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大石内蔵助の思惑

作者: おがわ みつる


 播磨の国、赤穂藩で筆頭家老の大石内蔵助は京都の山科の自宅で、一人静かに物思いに耽っていた。


 部屋から障子を開け縁側に出て空を見上げれば、それはどんよりと曇っており、まるで今の自分の心のようにさえなかった。思い返せば、今年は元禄になってはや十四年になり、すでに半年が過ぎていた。


 主君の浅野内匠頭様が、江戸城中で刃傷に及んだのが今年の三月十四日だった。

 その事が全てを狂わせたのである。


 殿は勿論のこと、自分も他の家来さえも、このことを誰が予想しただろうか。これで全てが変わり、全ての普通の幸せが脆くも崩れ去った。

 刃傷の結果、殿は即日の切腹、お家断絶、赤穂城の明け渡し、そして領地没収という処罰の厳しさだった。


 このときの処理は、目まぐるしい時間の中で粛々と行われたのである。

 城の明け渡しの時、全ての槍や弓、武具などの一切の戦闘道具を整理し、目付・代官立会いのもと、武装した受城使の龍野藩主・脇坂安照殿及び足守藩主・木下公定殿に明け渡したのである。


 このときの使者から、心ならずもお褒めの言葉をいただいた。

「これぞ武士の誉れである」と……。

 その言葉の本当の意味を思うとき、その無念さに心の中で泣いた。


 しかし、その相手の吉良上野介にはなんのお咎めもなく、将軍から労いの言葉さえ貰っている。

この不条理をどう理解すればいいのか?


 あの事件が……松の廊下で起きた刃傷事件が全てを狂わせたのである。

 そうなった原因は何か?

 内匠頭様の短気がそうさせたのか?


 確かに、殿は優しいが気が短い、こうと言ったら、そのとおりにしないと気が済まない一本気なところもある。


 その短気が、高家吉良上野介の、度重なる嫌がらせに腹を立てたのか?

 あの大事な勅使饗応役のお役目の最中に刃傷に及んだのには、それなりの理由があるはずなのだが、未だにその真相は分からない。


 しかし殿が「この間の遺恨、覚えたか!」と言って吉良に斬りつけ、吉良の肩から背にかけて浅く切り裂き、烏帽子の上から更に一太刀を額に傷つけたことは聞き及んでいる。だが、それ以外には何一つ情報は漏れてこなかった。


 供回りの者達の気配りが欠如していたのか?

 今、悔やまれてならないのは、

(もし、自分が殿に付いていればこのようなことには……)と悔やまれるばかりである。

(何故に?)等などと思えば思うほど内蔵助の頭は混乱し、その心を沈めるのが用意ではなかった。


 あの頃……

 次々と江戸からの知らせは己の元に届いた。

 その内容は日増しに我が藩にとって不利なことばかりだった。


 藩の取り潰しや、お家断絶の噂など……。

 それを聞くたびに胸が張り裂けそうになるのだった。

 あの時、自分さえ殿の傍にいれば、このようなことには、もっと上手い対処の方法があったろうに、と。


 それを言ってももう遅い、ことは過ぎてしまった。

 取り返しの出来ないことに。

 あの事件のとき、幕府は相手の上野介を罰せず、我が殿だけが罰せられ、即日の切腹となった。

喧嘩両成敗というあの王道はどこへ行ってしまったのか。

 世の見せつけのためか、懲らしめのためか。


 その成敗について、自分は到底納得できず、合点がゆかないが、今となってはそれを言っても始まらない。

お咎めは下ってしまった。


 殿が三十四歳という若さで短い生涯を閉じられたそのご無念を思うとき、胸が張り裂けそうになるのである。今はただ、亡き殿のご冥福をお祈りするしかない。


 桜の花と共に散ったその生涯、なんとご無念であろうか。

 そのとき詠んだ辞世の句がある。


「風さそう花よりもなお我はまた 春のなごりをいかにとかせん」


 その句を思いだすとき、内蔵助はいつも涙が頬を伝わるのであった。

 早速、籐左右衛門、萱野三平の両名が江戸よりの使者の伝言を聞いたとき、初め驚き狼狽したのも事実である。

 しかし、直ぐに気を取り直さずにはいられなかった。

 家老職という、自分の立場を冷静に考え行動しなければならないからである。


 あの時、自分は今、何をすべきかと言うことを、瞬時に考えなければならなかった。


この事実を皆が知ったときの動揺を抑え、沈着に行動しなければならない。そして、この難局をどう乗りきるかということ、そればかりを考えていたのである。


 殿は働き盛りの御歳であり、今が一番の時だった。

 いつも優しく、政にも熱心だった、赤穂で採れる潮も好評で評判が良く、藩の財政に一役買っていたのである。総じて、財政的にも安定していた。


 眼を閉じれば、殿の清々しいお顔が瞼に焼き付く内蔵助だった。

 もし、このまま何もなければ、赤穂は相変わらず平和の中を謳歌していたことだろうに、と思うのである。


 自分も「昼行灯」と言われ、そんな余生を送るはずだった。しかし、その自分の肩に重くのし掛かる事態が生じたのである。このときこそ藩の存亡が掛かっていると思うと身震いするほど、胸が苦しく切なくなってくるのだった。


 淺野家再興に向けて、幕府に対し、内匠頭様の弟君の大学様のお取り次ぎも却下された今となってはすることは、だだ一つだった。

 それは殿の無念を晴らすこと、吉良の首を討ち取ることのみである。


 しかし、焦ってはならない。

 この事態の時、いつ吉良の間者が忍び寄り、謀反の動向を探ってくるかもしれない。

己の心づもりは妻のりくと息子の主税には告げてあり、この後、自分が何をすべきか、これから藩を仕切る家老として、どう行動するかということの本心は告げてある。

 後は、いつからその行動を具体的に実行するかと言うことである。

 その為の計画は既に進めている。


 しかし、内密に調べたところによれば、上野介はかの国では名君だという。

 その真意は確かではないが、満更でもなかろうに……。


 領民には名君でも、果たしてそれだけで言えるのだろうか?

 たまたま、綱吉に信頼され高家の筆頭を任された義央が重宝されただけではないか。

 それは、虎の威を借る狐のように、権勢を持つ者に頼って威張る小者ではないか……。

 多くの同士の命まで懸けて討ち取るべき相手だろうか等々、考えれば考えるほど、内蔵助の頭の中では様々なる思惑が交錯していた



 そう思いながら煙草を吸い、庭先を眺めれば、どこから来たのか珍しい鳥が木に留まり長閑にさえずっている。

(何も知らずにお前はいいなあ……)と、心の中で呟き苦笑する内蔵助だった。


 しかし、自分は相手の吉良を成敗しなくてはならない。

 その道のりは険しく容易ではないが、着実にそれを実行しなければならない。

 吉良の首を切り落とし、それを殿の墓前へ供えなければならない。


 それは、男としてこの時代に生まれ、武士という身分に生きてきた生き様でも或る。

 しかし、本心ではそんなことはしたくなかった。出来れば避けたい逃げ出したい、という気持ちが本音である。

だが、それは口が裂けても云えない。

 そうすることが、自分に課せられた運命だと思うからである。


 仇討ちにどれだけの価値があるというのか。

 どれだけの値打ちがあるというのか。しかし、そう思いながらもそれを遂行しなければならない。

それが、家老職という己の義務だからである。


 あれほど居た藩士も去っていき、残ったのは四十七名になった。

(しかし、これで良い、これで良いのだ……)

 去る者は追わず、強い心の同志がいれば良い。



 その流れの中で、

 曲輪で戯れ、花魁との情事も、そんな動きを悟られない為であり、謀反などと言うことを計画していないという戯れ事だった。しかし、その刹那で女を抱き、戯れたのは本心だった。このまま女に溺れ全てを忘れることが出来たなら、どんなに良かったことか。

 幾度、そう思ったことか……。

 しかし、そんな時でも、忘れることが出来ない思い、無念。

 それを知らない者達はおのれを嘲笑っていた。

 しかし、今に分かる、我らの志の高いことを。


 この安穏とした時代だからこそ、世の中に警鐘を鳴らせなければならない。

(武士の生き様を……)

 この時代に、徳川幕府に一徹を与えなければならない。

 腐ったこの世の中に、武士たる者の正道を世に知らしめなければならない。


 この四十七名の同志達の命に代えて、私はこの道を貫かねばならない。

 大石内蔵助は改めて、そう思うのだった。


 そのとき、部屋の中から妻のりくが内蔵助に声を掛けた。

「あなた、熱いお茶が入りましたよ、召し上がれ」

「おおそうか、ご苦労だったな」

 このところ、髪の毛の白いのが目立ってきた夫の後ろ姿を見つめながら、妻は思っていた。


(このさきに、様々なことが起きるのでしょうが、でも、旦那様のご本懐がつつがなく遂げられますように……)


 そう、思わずにはいられない妻のりくだった。

 いつしか、自分の頬に熱い涙が伝わるのを袖でそっと拭っていた。

 その時、りくはさり気なく夫の内蔵助の言う言葉を聞いた。


「なあ、りくや……お前のお腹も大きくなってきたし、来年の桜が咲き始める頃、子供達を連れて実家の豊岡に帰って養生するが良い、その後、ずっとそこで暮らすことになるかもしれぬが……」

「はい、旦那様、もしものときにはそのようにいたします」

「うむ……」


 このさき、別れることになる運命が二人を待っていた。

 しかし、後の言葉を交わさなくても、理解し合える仲の良い夫婦がそこにいた。

 どんよりと空に掛かっていた雲がゆったりと流れ始めると、次第に空は輝きはじめ、やがて暖かな日差しが畳の上に差し込んできた。


 そこで大石内蔵助・良雄は手を大きく上に上げ、伸びをした。


                

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