~蛙の恋人を愛せる自信がありますか~
君は蛙化現象を知っているかい。有体に言ってしまうと、恋は片思いの時が一番楽しく、いざ相手から好意を寄せられると急速に相手から興味を失い、嫌悪感を抱く現象のことだ。由来は童話からで、なんていう話は気になったら調べておくれ。君のように若くて将来有望な者の知識欲を刺激することも、年長者の務めだからね。
ところで、君の相談事とはいったい何だったかな。
フェリミナ大学の本館から追いやられるように遠く離れた西館の一室、書庫兼研究室でフォルト教授が悠然と構えながら話す。黒い革張りの一人用ソファーに深く腰掛けていた教授は、本やら書類やらが所狭しと置かれているテーブルに身を乗り出し、隅に追いやられていたベルを手に取り、おもむろに振りだした。金属同士がぶつかり合い、澄み切った高音が空気を震わせ、部屋中に積み上げられた本と本の間隙を縫うように響き渡る。
相談のために教授を訪ね、既に一時間以上が経過しているにも関わらず、一向に本題に入ろうとしない教授を責めるように少女が不満げに口を開いた。
「フォルト教授、私は相談があってここまで訪ねました。それなのに教授はくだらない話ばっかり。私、教授のおしゃべりに付き合うために来たわけではないんですよ」
「おや、すまないね。しかし、この蛙化現象の話はきっと君に関係するはずだよ。君も、あの噂を耳にしたから相談相手に私を選んだのだろう?」
恋人や親友ではなく、ね。穏やかながらもやけに確証を持った様子で、フォルト教授はそう続ける。図星を指されたのか、少女はうつむいて黙り込みそれっきり黙ってしまった。
フォルト教授が言うあの噂とは、十中八九「面倒なことや困ったことになったらフォルト教授が何とかしてくれる」というものだろう。フォルト教授は、人の心理は全て本に当てはめられるはずだと言って、国立図書館にも匹敵するほどに本を所持している。そんな彼にとって、他人からの相談事は本にこそ記されてはいないものの、生身の物語である。だからこそ、金銭のやり取りもせず、相談に乗ったり、時には事件解決にも手を貸したりするのだ。
「あー!フェルト教授、まぁた相談者さんを困らせましたね?そんな性格だからこんな陰気くさい所に追いやられるんです。いい加減その面倒な性格を矯正してくれませんかね。教授はその性格に付き合ってる僕に感謝するべきですよ」
本に隠れて見えなかった奥の部屋から、湯気が立っているカップをトレーに三つ乗せた年若い青年が出てきた。茶色の猫っ毛をした童顔の青年の口から飛び出した中々に辛辣な言葉に、少女が驚いたように顔をあげる。
「リオ、何度も言っているが私の名前はフォルトだ。それに困らせてなんかいないさ。彼女の相談内容に関わることだから話しただけだよ。感謝するも何も、君のその性格も問題だと思うがね。ベルで呼んでもちっとも来ないし」
「ふん。僕の名前を全部言えるようになったらフォルト教授って呼びますよ、言えるようになったらね。相談内容と何が関係しているのかを説明していないから、彼女が困ってるんでしょう?お客さんにお茶もお出ししていない教授にだけは文句を言われたくないですね」
「私だって君のフルネームぐらい言えるさ。リオ、リ、リベル…いや、私が悪かった、どうか許しておくれ」
「分かればいいんです。何度でも名乗ればいい話ですしね。僕の名前はリンクハルト・オリマー・トマス・リリアーノですよ、フェルト教授」
フォルト教授とリオがくだらないことで言い争っている間もリオの手は動き続け、瞬く間に乱雑な机の上が片付き、紅茶が二杯置かれた。
小気味よく交わされる会話についていけない少女が戸惑ったようにリオに顔を向けると、リオは大丈夫だとでもいうように笑い、二人に倣って椅子に座る。フォルト教授が熱いカップを手に持ち、恨みがましい目で見つめて来ても知らんぷりだ。相手にされないと分かった教授は、諦めてカップの中の紅茶に息を吹きかけ始めた。
「ええと、お見苦しいところをお見せしました。改めて、僕はリンクハルト・オリマー・トマス・リリアーノです。一応、フェルト教授の助手をしています。長いのでどうぞ気軽にリオ、と呼んでください」
「私はディナ・サラブレードです。あの、本当に私、困っているんです。友達に相談しても恥ずかしがってるだけだって言われて。でも、絶対そうじゃないんです。あの人の目が、私を見る目が怖くって、」
「落ち着いてください、サラブレードさん。大丈夫ですよ、分かっていますから。フェルト教授は面倒な性格をしていますけど、こういった相談事は得意なんです。紅茶はお好きですか?自信作なので、良かったら飲んでみてください」
緊張の糸が切れたように、饒舌に話し始めたディナの目は微かに潤んでんでいる。ようやく相談事の本題に入れると思ったのだろう。柔らかな笑みを浮かべたリオが纏う雰囲気と、風味豊かな温かい紅茶がディナの不安を軽くさせていた。
フォルト教授はそんな二人を横目に、未だ紅茶に息を吹きかけていた。二人の会話の途中で数回口をつけようと挑戦してはいたものの、成功には至らなかったようだ。カップを持ち続け、疲れてきたのかソーサーに戻したのを見計らって、リオが氷を一つ、二つと入れる。じんわりと溶け出していく冷たい水を馴染ませるようにクルリとスプーンでひと回ししてからリオはどうぞ、と教授に紅茶を勧めた。
「氷を入れることを考えて濃い目に淹れるくらいなら、初めから私でも飲める温度で淹れてくれると嬉しいんだけどね」
ありがとう、と言ってから紅茶を口に含んだ教授が呟く。氷のおかげで冷めてはいても少し熱かったようで、眉間に小さくしわを刻みながら教授は続ける。
「相談内容は確か、恋人が君を恐ろしい目で見つめてくる、だったかな?」
「はい。言葉で脅されるとか暴力を振るわれるとかはないんですけど、汚物を見る目だったり睨まれたりはしょっちゅうあるんです。彼の私を見つめる優しい目が好きでした。でも今は彼が恐くて、目を合わせるどころか一緒にいることが嫌になってしまって。私は彼のことが好きです、大好きです。それなのに、彼を怖がる自分が何よりも許せなくて、」
私はどうすればいいんでしょう。リオのおかげで不安が軽減されても、話していくうちにまた不安が募っていったのだろう。ディナはまくしたてるように言葉を紡ぐも、徐々にその声は小さくなり、ついには消え入るほどの声で問うた。
リオが部屋に入って来たとき同様、再びうつむいてしまったディナの小さな手に持たれた琥珀色の紅茶に不安げな顔が映り、揺らめいている。
フォルト教授とリオはちらりと互いに見つめ合い、軽く頷くと教授はカップをソーサーに戻して室内を歩き始めた。一方、リオはディナの肩に左手を置き、右手でカップを上から持ってソーサーの上に戻す。そして、気休めでしかないと知りつつ、慰めの言葉を口に出した。
「ディナさん、きっと今はあなたも恋人さんも心の整理がついていないだけですよ。こんなにも恋人さんのことを想っているあなたが自分を責める必要はありません」
でも、と納得しないディナにスッと本が差し出された。本の先を辿ると、いつの間に戻ってきていたのかフォルト教授が目を細めながらディナを見つめていた。リオが入ってくる前の射貫くような視線とは打って変わり、ぽわぽわとした、という言葉が似合いそうな雰囲気を纏っている。
「ディナくん、先ほども言ったが蛙化現象の話はきっと君に必要だ。童話がもとだとも言っただろう?気分転換もかねて読んでみないかい」
そう言いつつ教授はなおもディナに本を近づける。臙脂色の表紙に金の文字がよく映える意匠の絵本だ。
教授の圧に押されるように、礼を言いつつ絵本を受け取ったディナはパラりと紙ををめくり始めた。ディナが本を読み始めたことを確認した教授は、またソファーに腰を下ろし、足を組んでカップに手を伸ばした。リオもまた、傍に置いてあった本を手に取り、膝の上に広げて読み始める。
春の柔らかな陽気に包まれ、室内からは二人分の紙をめくる音だけが微かに聞こえる。時たま、鳥がさえずる歌や木々のざわめきがそこに混じる。穏やかに時が過ぎていった。