精神感染
気が付いた時、私は首を吊ろうとしていた。
私は、高校での度重なるいじめに耐えかねて、自ら命を絶とうと図ったのである。
……いや、この言い方は正確ではない。これは私の宿主である中澤孝の記憶だ。私の記憶ではない。なぜなら「私」はまさに今、この瞬間に生まれたのだから。
首から縄を外し、部屋にあるベッドに腰掛ける。縄は一応ベッドの下に隠しておいた。
頭がぼんやりとする。自我がはっきりとしない、そんな感覚があった。人間ではないことはハッキリとわかる。だが私は今人間の体に入っている。「私」とは、一体何なのか……。
しばらくそうしていると、突然脳内から声が聞こえてきた。
『発症の成功を確認。以後あなたをMA-24と呼称します』
女性とも男性ともつかない、年齢も分からない、そんな声だ。
(なんだこの声は……?)
『私はMA-24のウイルスとしての本能を擬人化した存在です。同時に研究施設■■■■■へ経過を報告する役目も担っています』
(……ウイルス? 待て、何がなんだか)
『記憶に混濁の可能性有り。MA-24について説明します。MAウイルスはウイルスの生体をもとに作られたナノマシンで、空気を媒介に感染し発症すると感染者の人格を破壊します。新しいウイルスの増殖は人格破壊後であり、発症と同時に感染を拡大します。研究員■■■■は2019/6/15に中澤孝の通う椿ヶ丘高校にMAウイルスを散布、中澤孝が感染。本日2019/6/19に中澤孝が発症……』
(分からん)
そう矢継ぎ早に言われても分かるわけがない。ただでさえ混乱しているのだ。
『しかしMA-24、あなたにはより多くの人間を感染させるという使命が……』
(頼む、もっとゆっくり話してくれ)
『……はい』
ゆっくり話を聞いて、私なりに纏めると以下のようなことであった。
・私はMAウイルスという名の人工ウイルスである。
・MAウイルスは肉体ではなく精神に感染する。
・感染された人間の人格は失われ、ウイルスの疑似人格に乗っ取られる。
・最初に感染した人間の人格、記憶を元に疑似人格は作られる(これが私、MA-24である)
・私、MAウイルスの存在理由、目的は、より多くの人間に感染させることである。
・人から人へ感染させるためには、ある条件をクリアしなければならない。
ウイルスと寄生虫ではまた違うだろうが、カマキリに寄生するハリガネムシを思い出す。……この知識も、疑似人格の元となった中澤孝の記憶なのだろう。
私がウイルスであるという事実は、割とすんなり受け入れられた。端からそう作られているからだろうか。実際、他人の人格を乗っ取りたい、という人間にあるはずない欲求が、胸の奥を渦巻いている。
『本来感染と発症は区別すべき事象なのですが……』
今は細かいことより、概略を掴むことが先だ。
結局この声の仕組みはよく分からないが、MAウイルスの正体はナノマシンだと言うし、オペレーターのようなものと考えておこう。
(それで? 他人に感染させるための条件とは?)
『対象者の精神抵抗値を一定水準以下に下げることです。精神抵抗値は、精神が不安定になると下がります』
(……曖昧だな。どれだけ不安定にさせればいいんだ?)
私の疑問に、脳内の声は端的に答えた。
『要は、対象者を絶望、または鬱状態にさせれば感染します』
◇
中澤佳代子……孝の母にあたる。夫である中澤陽太が蒸発して以来、女手一つで家族を養っている。生活のストレスヒステリックになりやすい。
中澤遥……孝の姉にあたる。性的暴行を受けた過去があり、それが原因で大学を中退。以後就職もせず引き篭もっている。弟である孝が唯一の心の拠り所である。
『以上の二人が、現在感染可能な人間です。中澤孝の記憶から推定しました』
中澤孝の二人の家族だ。こうして整理すれば散々な家庭である。
私はこれからこの二人を、絶望させなければならない。
未だに二人は感染していない。これは二人の精神抵抗値が一定水準以上にあることを意味する。中澤孝が感染した理由は明白だ。高校でのいじめが原因で、自殺を図るほど絶望したことである。逆に言えば、死にたくなるほど絶望させなければ感染しないのか。
(私が言うのもなんだが、MAウイルス、感染力低くないか)
『試作ですので』
自分が試作であると言われるのも妙な気分だ。
さて、とりあえず二人のうち一人に的を絞るべきだが、どちらにするか。孝の記憶を見る以上、精神的に不安定なのは佳代子の方だ。だが……
(ヒステリックになると、精神抵抗値は低下するのか?)
『精神状態が不安定ですので低下はしますが、一種の興奮状態でもあるので水準には至りません』
(わかった)
であるならば、狙うのは遥の方だ。佳代子は仕事からまだ帰ってきていないが、遥は今も、自室で引き篭もっている筈である。
◇
ドアをノックする。
「俺」
「あ、孝? ちょっと待ってね。チャンピオン取ったら開けるから」
どうやら彼女はいつものように、ゲームをしていたらしい。
扉を開ける。
「え、ちょっと待ってってば」
慌てた様子でゲームを続ける遥。通話はしていないようだ。彼女は未だにパジャマを着ていた。部屋は暗く、モニター画面が薄白く照らしている。床には私物が散乱しており、ドアの側には食べ終わった夕飯の食器が、盆に載せられて置かれていた。
「ね〜? 孝? 何か用なの? また昨日のゲームする?」
モニターから目を離さずに聞いてくる。記憶の通り、孝は遥とかなり親しい様子であった。
無言で彼女の腕を掴み、引っ張る。ヘッドホンのプラグが抜け、ゲーム音が部屋に響く。
「えっ、ちょ……な、なに? 孝?」
震えた声で聞いてくる。
私は体を持ち上げるようにして、彼女の首を絞めた。
「ングッ──!?」
「死ね」
小声で私はそう呟く。だがまだ感染しない。
「いい加減目障りなんだよ……」
「ッ〜〜!」
「お前のせいで、母さんは無駄に働いているんだ。その矛先は俺に来る。俺が母さんに名倉れるのは、お前のせいだっ!」
「カはッ……ングっ」
「そうだ。全部お前のせいだ。俺の高校でお前がニートだってバレたんだ。それが原因で、俺は…………お前の! せいで!」
孝の偽りない本心だった。遥と笑顔で接する上で、孝は泥のような憎しみを抱えていたのだ。私は孝ではない。だが、語気が強くなるのは何故だろう。……ただ彼の記憶を私のものとして、誤認しているからなのだろうか。
遥は苦しみながら涙を流し、目を瞑った。
『感染者の精神抵抗値が上昇』
何故だ。首を絞められて苦しくないのだろうか。……駄目だ。このままだと遥が死んでしまう。折角の感染者候補を死なすわけにはいかない。私は手を離した。
「──ゲホッ……かはっ……た……孝……」
「……なんだよ」
「ごめんね。……ごめんね。……ごめんなさい」
泣きながら、平謝りする遥。
私は孝ではない。私は謝罪を欲してはいない。
「ごめんなさい。全部私のせいだよね……ごめんなさい……私を殺していいよ。それで孝が幸せになれるなら」
彼女は両手を広げ、私に体を、首を差し出した。
死にたくなるような感情。そうさせたはずなのに、彼女は感染しない。絶望とは違う感情なのか。
どうすればいい? ここから遥を絶望させるためには、どうすれば……
──性的暴行を受けた過去がある。
ふと、その情報が脳裏に浮かんだ。私は彼女の肢体を嘗め回すように見る。
「……そういえばお前、いい身体してるよな」
「え──」
遥の肩を押し、ベッドに押し倒す。馬乗りになり、今度は首ではなく、彼女の胸部の膨らみを掴んだ。
「な、何するの……孝……」
「黙れ」
私は彼女のパジャマを強引に剥ぎ取った。遥の体が硬直する。2つの眼が恐怖で染まった。
◇
『精神抵抗値が一定水準に達しました。感染に成功』
二十分経過して、ようやく私は遥を絶望させることができた。
『中澤遥の人格破壊に成功』
脳内の声を聞きながら、私は彼女の乱れた服を直していく。このあとはベッドも整えなければならない。
しかし、今回は随分と強引に行動してしまった。一歩間違えれば、取り返しのつかない事態になっていただろう。今後はより人間の感情を考察し、周囲の人間の情報を集め、綿密かつ長期的に計画を練らなければ。
『中澤遥の記憶をMA-24と共有。また人格の同期を開始します』
彼女の記憶が私に流れ込んでくる。その大部分がゲームの攻略法であった。正直いらない。
人格の同期、というのがよく分からなかったが、どうやら「私」が2つに分裂するらしい。これからは孝も遥も、二人の体を私が操れるということだ。ただしメインの「私」は一つだけ。メインの「私」は感染者の体を行き来できるらしい。キャラの視点をモニター上で切り替えるようなものか。……遥の記憶を共有したせいか、例えがゲームになってしまった。
『中澤遥の中でMA-24-1の構築が完了しました。視点の切り替えが可能です』
私は試しに、遥の視点にスイッチしてみる。
なるほど、遥の体を自在に操れる。孝の視点にいたときと感覚は変わらない。本当にキャラが変わっただけのような感じだ。目の前の孝はサブ「私」であるMA-24-1が中に入っているわけだ。不思議な感覚である。遥の視点から、私は孝の顔を見た。
中澤孝は、涙を流していた。





