ゆうれいさんのお仕事
「マジっスか、先輩! 部屋が火事になったから、アパート追い出されたって!?」
佐伯涼音が突撃してきた時、結城玲児は事務所の机で、まかないの冷やし中華を啜っていた。
夏である。
バイト先の町工場の事務所は、暑がりな社長に合わせて、ガンガンに冷房が効いている。蒸し暑い作業場から入ると、一瞬で汗が引くほどの温度差だ。
そんな冷気をものともせず、涼音はずかずかと事務所に踏み込んで来た。ぐい、と玲児に寄せられた顔には「私、興奮してます!」と大書されている。
「あれっスか? ついにネタに困って、やっちゃったんスか? 自分で自分の部屋に火をつけるなんて、やるんなら私も呼んでくれないと!」
「人を放火犯みたいに言うんじゃねえよ。下の階の住人が、寝タバコでやらかいしただけだ。俺は、何もしてない」
そもそも呼ぶってなんだ、呼ぶって。
じと目を向ける玲児に、「ええー?」と露骨にがっかりした涼音は、
「私はてっきり、先輩がリアルでも、デジタルでも、炎上する姿が見られると思って楽しみにしてたんスよぉ?」
つまんないっス、と涼音はパイプ椅子に腰を落とした。その態度にイラっと来るが、我慢する。
こんなのでも社長の娘だ。無下に扱うわけにもいかない。
だらしなく足を組み、口先を尖らせる涼音を、玲児は半眼で見やった。
他の従業員がいる前では、いかにも優等生然としているくせに。玲児と二人きりになると、途端にこれだ。高校生になっても、まるきり子供である。
「ま、いいですよ。涼音ちゃんは優しいですからね。先輩がどれだけヘタレでも、許してあげちゃいます」
こいつ、と青筋を立てる玲児にかまわず、涼音はにんまり顔を向けてくる。「ねえねえ、センパ~イ」と猫なで声を出しながら、
「もったいぶらないで、早く見せてくださいよぉ。仕上がりは、どんな具合っスか?」
「あ? なにが?」
「動画ですよ、動画! 部屋が火事になったんでしょ? いくらミジンコ配信者の先輩でも、自宅が燃えるところを配信すれば、それなりに再生数が稼げて」
「撮ってねぇよ」
は? 涼音は、ぽかんと口を開けた。
「撮ってないって……正気ですか先輩!? 火事ですよ!? 江戸の華ですよ!? いくら先輩がプロカリオート配信者でも、これを撮影しないなんてありえないっス!」
「ひとを原核生物にたとえるんじゃねぇよ、さすがに怒るぞ」
真核生物の玲児は、三白眼をつり上げた。
大学に行くと決めた際、玲児は自分に二つの約束を課した。
一つ、学費はローンで払うこと。
一つ、生活費は自分で稼ぐこと。
幼い頃に母を亡くし、バス運転手の父親は、男手一つで自分たちを育ててくれた。二人の弟には、これからまだまだ金が掛かる。ただでさえ働き詰めの父親に、これ以上、負担を掛けるわけにはいかなかった。
受験に合格し、東京へと旅立った玲児は、ともかく生活費を切り詰めた。
家賃の安いアパートを探し、食事はスーパーの廃棄食品の横流し。風呂は赤ちゃんのお尻拭きを一日一枚と、まさに絵に描いたような貧乏学生ぶりである。
こちらでの生活にも慣れ、それなりに充実した毎日を送っていた玲児だが、上京から三年。諸々の事情により、急遽、金が必要となった。
バイトを増やせば学業に支障が出る。投資は怖いし、借金も論外だ。
知恵を絞った末、玲児の出した答は、動画サイトでの配信だった。
「元手も技術も必要ない。当たれば、タダで金が手に入る」
勇んでチャンネルを開設したのが、今年の春。それから三カ月に渡って配信を続けた結果、自分の考えがどれだけ安易だったか。玲児は思い知ることとなった。
「せっかくのチャンスを、ふいにするなんて。ほんと、先輩はダメダメっスねぇ」
スカートから伸びる足を揺らし、涼音は呆れ気味に言った。
「しょうがないだろ。自分の家が燃えたんだぞ? 動画を撮るなんて、そんな冷静な対応ができると思うか?」
「それをやってノけるのが、動画配信者ってモノっスよ」
訳知り顔で、涼音はのたまう。
万年欠食気味の玲児と違い、日々十分な食事と睡眠をとっている涼音の足は、むっちりと肉付きが良い。十代の肌は艶を帯び、夏の日差しを含んだ褐色と、スカートの裾から覗く白さのコントラストが、目に鮮やかだった。
「だいたい先輩の動画って、面白くないんスよねぇ。どれも、見たことあるようなやつばっかりっていうか」
スマホをいじりながら、涼音は前屈みになる。両腕に押しつぶされた胸元が、窮屈そうにたわんでいた。
「これとか、特に意味わかんないっス。なんで魚の動画なんか上げてるんスか?」
「お前が言ったんだろ。かわいい動物が人気だって」
「普通、犬とか猫でしょ!? イワシが泳いでるとこなんか見て、誰が喜ぶんスか!?」
「ヤマメだよ、バーカ! 海の魚と一緒にするんじゃねぇ!」
研究用に飼っていた分が余ったので、貰ってきたのだ。撮影したあとは、ちゃんとおいしくいただいている。
「じゃあ、この盆踊りはなんスか! 先輩の踊ってるとこなんか見ても、誰も喜ばないっスよ!?」
「……それ、フラメンコなんだが」
二人の間に、しばし沈黙が訪れた。
「そもそも、お金が欲しいんだったら、うちのお父さんに相談して……先輩?」
丼を片付けた玲児は、安物のバックパックを背負う。
帰り支度を始めた玲児に、涼音は慌てた様子で、
「ど、どこ行くんスか先輩? まさか、ほんとに怒って……」
「不動産屋だよ。引っ越し先のカギをもらいに行くんだ」
心なしか安堵した様子の涼音は、すぐに眉をひそめた。
「え、もう引っ越し先が決まったんスか? 火事が起きたのって、昨夜のはずじゃ」
「不動産屋が気を利かせてくれたんだ。引っ越し先に残ってる家具も、そのまま使っていいって」
ありがたい話である。この世知辛い世の中にも、多少の人情は残っていたらしい。
素直に喜ぶ玲児と違い、涼音は疑わしげだった。
「それ、大丈夫なんスか? こんな早く決まるなんて、訳アリの物件なんじゃ」
「心配ねぇよ。築五十年、風呂なしトイレ共同、キッチンは屋外の優良物件だ」
「ほとんど事故物件じゃないっスか、それ!?」
バックパックの紐を、涼音は引っ張った。
「やめときましょうよ、先輩。それ絶対ヤバいですって。絶対、人とか死んでますって。そんなとこ行くくらいなら、うちに泊まってくださいよ。今ならもれなく、かわいい後輩が付いてきますよ?」
「バーカ。社長には、日ごろ世話になってんだ。これ以上、迷惑かけられるかよ」
伏し目がちに見上げてくる涼音を振り払う。
中古で買ったスクーターにまたがる玲児を、涼音は不満そうに睨めつけた。
「幽霊が出たって、知らないっスからね? ゆうれい先輩が、本物の幽霊にとりつかれるなんて、シャレにならないっスよ」
「そのあだ名、やめろって何べん言ったら」
結城玲児だから、ゆうれい。
近頃は、大学にまで広まりつつある不本意なあだ名に、玲児は辟易した。
不動産屋で、諸々の書類にサインするだけで、結構な時間が掛かってしまった。
暗くなり始めた道を、スクーターで走ること十分。玲児は、新たなる我が家を見上げて、まぶたを細めた。
ひび割れた壁に、薄汚れたくもり窓。周囲を背の高いビルに囲まれた立地は、日照権の存在すらあやうい。全体的によどんだ色彩の中、縦横に壁面をはいまわる蔦だけが、唯一の彩をそえている。
錆びついて、ところどころ床板の抜けた階段をのぼり、玲児は目的の部屋を見つけた。
「へえ、意外と悪くないな」
部屋の間取りを見回し、玲児は呟いた。
八畳一間に、押入れつき。全体的に古びているし、畳だって日に焼けているが、これくらい許容範囲だ。
天井に描かれた人面型の染みを数えていた玲児は、壁の傷跡に目をとめた。
古びた土壁を撫でる。細長いなにかを刺し込んだような跡が、無数に散らばった壁。その凹凸を確認して、玲児は眉根を寄せた。
「経年劣化って感じじゃないな……まるで、刃物でも刺さったような」
夕飯のもやしを生で齧っていた玲児は、ふと、床が小刻みに揺れるのを感じた。
「どっかで工事でも──」
立ち上がりかけた玲児の視界で、光が明滅した。
電灯が点滅をくり返している。カギをかけたはずのドアが開き、音を立てて締まる。
ひとりでに開く襖。バックパックが畳の上をすべり、備え付けの食器棚の中身が宙を舞う。
「おいおい……寝ぼけてんじゃないよな、俺?」
天井の染みが笑うさまを、スマホで撮影した玲児は、己の頬をつねった。
話には聞いたことがある。胡散臭い心霊番組や動画サイトで見たこともある。だが、まさか自分の身に起こるとは、夢にも思ってもいなかった。
「これっていわゆる、ポルターガイストなんッ!?」
玲児は、何者かに襟首を掴まれた。背中から土壁に叩きつけられ、肺の中の空気が絞り出される。
身動ぎした玲児が見たのは、Tシャツの襟をつらぬき、土壁に刺さった包丁だった。
「……マジかよ」
ぬらりと輝く刀身に映った玲児の顔は、ひきつった笑みを浮かべている。
この時、玲児は冷静な判断力を失っていた。
栄養不足に、休養不足。火事という異常事態に、睡眠も足りていなかったのだから無理もない。
あまりにも非日常的な状況に置かれた玲児は「これ、イケんじゃねぇの?」と考えてしまった。
「幽霊の生配信って、需要あるのかな?」