CASE 01 九条恭而 epilogue
「……お兄ちゃん?」
九条里桜は、ふっと口をついて出た言葉に驚いた。
「ヘンなの……あたし、お兄ちゃんなんていないのに」
かわいらしく首を傾げると、赤いフレームの眼鏡をくっと押し上げ。
「こんなに気が抜けてちゃ、生徒会副会長失格だよ、里桜!」
自らに気合いを入れるように、再び書類に視線を落とした。
その首には、小さなボタンをトップにしたペンダントがかかっている。薄汚れていて校章がかろうじて判別できる程度だが、どうやら里桜の通う頼成高校のもののようだった。
窓の外には明るい青空が広がり、天を支える支持塔が聳え立っている。
珀葵の時は狂わない。
珀葵の平和も狂わない。
義に反す想いは残らない。
大地は動かず、天が巡る。
とても、とても平和な世界。
「……里桜」
真紅に染まった空を見上げ、ふっと口をついて出た言葉に思わず失笑した。
何だ、今のは……『凶人』の主らしくもない。
「何事だ、主サマ」
「何事であるか、主サマ」
「五月蠅い。捨て置け」
とうに捨ててきた世界のはずなのに、郷愁の心とやらが残っていたのだろうか。そして、軍師としての初出陣を前に唐突に奥底から浮かび上がってきたとでも言うのだろうか……いや、そんなモノは殺意を抱いたあの瞬間にすべて失った筈だ。
まさか彼女の住む世界の業を担うために戦っているとは言わないが。
選び抜いた軍を率い、もはや鬨の声が上がらんとする戦場が目の前に広がっている。
迎え撃つは『月髪』――支配の軍勢。
月髪の主は、つい先日、自らの刻鍵に喰われて交代したばかりだと聞いた。所詮、魅力を武器にするなど脆弱な証。『凶人』と『月髪』が二度も引き分けたのは、先代『凶人』の弱さに相違ない。
正面から力で持って叩き潰してやろう。
凶人が主、紅蓮の名に懸けて。
ザワリ、と凶人が啼く。
血と殺戮を欲して啼く。
あと数刻で戦場は血に染まる。
「敵をどう見る? 鷹爪、鷲牙」
左右に控えるのはかつての戦友、しかし今は配下となった双戟だ。金眼と銀眼の猛禽、この二人の実力をよく知っているからこそ、敢えて自らの最も近く、右腕と左腕に配置した。
しかし、コイツらは今にもオレの命を狙ってくることだろう。
「どうもこうもない。歯向かうモノはすべて殺す」
「右に同じ。キサマもであるぞ、主サマ」
「左に同じ」
間髪いれず答えた二人に、思わず口元が緩む。
そう、難しく考えることなどない。
コイツらにむざむざ殺られはしない。戦で負ける事もない。真正面から、裏から、ありとあらゆる手を使い、奪って、奪って、奪い尽くしてやる。
何しろここは緋檻。珀葵が平和で充たされる限り、戦で充たされる業深き場所。
強奪し、支配し、破壊し、恐怖させ、殺戮せよ。
すべてを求めよ。
欲深く、人らしき人として生きるのだ。
戦って、闘って、鬨って、奪い尽くせ。
鬨の声が上がる。
遠く、戦の音がする。
ここは緋檻、すべての業が渦巻く場所――
九条恭而編はここで終わりです。
次回からは、「CASE 02 清玄寺沙羅」になります。