凡人村人の少年は、ある日魔物と相対す〜救世主は、老人賢者でした〜
「ふぁっ、もうこんな時間!? 誰か起こしてよ……」
ある集落の一角に立つ木造の家屋で眠る少年は、目をごしごしと擦って冗談混じりに言う。
しかし、直ぐに反応が返ってこない。
「父さん母さん、どうかしたの?」
二人は、確かに少年の目の前に立っている。
だが、顔が立ち位置の関係でかげってしまい、丁度見えない。
思うと、二人が落とす影は次第に傾いていき――――、
「何の冗談なの? 本当におかしいよ、父さんも母さんも」
少年は、少し怒るようにして二人を見た。
そして、二人の身体が前のめりに倒れていき、少年に覆い被さるようにして止まる。
当然ながら少年は、成人二人の重さには耐える事ができない。
「うっ、あだっ!?」
どんと地面に尻を着き、歯が意思とは別に噛み合わせられるほどに身体が揺られる。
しかし、直ぐに平静を取り戻して、倒れてきた父の方の身体をゆっくりと表へひっくり返す。
「う、うあぁぁぁぁ!! 顔が、顔がああ!」
少年は、よたよたと駆け出す。
目の前の酷い光景から目を離すように。
そして時々、人の成り果てにつまずく。
ぐにゅんっ、と靴の爪先が肉に埋もれる感触で、少年は震える。
「やめろやめろやめろやめろーー!」
何もいない虚空で手を振り回し、目に見えない何かを恐れるように声を荒らげる。
人の血、肉、骨、それらが散じている地面は、酷い臭気を発する。
それに顔を歪め、涙を垂らして膝から崩れ落ちる。
「何で……何がぁ! ああああああ!」
まだ幼い少年には、何もが理解できなかった。
そもそも、人が死ぬところなど見たことが無いのだから。
しかし、確実に彼らは死んでいると分かる。
父に至っては、やすりで削られたように顔がまっ平らで、目などは消失して骨や肉やらが見えていた。
そんな状況で生きている人間などいないだろし、生きていても直ぐに死ぬはずだ。
「ひぐっ、誰かっ……誰かあっ!」
少年は、心の底から恐怖が押し寄せ、どうにかなりそうだった。
少し風が吹いただけで声を出すくらいに、もう何も信じられなくて、生きている人が一人でも居ればと死体の山を見て回った。
だが、見るも無惨な状態に再度対面することとなる。
「あっ、あっ、あああっ!」
背を、三つの鋭利な物で引っ掛かれて死んだ者。
半身を、噛み千切られて死んだ者。
腹を引き裂かれ、ずるずると臓器を抜き出されて死んだ者。
少年は、横に首を降り続けて現実から離れようとする。
目をつぶるのが怖くて、乾かないように涙を無理矢理に出そうと、昔の悲しい出来事をひっぱり出す。
この場所から離れたくて、夢の世界に浸りたいと眠気を誘う。
もしかして、この世界が夢なのではないかと頬をつねる。
「駄目だっ、恐い…………恐いんだよぉ!」
何をしても、現実から離れることはできない。
泣いても、叫んでも、誰も助けてくれる者はいない。
そんなに都合良く助けに来る者なんて、いない。
――そして、現実はいつも都合が悪い。
「グルゥアアッ!」
メキメキ、バキバキ、と木が折れる音がする。
多分、地面に根を張って生えている物では無い。
なぜなら、木が乾いたときの音がするからだ。
水気が無く、ひたすらに乾いた――――そう、家に使われるような物。
その音は不規則に、いろんな方向から少年の耳に入る。
「誰か、いる……」
少年は、耳で音を捉えるのに必死で、じっと不動の状態を保っていた。
しかし、不意に後ろに気配を感じ、さっと振り向き――――絶句する。
「あぁっ、うぅ、い、嫌だぁぁぁぁ!!」
少年が見ているそれは、ギラギラと赤い双眸を輝かせる。
そして、きっちりと生え並んだ、不自然な程に真っ白な歯の間から、とろっとした唾液が滴り落ちた。
地面に付く黒い四肢は、一本一本が巨木のように立派だ。
その、狼にも似たかっこいいとまで言える体つき。
それは、血濡れになっていることと、歯に挟まる物のせいで台無しだった。
白く、細く、先には桃色の点がある。
それは、紛れもなく人間の指。
しかも、その美しさから見るに女の物だろう。
少年は、焦った。
死にたくないのは勿論のこと、逃げ切れる自信がない。
ましてや、倒すことなど論外だった。
ヤバイ、自分もああなってしまう。
挽き肉のようにぐちゃぐちゃに咀嚼され、目の前の化け物の胃にストンと落ちるのだ。
そして、いつかはその血肉になる。
「何でっ、何がっ、おかしいよ! 誰か、お願いだから、助けて……下さい!」
少年は、迫る死に抗い、目をぱっちりと開きながら手を擦り合わせる。
摩擦で皮膚が溶けそうで、擦れる音で頭がおかしくなりそうで、感覚が無くなっていく手。
逃げ出すほどの体力は既に無く、もう奇跡に頼るしかない。
しかし、気付く。
神が居るのならば、この集落の皆が助かったはずじゃないかと。
誰一人傷付くことは無かったのではないかと。
我にかえったのか、擦り合わせられている手が止まる。
「僕は、こんなに弱い自分も、こんな酷いことをするお前も許せない。だから…………一緒に死のう?」
空っぽになってしまった胃から溢れる胃液を服の袖で拭い、ふらつく体に力を入れる。
地に付く足に、力を込める。
そして、目の前の化け物に向かって走り出す。
「しぃねぇぇ!」
化け物の一メートルほど手前で、右の拳を固め、腕を振りかぶり、大きく踏み込む。
飛び上がった体の重力が、拳に集中するように前のめりな体勢をとる。
「ああああ!」
少年の目から涙が溢れ、その後ろに流れていく。
そして、バネのように溜められた力が緩み、目の前の化け物の額に向けて拳を放った。
それは、避けられることなく命中し、鈍い音を立てる。
勢いは、化け物の体に拳を突き付けた瞬間に全て殺し、くるりと前転するように地面に着地する。
「やった……か?」
少年の手には、確かな感触があった。
何かが砕け、生暖かい液体で手が染められていく感覚もだ。
ゆっくりと後ろに振り返り、化け物の状態を確認しようと目を見張る。
「嘘……だろ?」
それは、低いうなり声を出して少年を威嚇する。
額を見れば、黒い体毛が血に染まり、その部分だけ赤くなっていた。
しかし、怯む様子は無かった。
「うっああっ!?」
化け物に触れた右手に、鈍痛が走る。
その後、それは全身を駆け巡って終着点の頭に付くと、意識を刈り取るように衝撃を与える。
少年は、息を荒くしながら頭を左手で押さえ、化け物をキッとにらむ。
「殺ったと思ったら、壊れたのは僕の右手だなんて……。あなたは、どこまで僕を苦しませたいんですか!」
少年の目は充血し、壊れた右手の拳は、指が変な方向に曲がっている上に血にまみれていた。
少年は最初、この血を返り血だと思っていた自分を恥じる。
そして、左手が無事な事を一応確認して、再度攻撃を仕掛けようと画策する。
「グルゥアアウッ! ワウーーーーーーーーーーーーーーン!」
だが、少年が行動を起こす前に、化け物が動き出した。
化け物は、顎を外したのだろうか。
何度か大きな口を開閉すると、遠吠えをする。
その声は、鼓膜を突き抜けるようにビリビリと揺らす。
少年は、苦痛に奥歯を噛んだ。
奥歯を砕いてしまいたかった。
もうどうにかなることは無いと分かってしまったから。
だけど、最後くらい抗って抗って抗って――――、
「「ワウーーーーーーーーーーーーーーン!」」
突然に化け物の遠吠えが重なった。
それが聞こえる方向も別であることから、複数いるらしい。
「「「「ワウーーーーーーーーーーーーーーン!」」」」
さらに重なる。
多少のズレさえも感じないほどにだ。
しかも、それは一点から聞こえているわけではなかった。
複数、少年の周りを囲っていると言わんばかり、地面に反響して体に振動を与える。
このままでは、自分はどうにかなってしまう。
そう少年は感じとり、不安定な体勢のままに駆け出した。
その顔は、猛る心を押さえられず、憎悪に満ちていた。
「ああああー!」
言葉にならないまでに激しい感情を、ストレートに拳にのせる。
飛び上がることはせず、加速することもせず。
いや、できないと言った方が正しいだろうか。
ただひたすらに、視界に入る化け物のことを一心に見つめる。
普段は使いなれない利き手の反対、それにうまく力が入っただろうか。
いきなりそれを実行しても、成功する確率など屁みたいなものだろう。
だが、抗うのだ。
何か行動を起こさねば駄目だと、ぎこちなく拳を突き出す。
「「「グルゥアア!」」」
当然、二度目ともなれば化け物も学習する。
それを避けるように横に跳び、吠える。
しかし、その向こう側にも化け物は居た。
そこまで拳が届くか――――いや、足りない。
もう両足は後ろにあり、上がらない。
そのまま、地面に突っ伏すように倒れ込む。
「あ……」
少年は、背に突き刺さる視線を感じた。
そのため、肩に体重をかけてぐるんと寝返りをうった。
少年は、その時既に、確信と言うか、何と言うか、薄々感じてはいた。
それでも信じたくなくて、まだそうなっていると決まっているわけではないのだから、大丈夫だろうと。
しかし、現実はいつも悪い予想ばかり当ててくる。
――――集落を埋め尽くすほどの化け物が、そこにいたのだ。





