CASE 02 清玄寺沙羅 SECT.4 再会
戦場の匂いは、やはり好きにはなれなかった。
目の前に広がる戦場に、凶人軍と月髪軍が相まみえた。先日引き分けたばかりのひと組が、間をおかずに対峙している。
双方の駒は総替わりしているはずだった。
こちらは叶を含めた駒すべて、敵方もすべての駒を失っているはずだった。
「さあ、行きなさい」
月髪に駒のすべてを絡め、傀儡の月髪軍が降臨した。
迎え撃つのは、殺戮集団の凶人軍。
前回と同じ先方で、私は一人ずつ凶人の駒を潰していった。
個々の戦闘能力は高くとも、集団でかかれば脆いものだ。
「おかしいわ」
なんの面白みもない、前回と同じ展開の物語が待っていた。
「飛々樹の言っていた駒がいないわ」
鷹爪、鷲牙、紅蓮。
飛々樹が最厄、最強と称した駒たちが見当たらない。
あの飛々樹が強い、と言ったのだ。これほど簡単に倒せる相手のはずがない。
敵の主は動かない。
「……おかしいわ」
このままでは、月髪軍が勝利してしまう。
胸がざわつく。
凶人の主は遠く、視認することは出来なかった。
この戦場にいるはずなのに。
焦りが募る。
ぴりり、と指先に振動が伝わる。こちらの軍勢も確実に減っているが、それ以上にマガツビトの軍勢が数を減らしている。
それでも、凶人の主は動かない。
「最後の一人」
残りの駒で凶人軍最後の一人を包囲する。
猛り狂った叫びが戦場を駆け抜け、凶人軍の駒は全滅した。
残るのは凶人の主だけ。
気が焦る。
あの人は、いったいどうして動かないの?
「こんな駒たち、一瞬で蹴散らせるでしょうに」
私は椅子から立ち上がった。
駒たちに絡めた月髪を解いた。さすがに凶人軍の駒は強く、月髪を解けばほとんどの駒が瀕死の状態だろう。放っておけば勝手に命を落とすのはすぐに分かった。
私は戦場を歩き始めた。
凶人の主がいる方向に向かって、一歩ずつ。
戦場には多くの死体が転がっていた。
全身がはじけ飛ぶまで戦い続けた月髪の駒、周囲を多数の月髪軍に囲まれ壮絶な戦死を遂げた凶人の駒。
むせ返るような血の匂いが充満するその場所は、死の気配に満ち満ちていた。
こつり、こつりと靴音を響かせて、私は真っ直ぐに戦場を歩いて行った。
落ちている死体や四肢の欠片、武器を避けながら。
ようやく凶人の主のもとへとたどり着いた。
「こうして君に会うのは二度目ですね、月髪の姫様」
前回と変わらない、柔らかな微笑みと優しい声で迎えてくれた戒離は、とん、と椅子から降りて跪いた。
「お待ちしておりました」
「こんにちは、戒離。会えて嬉しいわ」
足元には兵の遺体が転がっている。
むせかえるような血の匂いは、戒離の姿を見たときから気にならなくなっていた。
「会いたかったわ、戒離。この間からずっと貴方の事ばかり考えていたのよ」
「それは光栄です」
戒離は唇の端で微笑んだ。
殺戮願望を秘めた凶人の主でありながら、それを微塵も感じさせない物腰で。
戒離が立ち上がると、深紅の瞳は見上げる位置にあった。
「ヨウソウもシュウガもグレンもいなかったのね。私、彼らが見てみたかったのに」
「もし彼らのうちの一人でもここにいれば、今頃貴方はここに立ってはいませんよ」
「強いのね」
「ええ、とても」
戒離は嬉しそうに微笑んだ。
「彼らは強いですよ。今も、凄まじい勢いで成長している」
高揚した様子で、戒離は嬉々と告げた。
「ヨウソウは、シュウガは、グレンはどんな姿をしているの?」
「鷹爪と鷲牙はとてもよく似ています。典型的な猛禽型の有翼人です。鏡にうつしたようにそっくりです。見分けるときは、そうですね、鷹爪は金目ですが、鷲牙は銀目です。意思疎通に特別な手段がいらないのでしょう、二人合わせて二人分以上の攻撃を仕掛けてきますよ」
「猛禽型の有翼人なんて、見たことないわ」
そう言うと、戒離はくすくすと笑った。
「月髪にはいないでしょうね」
私のよく知る有翼人は、ヒナタのように愛らしい容姿をした者たちばかりだ。
猛禽型は完全な戦闘タイプで、強い者になると鬼にも負けぬ怪力を持つようになるという噂だけは知っていたが、実際に見た事はなかった。
「グレンは? どんな人なの?」
「紅蓮はまだ若いですよ。おそらく、貴方よりもさらに年下でしょう。僕と同じ赤い目をした少年です」
「グレンは人間?」
「ええ。僕や貴方と同じ、人間です」
「人間なのに強いの? エルフじゃなくて?」
「そうです。最も神に近い姿をしていると言われる、『人間』という種族です」
グレンの話をする戒離はとても楽しそうだった。
「グレンの中には、いつも満たされない何かがある。本当に欲しいものを手に入れる事の出来ないことからくる渇望です。それはきっと、彼を誰より強くする」
「さっき戒離、貴方とグレンはよく似ていると言ったわ。貴方も、充たされていないの? 本当に欲しいものを手に入れる事が出来ていないの?」
「それは」
戒離は驚いた顔をした。
「分かりませんが、きっと、充たされているなら緋檻へは来ませんでしたよ」
その答えに、私は妙に納得した。
充たされる。充たされない。欠落、渇望、欲求、不安、願望。
どこか哲学的な問答の後、私はぽつりとつぶやいた。
「……戒離は、紅蓮の事をとても気に入っているのね」
「ええ、そうです」
嬉しそうに返答した戒離を見て、自分の心の奥底に沈んだ戒離への想いが一瞬だけ燃え上って、心の端をちりりと焦がした感覚があった。
すべてを支配する月髪――それを手にしてから久しく忘れていた嫉妬の感覚だった。
嫉妬? 見たこともない紅蓮に?
「そして、僕は貴方の事もとても気に入っています」
これまでの柔らかな雰囲気が一瞬にしてけし飛び、隠していた狂気が露わになる。
背筋を快感にも似た恐怖が駆けあがった。
「さあ、如何しましょうか? 再び僕に戦を望んでくれた、というのは、僕に殺されてもいいと思ったから、と解釈してもいいのでしょうか」
次の瞬間には、細い指が喉元に突き付けられていた。
冷たい感触。
ほんの少しでも動かせば、皮を突き破ってしまうであろう鋭い感覚。
「そうなのかしら?」
自分でもわからなかった。
確かに、戒離に命を奪われるかもしれないと思った時、これまで感じた事のないくらいの歓喜が胸の内を占めたのは事実だった。
「分からないの」
その感情がいったい何なのか、知る術はなかった。
死にたいか、死にたくないか。
殺されたいか、殺されたくないか。
その問いに答える事は出来なかった。
「今、私がここにいるのは貴方に会いたかったからよ」
「……貴方はすべての男性を虜にする容姿を持ちながら、すべてを支配する月髪の主でありながら、まるで無垢な少女のような事を言う」
喉元にあった指がするりと首筋をなぞり、あごのラインを撫でていく。
冷たい指の感触が心地よかった。
「不思議な人ですね」
戒離の深紅の瞳に吸い込まれそうになった。
「貴方の方が不思議だわ」
「それはどういう意味ですか、姫様」
細い指は私の髪を一房絡め、戒離はそのまま髪に口づけた。
妖艶な仕草に、心臓がぎゅっと掴まれるような感覚を受けた。
「どうして……」
心臓の拍動が速い。
何かに惹かれるように戒離に向かって手を伸ばし、美しい顔に触れようとした。
その時だった。
「沙羅様!」
背後から呼ばれてはっとした。
振り向けば、生き残った月髪軍の駒が銃を構え、戒離を狙っている。全身に裂傷が刻まれ、おびただしい量の血が流れ出している。もう長くないのはすぐに分かった。
が、口を開こうとした私を止め、戒離は私を庇うように一歩、踏み出した。まるで銃口に自らの身を差し出すように。
先ほどまで収めていた大鎌をふわりと揺らして。
凶人の主は裂けるように笑った。
「僕に銃口を向ける事がどういう事か分かっているはずです」
「沙羅様から離れろ!」
忠実な月髪の駒は、私が凶人の主に殺されようとしているように見えたらしい。
その勇気は称賛に値するが、無謀としか言いようがなかった。
なにしろ彼は、凶人の主。
瞬きするほどの間に駒との距離を詰めた。
「……っ」
駒が声を発する暇も与えず。
戒離が手にした凶人は、寸分の狂いもなく最後に残っていた駒の首を跳ね飛ばした。
ゆっくりと戒離がこちらへ戻ってきた。
戒離の瞳はとても近くにあった。
殺戮の狂気と深い悲哀を同居させた不思議な瞳。
私は釘づけになっていた。
「そのまま死ぬことも、目を覚ます事もなければよかったのに」
それはどういう意味だろう。
殺す事がなかったから、ということだろうか?
しかし、戒離が殺戮をためらうはずもない。
「これでどちらの軍も全滅です。勝負は引き分け、もう、お別れですね」
その言葉を聞いてはっとする。
もしかして、戒離はわざとあの死に損ないを見逃していた?
私と少しでも長く一緒にいるため?
戒離と私は戦場でしか会えないから。もし、どちらの駒もすべて全滅してしまったら強制的に戦場から排除されるから。
「戒離、もしかして」
彼はその問いを最後まで聞いてくれなかった。
戦は引き分け。
終わりを告げる鬨の声が響きわたる。
「戒離」
景色が霞む。
思わず、彼に向かって手を伸ばした。
戒離も一歩、私に近寄って、細い指を私に向けた。
けれども、触れる直前、彼の指は、彼の姿は消えてしまった。