CASE 03 伊折飛々樹 SECT.3 選択
最初に空間が歪んだ。
コージと並んで見ていた青空の一角がぐにゃりと歪み、唐突に肌がぴりりと弾ける。
何か来る。
敵意とは違う何かがボクの全身に覆いかぶさってきて、ボクとコージを閉じ込めた。
これまで感じた事のない、肌が泡立つような感覚に、思わずコージを後ろに庇っていた。
「気をつけろ、コージ」
校庭から聞こえていた音が消え、風が止み、光が停止した。
これから何が起きようとしている?
何が来てもいいように全身の神経を研ぎ澄まし、隅々まで気を配る。
歪みから何かがやってくる。
珀葵にはない何か。
姿より先に、声が入り込んできた。
「まただぜ。最近、邪魔モノが入り込みすぎだろう?」
少女の声に似合わぬ乱暴な口調が妙に印象的だった。
ゆっくりと歪んだ空間から声の主が姿を現した。
大きな白い帽子がにゅっと飛び出した。そこから徐々に、声に似合う10歳ほどの少女の体が出てくる。右半身は長い金髪と翡翠色の目、左半身は長い銀髪と深紅の目。
まるで右半分と左半分で別々の人間をくっつけたような印象を受ける少女に、ボクは最上級の警戒を示した。
ところが、少女はそんなボクを無視して、先ほどとは全く違った口調で後ろのコージに笑いかけた。
「こんにちは、高堂虎司さん。私、朱鷺ヶ谷叉姫と申します」
優しげな微笑みを湛えた少女は、手にした本をぱたん、と閉じた。
「貴方をこの世界から排除するためにやってきました……テメェを導く、死神だ」
一瞬、先ほどの口調が見え隠れした。
左半身に巣くう、銀髪赤目の人格。
「排除、というと、俺はここにいるべきでないという事なのかな」
「その通りです。貴方はこの珀葵における『異物』と判断されました。珀葵において重大な被害を及ぼす可能性のある不適合因子として、この世界から排除する事が決定しました」
「それは俺を殺すという事?」
「そうとも言えますが、そうでないとも言えます」
少女はにこりと笑った。
「どういう事だよ、ふざけんな。コージを殺すとか言ったら、ボクがオマエをぶっ殺すからな!」
ボクがそう言うと、叉姫と名乗った少女は口が裂けるような笑いへと、表情をがらりと変えた。
「テメェは黙ってな、部外者。テメェごときが俺に敵うとでも本気で思ってんのか?」
とても幼い少女が口にする言葉ではなかった。
「……っ!」
ぞわり、と背筋を恐怖がかけ抜けた。
違う。
見た目は少女だが、この中身は少女などではない。
何人もの人間と敵として相対してきたボクにはすぐに分かった。この少女の中に巣くうのは、獣どころではない。
人外だ。
次の瞬間にはふっと先ほどの笑顔に戻った少女は、ボクから視線を外してコージに笑いかけた。
「私は高堂虎司さんに選択肢を与えるために来たのです」
「いったい俺に何を選ばせてくれるんだ?」
普通に返答したコージに、ボクは慌てた。
この人外の言葉にの何を聞こうというのだろう。
「やめろよ、コージ。なんか変だろ、コイツ! 絶対殺されるって!」
「落ち着け、飛々樹。今聞いただろう? こいつは俺に選ばせに来ただけなんだ。死ぬかどうか決めるのは俺自身だ」
「だからっ……!」
「少しだけ静かにしていてくれ、飛々樹……大丈夫だから」
コージに言われて、ボクはしぶしぶその場を退いた。
叉姫は、ぱちん、と指を鳴らした。
その瞬間、目の前に大剣が落ちてきて屋上の床に深く刺さった。
「高堂虎司さん、貴方には二つの選択肢があります。一つ目は、終焉」
「死ぬ、という事だな」
「そうです。そしてもう一つは、混沌」
「混沌とはなんだ?」
コージは冷静に尋ねた。
少女は、突如裂けるような笑みになり、コージの眼前に詰め寄った。
「混沌ってのはなぁ、テメェがずっと望んでた世界だよ! こんなぬるい珀葵とは違う、自分の力だけを頼りに生きていく世界の事さ!」
「なるほど、お前はその世界へ誘う死神というわけか」
コージは納得したように頷いた。
「で? このでかい剣は何だ?」
「これは『刻鍵』と呼ばれるものです。これを手にすれば、貴方はこれから向かう世界のすべてを理解するでしょう……さあ、どうする? 終焉か混沌か、さっさと選びやがれ」
コージは一度、叉姫を見て、目の前に刺さった剣を見て、あごに手を当てて考え込んだ。
叉姫は自分の身長とほとんど変わらない大剣の柄をぽんぽん、と叩いて笑う。
「コイツは『鋼皇』といって、これから行く世界でも階序一柱に君臨する絶対王だ。コイツに選ばれるテメェは、もはや狂ってるとしか思えねぇけどな」
それを聞いたコージは、唇の端で笑った。
「まるでアーサー王伝説だな」
そう言って、剣に手を伸ばした。
ボクはその有様を見ていることしかできなかった。
コージの言う通り、伝説の中でエクスカリバーを引き抜いた王のように、大剣の柄をしっかりと掴み、その剣を引き抜いた。
そしてその瞬間、場の空気が変わった。
コージを中心に、固まっていた空気の塊がぞわりと動き、凄まじい豪風となって襲いかかってきた。
「ああ……成程」
その中心にいるコージから、感嘆の声が漏れた。
「俺はこれが欲しかったんだな」
ふいに風が止んだ。
音も風もぴたりと停止した。
おそるおそる見たコージは、これまでと違っていた。
鈍く光を放つ大剣に彩られたのは、真っ青な髪。瞳も同じ青色で、まるで物語の中の勇者のように堂々と佇んでいた。
「ひゃはは、さすが刻鍵『鋼皇』の選んだ主だ。緋檻の絶対規則を知っても、臆する事もねぇか」
死神がけたたましい笑い声をあげる。
「おい、そこの邪魔モノ。貴様はどうする?」
いつしか、叉姫の真紅の瞳がボクを貫いた。
ボク? ボクはどうするって……?
「もし鋼皇の主となった高堂虎司さんが望めば、貴方は鋼皇の駒として共に緋檻へと堕ちる事になります……メンドくせえから、とっとと決めやがれ」
思考が麻痺している。なにも考える事が出来ない。
だって、コージは呼ばれて、此処とは違う世界に、見たこともない武器を持って、死神にいざなわれて――
ボクは、どうしたらいい――?
「飛々樹」
大剣を手にしたコージの蒼い瞳がボクを貫いた。
驚くほどに蒼い、珀葵の青空と同じ色だった。
ボクに向かって手を伸ばして。
「来い」
ぞわり、と全身の血が逆流した。
全身が震えていた。
武者震いだった。
ボクはコージの蒼い目をまっすぐに見つめ返した。
「いいぜ、どこまでもついていってやる」
その瞬間、ボクはコージと共に緋檻へと堕ちた。
「飛々樹さん、聞いてます?」
ぼんやりと過去を思い出していたボクは、呼ばれてはっとした。
「あ、すまん、全然聞いてなかった。なんだって?」
「いま城からの遣いが来て、雅心さんが飛々樹さんの事を探してたそうですよ。すぐに戻ってください」
「んー、ガシンの話はいっつもロクなもんじゃねえからなあ」
「そんなこと言わずに戻ってくださいよ」
「へいへい」
仕方がない。
ボクは棍をくるりと収め、城への道を歩き出した。