜ今頃逃げ出したのか。やってないなら、堂々と申し開きをすればよい。村岡はやってない。しかし、何か知っている。あるいは叩けば埃が出るのだろう。山道を登りながら、そんなことを考えていた。

「居たぞ」

 不案内な土地、山道とそれを追う者では追う方が断然有利だ。村岡は大木を背に緊張した面持ちだ。お互いどうしたものかと相手の動きを窺っている。我らは村岡を遠巻きにしてじりじりと間を詰める。いきなり村岡が抜刀した。一瞬我らの腰が引ける。大野様が取り巻きを抑えるように、槍を構えて前に出た。まず素早く突き出す。村岡は下がって避ける。また突く。村岡がまた下がる。小山内様も前に出た。小山内様は突こうとせず、上から打つように槍を使う。上から降ってくる槍。前から突き出される槍。村岡の下がりに焦りが感じられる。何を思ったか突然村岡が前に出た。偶然大野様の突きだした槍と身体がぶつかり、左鎖骨の下あたりに槍が深々と突き刺さった。村岡から声か、うめきか、口から音が漏れる。太刀から左手を離し、右手を挙げた。小山内様が右の肩、やはり鎖骨の下あたりに槍を突き立てた。考えたうえでのことではない。体が反応していた。血に酔うという言葉がある。苦し気なうめき声、足元に流れる血。殺気、狂気を伝える目。すべてが伝染する。もう思慮の範囲ではない。大野様が槍を引いた。これも考えてのことではない。血が噴き出す。見たことのない、日頃見るどす黒いのではないきれいな色の血。小山内様も慌てて槍を引きぬく。なお一層の勢いある流血。みるみる血だまりが広がる。支えを失って村岡は倒れこむように膝をついた。その時になって周りが動き出した。誰かが後ろに駆け出して、やがて戸板を持ってくる。村岡から刀を奪い取り、傷口に布を当てて戸板に乗せる。顔色は白く蝋のようであり、もう駄目だなと思ったときに正気に返った。みんなの正気も返ったようだ。なんだか、呆気ないような、頼りないような気持だった。小者たちが村岡を載せた戸板の四方を持って山道を下る。

 村岡の所持品を改めたが、わずかな路銀、いくらかの書付、旅の必需品等、これはと思うようなものはなかった。後日、兄から届いた便りには、細川様の領内で、藩士と刃傷沙汰を起こした男と背格好が似ているので、本人ではないか。こちらの藩士は軽傷だが、なんでも慌てふためき早々に逐電したようだが、とあった。われらを小倉藩からの要請を受けた追手とでも思ったか。気の小さい男だったのかもしれない。

 始まりの、祭りのような躁状態とは打って変わった気まずい雰囲気のまま、三々五々帰っていく中で小山内様に追いつき、黙って後につく。頃合いを見計らって声をかける。

「小山内様、ちょっとお話があるのですが、」不審そうに振り向く小山内様に、

「お聞きしたいことがあるのでございます」様子を見て、歩きながらではけりがつかない様子に、

「そこで話そう」とおっしゃってくださった。道と田との間にちょっとした空き地がある。

「それで、話とは?」とおっしゃった。

「双短杖でこめかみを打つ技はございますか」

 まず、棒や杖で相手を打つ場合、刀でいう、物打ち、先端から三寸くらいまでで打たないと全く威力がない。細長い棒きれで打ち掛かられても、屈強な男なら上腕で防御するだろう。その腕がしびれて手がつかえないなどという打ちをどうするのか。一番利くのが先端部だ。先端部の角、点で相手の急所を的確に打つ。相手が少しでも動いて急所をずらしたら、終わりだ。刀なら刃がある。少々ずれても損傷は与えることができる。杖はそうはいかない。

 次に振り下ろし。人の視界は横に広い。上から打ち掛かられたら顔を上げなくてはならない。こめかみを打つなら横打ちになる。遠山の目付。自分の周囲全体を眺めるように見る。焦点を合わせると虚動に引っ掛けられる。催眠術なんてのもある。素早く反応するために全身の力を抜いて、居付くことを警戒するのだが、目に力の入っていることに気づいたことがある。道場でもつい相手をにらみつけてしまう。脱力とはほんとうに難しい。虚動などすぐひっかけられそうだ。だがまあ、横からの攻撃なら自然体に構えて、全体を把握して横から飛んでくる杖をはじくか叩き落すか、避けるか。剣の上段がやっかいなのはその理屈だ。真剣は木刀と比べると当然薄くて、白い刃は景色に溶け込み見えない。だから相手との間合いを測り、太刀の動きは手元で判断する。手を高く差し上げられると、顔を上げないと手の動きについて行けない。上段は天道(頭頂部)を狙う。少し下がられて外れても頭部、髪の生え際、そのまま落ちて烏兎(眉間)、人中すべて急所だ。こめかみを狙って外れれば目に行く。潰せば戦意は失うかもしれぬが殺せぬ。

「尋ねるわけは市之丞に関わっているのか」

「さようでございます」

 一瞬の間の後、小山内様は、

「卍だ」と答えた。「卍でございますか。」旧卍は左脾腹、電光に当身をくらわす。新卍は相手の左肘と右手首を破壊するはずだ。とすれば、

「三つ目の卍だ」

 年が明けて、将軍宣下の儀が終わり落ち着いたら、老松様も身を引かれるのだそうだ。と言っても新しく上様になる方は京へ行ったり本丸に移ったり、そのたびに儀式が執り行われるわけだから、すべて落ち着くのは来年の今頃になるかもしれない。三世宗家は菅原様で、今老松様指導の下、考案した「新新卍」をさらに磨くべく、稽古しておられるそうな。打太刀は老松様がされるだろうが、稽古は小山内様、大野様が相手をなさっている。本来、打太刀は師の位であって、弟子に正しい剣の使い方を教えるため、技を受け、打たれる側に回るのであるが、一世一代の宗家を継ぐ儀で失敗は許されない。そしてまだ改良する余地があれば、詰めておきたい。ほぼ完成で、誰が見ても感心する出来だと言うことだ。

 支杖つまり、当日菅原様は、上段の打太刀、つまり当日の老松様に対し、左手を前に伸ばして相手を牽制し、右手は上段に構える。どちらも順手に短杖を持っている。迫る打太刀に合わせて支杖も近づく。間合いが詰まり、打太刀は支杖の突きだした左手を切ろうと上段を振り下す。左前の一重身、半身の体制で近づく支杖は、切り下された刀を左を引いて右前の一重身になってかわし、右手杖を振り下ろして太刀を叩き落し、左足を出して左手で相手の頭上に杖を振り下ろす。この間、太刀は常に支杖の傍にあるが、近すぎる故、振ることができず、切れない。あえてするなら、太刀を支杖にあてがい、引くなりしなければならぬが、あてがった時点で杖が飛んでくる。前にも書いたが、太刀は懐に入られると弱い。

 相手は刀の柄で受けようと刀を引き上げる。その時、刀は、柄で受ける体制になっているため、打太刀の左に刃が行く、地面と水平に構えられる。柄で受けてそのまま刀を回して支杖の首を切りに行くだろう。左の杖で強く柄を打ち、十分体重をかけて一瞬太刀を殺し、間をおかず、右の杖を太刀の上に滑らせる。太刀の上前を滑らせるので、切ろうと押しても杖が抑えている形になる。そして太刀の根には打ち太刀のこめかみ(霞)がある。もちろん、寸止めで型は終わる。柄に載って、太刀を止めている左手に、刀に載って、導かれてこめかみ(霞)に向かう右手は寸止めでなければ、延長の杖同士は交錯し、卍となる。(しかしのちに、この型は「霞」と改名される。旧万は裏、新万は表の型になり、霞は裏の型に含まれる。)

「誰がやった?」

「一助が詳細な事情を知っているとかと存じます。一助をまず疑うべきかと。」

「一助? 一助は市之丞を恨んでいたのか? 」

「いえ、短杖で人を殺めることができるほどの手練れではありません。稽古をしていて、たまたま入ってしまったのでしょう。」

 市之丞と一助は庭で村岡が去った後、早朝いつもどおり稽古をしていた。盗み見した「新新卍」を思い出して再現する。

 実際にしなくても見ているだけで、忠実に人の行動を再現できる人がいる。見稽古が成り立つのはそのためだ。見ているだけで、実際にしなくても身体の動きが体験できる。武芸者にとっては是非ほしい能力だ。武芸者のみならず、舞い踊る者、身体を使って芸をするものなど、垂涎の能力だろう。そんな能力を磨くためにも見稽古がある。が、実際は見てできるものでもない。はじめは何度も席に戻らされた。最近こそごまかす方を知ったが、初めの頃はいつ声がかかるかと怖くてたまらなかった。市之丞は一助相手に見様見真似で再現していたのだろう。

「長い一日だったな。これからどうする?」

「もう遅うございますから一旦家に帰って父に相談いたします。たぶん、明日の朝一番で椋田様に報告するかと存じます。」

「そうだな。・・・ご苦労であった。また明日、道場で、な。」

「はい、失礼いたします。」

 別れて家に向かったが、気になって源助を訪ねた。一助はまだ山から戻っていなかった。戸板について、番所まで同道したか。

 家に帰って父に相談したら、明日一番に椋田様に報告すると言われた。その後はまた追って指示すると。

 翌日、椋田様への報告は父に任せ、源助を訪ねた。まだ帰っていないという。嫌な予感があったが、一助に逐電して頼る当てはない。もし想像通りなら、一助は主殺しになる。村岡が一助を試し切りにして市之丞に泣きつけば、何かと理由を付けて市之丞が成敗したと言えば、それで終わる。士分であれば小者に何をしようと勝手だが、小者では。主を殺めたのならどんな事情があるにせよ、なおさらである。

 源助に心当たりを尋ねるといつもなら、若様に従って裏山の中腹、昨夜の山狩りに向かう道の入口あたりにいる。二人は裏庭か、その辺りでいつも稽古していたとのこと。二人の稽古場を覗いてみたくて、そちらに行ってみた。少し上りになり、下からは見えないが家から近く、見晴らしがよい。真木の屋敷が見える。何かあればすぐに帰れる。そしてそこに期待していなかった一助がいた。木の根元で腹を割いて死んでいた。昨日持ち出した鎧通しだ。名の通り、鎧の隙間から刺し通すものであって切れ味がいい訳ではない。息のある間、自分の腹を割こうと右手を引き、左手で押し、顔から肩にかけて、油のような汗や涙や鼻水でべとべとになりながらもがいていたのだろう。そして伏した体の下は黒くなった血が溜まって近づけない。切腹のつもりか。武士になったつもりか。たかが小者の分際で。次に戦があれば、市之丞と共に戦場に立ち、大将首でも上げて士分に取り立ててもらうつもりだったか。なんとも愚かしい幕切れであった。そのままにして、山を下り、ちょうど源助を訪ねてきていた椋田様方の人々に詳細を説明し、後を委ねた。文字を知らぬ一助は書いたものなど何も残していなかった。

 真木の家は市之丞しか継ぐ者がおらず、養子を取らずにお家は断絶となった。真木様は死ぬまで殿の近くで相談役のようなことをしておられたが、いつも疲れたような様子をしておられた。ゆくゆくは江戸詰めの菊池様を呼び寄せ家老にし、真木様を江戸詰めと考えられていたようだが、それもかなわなくなった。源助は孫の一助の罪を問われ、牢に入れられ、ほどなく死んだ。数日して兄から村岡についての書状が届いた。内容は前に書いたとおりだ。

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