CASE 01 九条恭而 SECT.8 恭而
ぽっきりと折れてしまった蓮華の切っ先を呆然と見つめたオレは、一瞬だけ注意を怠った。
もちろん、主にとっては十分すぎる一瞬だ。
気配が背後に移っていた。
背後から艶めかしい声がした。
「さようなら、九条恭而くん」
しまった、と思う間もなかった。
文字通り死神の如くオレの背後をとった主は、大鎌を一閃した。
首筋に刃が触れ、血が噴き出した。
「ぐっ」
瞬間的に距離をとり、蓮華を支えに辛うじて踏みとどまる。
すぐに、仙を集中して傷を塞……
ドクン
心臓が大きく一つ、脈打った。
そうだ、凶人の能力は――
「これでお終いです」
殺戮を好む刻鍵は、傷を付けた相手の魂を喰う。
オレは、そのまま地に倒れ伏した。
魂が喰われていく感覚がある。
まるで奈落へと引きずり込まれているような、恐ろしい感覚。
恐怖。
「うっ……ああああああああ!」
これまで凶人の前に倒れた敵を何度も見た事があった。
例外なく、この上ないほどに恐怖を顔面に張り付けて、絶望の淵へと落下していくのだ。そして最後には、空の器しか残らない。
オレはそれを、身をもって体感している。
天の最頂部から墜とされたとしても、これほどの崩落感は味わえないだろう。
足元から墜ちていくのではない。
足元から自分が消滅していく感覚。
これが、死。
魂の崩落。
理屈ではない恐怖が全身を支配する。
その恐怖さえも、魂の崩落とともに無へと導かれていく。
喉から迸る絶叫が遠ざかっていく。
聴力がもう失われて行っている。
蓮華が手から滑り落ちたが、それが床に当たる音はしなかった。
まだ自分の喉から叫び声が絶えず上がっている感触だけがあった。
視力がほとんど残っていない。
それでも睨みつけた主の口元が動いているようだが、何と言っているかは分からなかった。
触覚は最後まで残っているようだが、それも不快感しか伝えない。
それもやがて消え去ってしまうだろう。
死。
ずいぶんと多くのモノにそれを与えてきたが、まさか自分が憂き目に遭うとは思ってもみなかった。
無論、普段の戦闘で死を覚悟していないと言えば嘘になるが、まるで実感がなかったのも事実だ。
魂が消えていく。
奈落へ引きずり込まれていく。
しかしそんな中で、オレの中に最後まで残ったモノがあった。
喉の奥から、自分のモノとは思えないような低く重い声が漏れる。
「ヤ メ ロ」
それは、純粋な殺意。
緋檻に堕ちる前から胸の底にどろどろと溜めていた澱のような異物が、魂の崩壊に伴って奥底から噴き出してきた。
殺意は恐怖を超えて力になる。
恐怖を全身に受けながら、無我夢中で折れた蓮華の切っ先を握った。
魂が底から消えていく。
残っている力すべてを刃に注ぎ込む。
奈落へ引きずり込まれていく。
最後の力で、刃を振りかざす。
光が遠ざかっていく。
驚いた主の表情を、初めて見た気がした。
魂が欠片でも残っている限りにおいて、オレは殺意を捨ててはいない。
最初に音が、次に光が戻ってきた。
オレが文字通り渾身の力で突き出した蓮華は、主に届いていた。
魂が逆流してくる。
主の死で凶人の力が薄れ、オレの魂が冥府から甦ってくる。
首筋の傷からはとんでもない量の血が流れ出していたが、それも仙の力で少しずつ癒えていっていた。
凶人の力が途切れるのは、主の死を意味する。
オレは、血だまりの中から主を見上げた。
じわりと地面に血だまりが広がっていく。
オレから流れ出る血と、主の血が中央でぶつかって堰を作った。
どさり、と主の体が血だまりに堕ちた。
先程のオレと同じ恐怖を味わっているはずの主は、なぜかとても穏やかだった。
ほんの少しだけ悲しそうに笑い、ぽつりと呟いた。
「僕は、本気じゃないと思っていたのですが」
本気……? 何の話だ……?
「そうですね、君たちを軍から外した時点で、僕があの人に本気だという事は確定していたというのに……」
主の銀髪がすぐ近くにある。
まるでうわ言のように何かを呟くと、ふいにオレの名を呼んだ。
「紅蓮」
「……何だ」
呼ばれて、思わず返答していた。
もう、返事をする義理も理由もないというのに。
「さようなら、九条恭而くん。君の名は僕が持って行くよ」
今際の際だというのにしっかりとした言葉を綴った主は、最期にこう言い残して。
その瞼を閉じ、生命としての活動を停止した。
イキモノというのは脆弱だ。これほど簡単に活動を休止してしまう。主に内在していた仙が、凶人を通してオレに流れ込んできた。
主はまだ余力を残していた。
もしかすると、オレを葬るのは容易だったのかもしれない。
首筋に手を当て、ようやく傷が塞がったことを確認した。
この場所はもはや一面血の海。
その中にオレは一人佇んで、主の亡骸を見下ろしていた。
この世界に到着した時に似ている。
あの時は、腹をナイフで刺され、血溜まりの中で首のない死体を何の感慨もなく見下ろしていた。
しかしオレは今、主の亡骸を見下ろしながら、心の奥底から湧き上がる何かに支配されている。
主の事が分からなかった。分からないから執着し、狂おしいほどに憎かった。
でも、分からなかった? 本当に?
違うだろう。
分からなかったんじゃない。近すぎて見えなかっただけだ。
――ああ、そうか。
妙に納得した。
オレはまるで恋でもするように、真直ぐ主を追い求めた。ほかに目もくれず、ただ殺戮のみを欲した。
その根底にあったのは、きっと同族嫌悪だ。
好きなモノをうまく扱えない、と言った主はきっと、オレと同じように執着していた。
執着を憎しみととるか愛情ととるかは紙一重だ。オレが里桜を愛し、主を憎んだように。
己の根底に流れる執着は、オレも主も、殺戮となって具現化した。
主はそれに応え、オレの魂を絶つ気で――
「……そうか」
ふいにはまり込んだピースは、オレの涙腺を刺激した。
透明な雫が真紅の目から零れ墜ち、静かに頬を伝って、床に落ちた。
緋檻に来てから初めて流す――涙だった。
分かってしまった。オレが、前の主を理解できなかった理由が。
そんな事、分かりたくもなかった。
不穏な妄想を斬るように、オレは凶人を一振りした。
「誰かオレを殺しに来い。そう簡単に殺されてやりはしないがな……!」
オレの咆哮は、刻鍵『凶人』の唸りと共に、緋檻中を駆け巡った。
ずっと羽織っていたはずの上着もなく、常に携えていた蓮華も既に手の内になかった。
鷹爪と鷲牙の姿もない。
これまで持っていた何もかもが、オレの手元になかった。
代わりに手にした、しっくりと馴染む大鎌を軽く一振りした。
コレを手にした瞬間から、オレはすべてを理解していた。
契約の仕方も、戦の手順も、仙を配下に与える術も、刻鍵で大地を潤す方法も。
その日から、オレは凶人の主となった。
主の事が分からなくて当然だ。
何しろアイツの本質は、オレと近似するモノだったのだから。
何よりも分からないのは自分自身だ、と言ったのは、懐かしい珀葵の作家だったか……そんな事、思い出したくもない。そして、近縁種は反発しあうと言ったのも、きっと同じ作者だろう。
モノに執着する態度も、扱い方も、心根も、そしてもしかすると、最後の願望さえも。
似ているからこそ憎む。
その本質は、殺戮を媒体として具現化した。
だからと言って後悔はないけれど、すべてがすっきりと消えたわけではない。
勝負には勝ったというのに、負けた気になるのは、きっと今、オレの心の奥に潜んでいた澱のような殺戮願望が、あの時、凶人の刃を受けて流れ出てしまったからだと思いたかった。
凶人が戦慄いていた。
前の主を追悼してか、それともオレを歓迎しているのか。
それとも単純に血を欲して啼いているだけなのか。
きっとそれも、オレには一生かかったって分からない事なのだろう。
オレはずっと欲していたモノを手にしたというのに、一縷の満足感も得られない事が、ただ、ほんの少しだけ苛立たしかった。




