バーバ・ヤガの右腕
我ながら、小汚い部屋に招待してしまったと反省している。この客人からどう思われようと、別に構いはしないが……神秘の世界はともかく窮屈だ。この老人が私を「だらしない女」だと流布すれば、それは真実となって他人の耳に入ることだろう。
まあ。
「なんだここは。ドブネズミの巣穴のほうがまだマシだぞ」
ここまで言われるとは、想像すらしなかったが。
口の悪い客人の名をワイズマンという。私が彼個人について知っていることは少ない。間違いなく、この名前は偽名だろう。性別は、恐らく男。顔は妙な面で隠されているが、率先して見たいとは思わなかった。なにせ、肉をそぎ落として浮き上がった骨が、服の合間から見えるような人間の顔だ。興味本位で見れば、きっと晩の夢見は悪くなることだろう。
乱雑に積んであった本の山を蹴り飛ばし、ワイズマンは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「生憎、部屋の片づけをやっていられるほど暇じゃあなくてね」
嘘である。ここ数年、私よりも有能な右腕がいるせいで、忙殺から最も遠い生活を満喫しているのだ。この部屋がワイズマンの言う「ドブネズミの巣穴以下」に変わり果てているのは、偏に私の怠慢である。
ドブネズミの巣穴こと、私の書房に奇々怪々な老いぼれがなぜ訪れたのか。その理由を数えるには、右手の指で事足りた。
「ふん。何にかまけているかは知らんが、貴様のような出来損ないは神秘の秘匿さえできていればいい」
「……神秘の秘匿ねえ。聞きたいことがあれば、単刀直入に聞いてくれ」
往々に、私やワイズマンのような人道から一歩……いや、百歩ほど踏み外した存在が「神秘」を語るとき、それは大抵「黒の魔法」のことを指している。
黒の魔法。それは外道のみが用いる禁術である。人ならざる者に生贄を与え、使役者の願望を叶えさせる魔法だ。
世界の理さえ捻じ曲げることが可能な魔法。同時にそれが意味することは、命の尊厳を踏みにじることであった。命を対価に、人の欲望を叶える化け物と契約する――それは、悪魔に魂を売ることと同義だ。
ゆえに、ワイズマンを含めた外道たちはこの禁術を秘匿していた。
用意してやった椅子に座ろうともせず、ワイズマンは懐から何かを取り出し、机の上に置いた。
「この小瓶に見覚えはあるか」
それは、何の変哲もない小瓶であった。どこにでもあるだろう、ただの小瓶だ。記憶を探れば、この小瓶に似たモノは幾つも見つかるだろう。
「ないね」
動揺はしない。このワイズマンという男に、緊張や動揺を見せるのはあまりにも危険すぎた。少しでも肯定していれば、私の首と胴体は繋がっていなかっただろう。
受け取って小瓶の蓋を開けてみれば、微かな刺激臭が鼻孔をくすぐった。中には僅かに粘り気のある、血のように赤い液体が残っている……。
頭痛を感じるほどの面倒ごとだ。よりにもよって、ワイズマンがこの小瓶を私のところに持ってきやがった。その字面だけで、厄なネタが転がり込んできたのを意味している。
「コイツはまた粗悪な霊薬だな。だが……基礎は神秘の技術か。町に出回っているってのは、この薬なのか?」
「ああ。霊薬とも呼べん代物だがな。お前の言う通り、この技術はこちら側のものだ」
「……誰かが神秘の秘匿を犯している、と」
普段は俗世に砂粒一つ分も興味を持たないであろうワイズマンが、わざわざ私の家に訪れる。その時点で嫌な予感はしていた。偏屈な老いぼれが気まぐれの散歩ついでに私の家に寄った? ありえないな。
神秘によって作られた霊薬。その出処を、ワイズマンは探っているのだ。勿論、それは裏切り者を殺すために、だが。
「心当たりはあるか」
「ありゃあ手ずから処理してるさ」
私も外道の端くれだ。ワイズマンに問われるまでもなく、神秘を秘匿するためなら、裏切り者を殺すことに躊躇はしないだろう。
儀式の生贄に、無垢な子供を竈にくべることすら厭わない連中である。裏切り者の命など、私たちとってみれば害悪以外の何物でもない。裏切り者は何かをしでかす前に殺す、それがこの世界の不文律であった。
ただ、このワイズマンという男は、神秘の秘匿という事柄に関して苛烈なまでに敏感であった。何せ、私も彼にしてやられたクチだ。……この件の犯人にはご愁傷様としか、掛ける言葉が見つからないな。
当てが外れたとでも思ったのか、彼は小さく溜息を吐いて、サービスに舌打ちまでしやがった。
「使えん奴め。何か分かれば、鴉を飛ばせ」
「はっ。用事が済んだら、さっさと帰ってくれ」
しっし、と羽虫を追い払う仕草で私はワイズマンを追い出す。真っ当な客人であれば、私だって相応の対応はするが、コイツを客人と扱うには少々血の臭いが濃すぎた。
「ゆめ忘れるなよ。裏切れば、次は片目では済まさんぞ」
そんな捨て台詞を吐いて、彼の姿は掻き消えるように見えなくなってしまった。
……空っぽになった眼孔が、ひどく疼く。他人に神秘を用いれば、どうなるかぐらいは理解していたつもりだが。二十五年も生きて、たった一度感情に動かされてしまったこの身が恨めしい。
柄にもなく緊張していたみたいだ。ふっと、肩の力を抜けば、ようやく緊張が解けていていくのを実感できた。どうやら、自分で思っている以上に私はあの男が苦手だったらしい。
「バーバ様? お客様は、もうお帰りになったのでしょうか」
静かになった私の部屋に、少女が佇んでいた。本とガラクタに埋もれた部屋に、場違いな侍女の服装をした小娘である。
残念ながら、私の懐事情はあまりよろしくない。素寒貧、とまでは言わないが、侍女なんて雇う余裕はない。
「シルヴィ。紅茶を一杯頼むよ。とびっきり熱くね」
「あ、はい!」
まるで小動物のようである。尻尾のように長く伸びた銀髪を揺らしながら、部屋から出ていく姿は愛玩動物に見えてならない。
シルヴィ・ニルス。私の唯一にして、最高の弟子である。魔法の才能は随一で、見た目も美しく、凡人であれば誰もが彼女を羨むだろう。私だって初めて彼女と会ったときは、そりゃあ神様を恨んだものだ。
若く、才もあり、美しい。神様という奴は、どれほど彼女に甘いのか。二物と言わず、万物を神様が彼女に与えていると言われても、納得できてしまう。
ただ一つ、シルヴィに与えられなかったものが一つだけあった。それは――
「バーバ様、紅茶が出来ましたよ」
思いに耽っていたらしい。ティーカップを置いたシルヴィの気配を、全く感じることができなかった。
顔を上げれば、人形のような端正な顔が目に入る。ただ、見るだけであれば華憐とか綺麗とか月並みな感想が思い浮かぶことだろう。
だが、その双眸に生気は無い。生き生きとした動作から、そんな気配を肌で感じることはないだろうが、歴とした生きた屍である。
「我ながら、いい買い物をしたもんだ」
「? なにか買ったのですか?」
お前だよ、なんて口が裂けても言えないが。悪魔にくれてやった、私の右腕と残りの寿命の半分で、人間一人の命が丸々買えたとあれば、これほど安いものはない。……まあ、左目は予算に入っていなかったが、それでも採算は取れているだろう。
死体に神秘を教え込んでいると、あのワイズマンが知ったらどう思うのだろうか。少し興味深くはあるが、藪を突いて化け物を出す趣味はない。
「何でもないよ。ガラクタがまた一つ、増えただけさ。ああ、それよりもシルヴィ、コイツをどう思う?」
置き土産にしては、なんの有難みもない小瓶を指さしてみる。さっさと捨ててやるのは構わないが、折角の教材である。有効活用するのが一流の魔女というものだ。
「む、新しい課題ですね。試飲してもいいでしょうか?」
「構わないよ」
生身の人間であれば、止めているところだが。幸いなことに、シルヴィは死体である。薬物の類には滅法強い……というか、効かないわけだ。
躊躇うことなく、シルヴィは小瓶の中身を口にした。途端、美しい顔を僅かに歪めた。
「不味いです……」
「私は味見しろ、なんて言っていないよ」
良薬とは苦いものである、などと先人は言うがさて。私の見立てでは、この霊薬もどきにそこまでの効能は無いはずだが。
「難しいですね。不老不死の一時的な獲得、でしょうか。私みたいに完璧なゾンビにはならないと思います。はっきり言って、用途不明ですね」
「万能薬の出来損ない、ってところかね。コイツが今、どこぞと知れぬ市場に流れている、らしい」
その一言で、ぴしりとシルヴィの動きが固まった。
「たっ、大変じゃないですか!?」
「ああ、だから解決する。ワイズマンの野郎が態々これを置いて行ったということは、そういうことだろうな。くそったれが、あの老いぼれ。見て見ぬふりをしたら、私も殺されちまう」
淹れられた紅茶を飲み干して、吐いた息を再び吸い込む。手掛かりはまるでなく、私は忌々し気にシルヴィの手元の小瓶を睨んだ。
バーバ・ヤガ。出来損ないの魔女の平穏は、こうして終わりを告げたのだ。