THE上級国民
令和の時代が始まろうとした頃、俺達の先祖は馬鹿な事を言い出した。
『上級国民』
最初はどうやら地位の高い人間や年収の多い人間を揶揄する言葉として生まれたらしい。
格差社会が叫ばれる中、報われない、這い上がれない人々の怨嗟の声はやがて大きくなり国をも動かした。それも下級国民である彼らが思っていたのと真逆の方向へ……。
時は流れ2100年。
世紀末。
ヒエラルキーの末端、最下級国民は貧困に苦しみ、明日をも見通せない日々に喘いでいた。
***
「カイト……カイトってば」
「ああ?」
まだ薄暗い明け方。
ネグラとしていた新市街と旧市街の間に流れる川辺の掘っ立て小屋で緩慢な死を愉しんでいた俺は聞き慣れた女の声で起こされた。
「ミハルか……もう死ぬから放っておいてくれ」
「またカイトは……そんなにすぐ人は死なないよ」
ミハル。
親友だったヒロシの妹。
彼女の言葉は嘘だ。人はすぐ死ぬ。ヒロシは死んだ。
中級国民の勘気に引っかかり、連行され、目と口を潰された状態で帰ってきた。
3日間、高熱に苦しみ……俺が殺した。ここで。
「みんな死ぬ。俺も死ぬ。いつかお前も死ぬ。最下級国民だ。俺達の寿命は短い」
「カモが来たよ」
ミハルのその声に俺は飛び起きた。
「カモか?」
「うん」
薄汚れた汚い顔のミハル。
義務教育だけ済まされた後、放り出された棄民の顔など全て似たり寄ったりだ。
ヒロシを殺した夜、ミハルはありがとうと泣きながら俺に縋り付いてきた。
のたうち回り苦しむ兄さんを助けてくれたと言って。
もう苦しまないようにと解放してくれたと言って。
あの日からここに二人で暮らすようになった。
ヒロシは小屋の裏に埋めた。墓標代わりに大きめの石が三つ。
二つは俺とミハルの分だ。
「どこにいる?」
「川岸に座り込んでいる」
「どんな服装だ」
「綺麗だから多分、中級かそれ以上」
「よし、行くぞ」
「死ぬのは止めた?」
「ああ、延期だ」
そう言って俺はミハルの手を取り大きめの麻袋を掴むと小屋を飛び出した。
久々のカモだ。
下級だとしても、しばらくは飯に困らない。
中級以上であれば、下級国民への格上げが待っている。
「あれか?」
俺の質問にミハルは首だけを縦に振り答える。
河原に座り込む白いワンピースの女。
年は10代後半か。スタイルはいいが健康的だ。
細さなら俺達も負けないが、こちらは不健康に痩せている。
オーケー。確かにうまそうなカモだ。
「上級っぽいな」
「うん」
最下級国民が居住を許されている数少ない区域へ迷い込んだ上級国民。
こんなご馳走、めったにお目にかかることなどない。
「いくぞ」
「わかった」
俺の合図でミハルが一気に走り出す。
俺もその3メートル後ろを追いかける。
「何しているの?」
「え?」
ミハルが女の前に回り声をかけた。
俯いていた顔を上げていた。後ろからは見えないが、きっと突然声を掛けられ驚いていることだろう。
注意がそれた瞬間に俺は後ろから抱きつく。
甘い香りと暖かく柔らかい感触が俺の身体に伝わり、一瞬脳髄が痺れたようになるが俺は気合いでその湧き上がってくる情動を抑え叫ぶ。
「保護した! 迷い人をカイトとミハルが保護した!」
この宣言で俺とミハルはこの女に対する権利を獲得したのだ。
最下級国民といってもプライドはある。人の獲物を横取りするようなやつは早々にこの世界から退場させられるのだ。それでも俺は周囲に群がってきた気配に対し、威嚇を兼ねて見回すと、女にスッポリと麻袋を被せた。
俺達にはよくわからない感覚だが、この最下級国民の居住区へはしばしば上の級の国民が死ににくる。
捨てられるのか自ら望んでなのかは知らないが、とにかくやってくる。
俺達はそれをカモと呼び、警察事務所へ連れて行くのだ。
そうすれば連れて行った価値の10%が対価として支払われる。旧世紀伝わるありがたい伝統だ。
「ミハル、これで下級へ上がれるぞ」
「やったね」
一気に展望が開けた。
まとまった金額を手にすれば納税ができる。
納税してしまえば、納税額に応じて下級に上がることができるのだ。
下級国民になれば仕事にありつける。仕事があれば継続的に税を払える。
納税義務は無い代わりに一切の人権など無い下級とは違い幸せな生活が望めるのだ。
俺達は希望を胸に意気揚々と警察事務所に向かった。
***
警察事務所に迷い人を届けるのは初めてじゃない。
これまでも下級国民を数回、届けた事がある。
通常は30分ほど待たされて10%分の現金をもらってネグラに戻る。
だが今回は上級だからなのだろうか、なかなか出てこない。
「どのくらい貰えるのかな」
「ああ、楽しみにしていろ」
「お兄ちゃんのお墓どうしようか」
確かにそれは困った。
今日、昇級してしまえば河原へは戻れない。
迷い込んだとして、こっちが拾得物として届けられてしまう。
「可哀想だけど置いていくしかない」
「……うん」
ミハルもそれがわかっているのだろう。
少し悩んだようだったが静かに頷いた。
しばらくすると太った警官がやってきた。
以前みかけたことがあるが、確かここの所長だ。
「こっちへこい。恩賞について話がある」
所長はそう言うと事務所の奥へ向かっていった。
俺達も仕方無くそれに着いていく。
一番奥にある扉の前まで進むと、中に入るように促された。
部屋の中央にあるソファに先ほど保護した女性が狐面を被って座っていた。その周りには黒い服を着た男が7人、直立不動で立っている。
「みつけたのはこの二人か」
男の中の一人が声を出した。
妙に声が甲高い。
「はい」
俺達の後ろから所長が答える。
空気が重い。
恩賞を貰えると期待してここまできたが、どうも嫌な予感がしてきた。
背中に冷たい汗が伝う。
俺が学校を卒業した後、ここまで生き残れたのは、この感覚を大切にしてきたからだ。
ここは恩賞を諦め逃げがした方がいいのか。
ああ、そうすべきだ。
今すぐ逃げよう。
「ミハ……」
小声で呼ぼうとした瞬間に再び甲高い声が響いた。
「おい、このお方に声を掛けご尊顔を直視したのはどっちだ」
「あ、わたしです」
俺が止める前にミハルが答えてしまった。
「そうか」
その瞬間、プシュッという音がしてミハルが倒れた。
額には小さな穴が空いている。そこから赤い液体が滲み出てきた。
倒れた頭の後ろの周囲にはブヨブヨした白いゼリーのようなものが散らばっており、その周囲の床を赤いペンキのような液体が染めていた。
「不敬罪だ」
甲高い声でそう言った男の手には黒い棒のようなものが握られていた。
俺はもう一度ミハルを見る。
ミハルは笑顔のままだ。
恩賞を貰えると思っていたのだろう。
とても嬉しそうにしている。
そしてそのまま死んだ。
ミハルは死んだ。
「おい、貴様。貴様が殿下を保護した男か。忌々しいことだが規定通りの恩賞だ。運が良かったな」
この男が何を言っているのか俺には理解できなかった。
ただ呆然と声を出せぬまま立ち尽くしていた。
そんな俺の手に誰かが一枚の紙切れを握らせた。
気が付けば俺とミハルの死体だけが残されていた。
ああ、ミハルはまだ笑ったままだ。
そろそろ帰らないとな。
「ミハル?」
答えは無い。
そこで俺は部屋中が強烈な血の臭いが充満していることに気が付いた。
「ミハル? 死んだのか?」
やはり答えは無い。
死体は語る事は無い。
俺達は簡単に死ぬ。
ヒロシも死んだ。ミハルも死んだ。
価値の無い最下級国民の命など誰も気にしない。
「そうか、死んだんだな」
またしばらく時間が経ったのだろう。
いつの間にかミハルの死体は片付けられていた。
「ヒカワ・カイト様、出発の準備を」
「出発?」
俯いていた顔を上げると目の前には所長が立っていた。
突然、敬語を使って話し始めた所長を訝るように見上げたが、彼はまるで謙るような卑しい笑みを浮かべ手を揉みながら俺に立ち上がるように促す。
「どこへ?」
「カイト様の居住区です」
「あ、ああ」
ネグラに帰れという事か。ミハルがいないのは困ったな。
そう思いながら所長に就いていくと、正面玄関に黒塗りの車が横付けされ一人の男が立っていた。
「お迎えにあがりました?」
「お迎え?」
その男が喋る言葉が理解できなかった。
どうも頭が動かない。
ミハルも一緒に……あれ、ミハルは?
ああ、そうか。ミハルは死んだんだったな。
じゃあ、置いていくしかないな。
「じゃあ、行くか」
「はい、カイト様」
疲れ果てていた俺は、何も考えずに車に乗り込んだ。
後で知る。
あの紙切れ一枚で俺が下級、中級を飛び越して上級国民に格上げされたことを。
後で知る。
俺達が保護したのは最上級国民よりも更に上。
この国の皇族と呼ばれる姫君だったことを。
後で知る。
ミハルの罪状は座っていた後続の顔を直接見た。ただそれだけの理由だったことを。
ミハルが死んだ日。
俺は上級国民になった。