最低でも三度目の真白、夏の断末魔
「この星を救ってみる気はありませんか、先生?」
誇大なセリフを臆面もなく言ってのけた少女は、初めて会った時から変わらずこじんまりとしたお嬢様であった。
季節外れな真っ黒のワンピースの裾を微風に揺らし、口元は微笑をたたえている。
「この星を救う、か」
オニキスのごとき彼女の瞳を見つめる。今、自分が冷めた目をしていると容易に理解できた。
「俺にそんなことができると思っているのか? しがない一教師でしかないこの俺に」
左手がポケットの中にあるはずの煙草を探す。見つからない。
舌打ちしたい気分であったが、子どもの前と自重した。
「そう遠くない未来に、雪玉になっちまうこの星を救うなんてことがな」
空には太陽が燦然と煌めいているのに。
暦の上では、今は真夏だと言うのに。
寒い。
「お前は優秀な生徒だ、地球の現状くらい分かっているだろう」
「南北両極が厚い氷に覆われ、日光を反射。これにより平均気温は急激に低下し、寒冷化に拍車がかかって、行き着く先は全球凍結。ですよね?」
声音には一切の緊迫感がない。愚昧な人間や、傍観者のごとく。
どうも、玖条絢という少女の考えが読めない。
「そこまで分かっているなら、こんな所にいる理由もなかろうに。はやく火星に移ればいいだろう」
テラフォーミングされ、人間が住める環境となった彼の星に。とうに大半の人類はあちらにいるのだから、それに倣って宇宙の連絡船に乗ればいいものを。
「今もまだ地球にいるのなんて、政府にとって価値の低い人間か、お前のような変わり者ぐらいだよ」
「それは先生も同じでは?」
きょとん、と首を傾げられる。
「学会では知らぬ者のない、若い天才研究者。今あなたが地球のスラムで教鞭をとり、子供たちに勉強を教えていることこそが私には不可解ですけどね」
「……よく知ってるんだな」
「ええ。二ヶ月前、あなたと会う前から存じておりましたよ」
苦々しい味が広がる。
確かに俺は、その道で有望とされていた。価値の高い人間だった。
だが、今はそうではない。
「俺は、この東京大スラムで子供たちに勉強を教える教師。それ以上でもそれ以下でもない」
日本の暗部。政府の腫れ物。可能性ある少年少女たちが、大人たちの勝手な事情で才能の芽を摘まれるのが許せないから。
なんて、自分のエゴだってことくらいは分かっているが。
「それで、そんな俺にこの星を救えと」
「ええ、先生ならできるでしょう?」
「過大評価だ」
「でも、事実ですよね」
「……できるのは、その方法を教えるだけだ」
ため息をつく。
お嬢様のことが分かったような気がする。現実が見えていないわけでもなく、呑気なわけでもなくて。こいつは狂人だ。安全が保証されていない船に好み飛び乗って、舵取りまで他人任せ。
そんな少女に、俺が提供できるのは泥舟くらいだ。
さっさと宇宙船に乗った方が彼女のためになる。
「可能性は1%あるかどうかだ。こんなに分が悪いことに、賢明なお前が乗るとは思えないがな」
なので、暗にやめておけと示す。が、
「1%あれば十分です。試す価値はあると思いますが」
真正面からそう返され、彼女を見くびっていたことを自覚する。玖条絢は大物である、それも悪い方向に。
どうして、そこまでこの星に固執するのか。
真剣な瞳と目を合わすのがためらわれ、視線をそらす。
「二ヶ月間、あなたを間近で見てきたのです。信頼できる人間かどうかくらい分かりますよ」
今、こいつはどんな顔をしているのだろうか。
初めて会った時から、なにも変わっていないと思っていた少女は、こんなに優しい声音で話しかけてきただろうか。
生まれた沈黙の中、記憶をたどる。
そう。彼女が生徒として、この青空教室にやってきたときは────。
「はじめまして、今日からここで学ぶことになりました玖条絢です。皆さん、これからよろしくお願いしますね」
荒れ果てた殺風景な場所に似合わぬ、ゴシック&ノワールなファッションに身を包み。現れた少女は、身丈以上に大人びていた。
ただでさえ新入りが少ないこの教室にお嬢様が入ってきたということで、子供たちはこぞって彼女のもとに群がった。
周囲から浮いてしまうのではとも思ったが、生徒たちは転入生を積極的に受け入れた。
俺が授業の開始を促すまで、質問攻めは続いた。
「あの、この問題がよく理解できていないので教えていただきたいのですが」
放課後。次の日の問題の見直しをしていた俺に声をかけてきて。勉強熱心な生徒だと感心した。
彼女が手こずっていたのは、高校範囲の国語の文章問題。
俺は理系の人間で、苦手分野ではあったが。ここには俺以外の教師はいないため、必然的に対応することになり。
頭を悩ませながらも、なんとか理解させることができた。
「ありがとうございます。貴重な時間までいただいて……」
「生徒にものを教えるのが教師の仕事だ。これくらいどうということはない」
彼女はくすっと笑い。
「それでは、これからもこうして頼りにすることにしますね」
そう言って去っていった。
人好きがして、勉強熱心で。それでいて、どこか他人と壁を作っているような気がする生徒だったが。
案外に人懐っこいのかもしれないと、ふと思った。
それから、彼女は分からないことがあれば俺に聞きに来た。
幾度も接してくると、だんだんと彼女が純粋に質問をしにきているのではなく、意図的に俺との時間を作りにきているということに気付いてきた。
そして、それを色恋に直結させるほど俺も若くなく。少女の打算が見てとれて、その意図を見通そうとした。
「それで、この問題については────」
一ヶ月も経って、彼女もすっかりクラスに馴染み。
二人の生徒が火星に旅立ってからも、変わらず教室に通い続ける少女に違和感を感じていた。
「なあ、お前はあちらには行かないのか?」
発した問いに、一瞬答えに窮し。
「はい。火星には行きません」
「そうか、まだ行かないんだな」
玖条絢。
特徴的な苗字に聞き覚えがあり、調べたことがある。
結論として、彼女は本物のお嬢様であった。
社会的地位も高く、世間に必要とされる存在。
ここの子供たちとも、俺とも違う。
それがなぜ、未だにこんなところで足踏みをしているのか。
「なにか問題があるのなら、俺にできることなら力を貸すぞ。それが教師の責務だ」
「頼りになるのですね。ですが、大丈夫です。問題はありませんよ」
この少女のことが、より分からなくなった。
そして今。いつものように呼び出されて、告げられた言葉。
この星を救えという、難題。
おそらく、俺は彼女に試されていたのだろう。この問題を解くに足る人物であるか、否かを。
「俺は、お前のお眼鏡にかなうような人間じゃないさ」
「いいえ、そんなことはありません」
力強く断言され、たじろぐ。
改めて彼女の方へ向き直る。一点の曇りもない瞳だ。
「俺がお前に付き合っていたのも、俺が教師でお前が生徒だったからだし。件の理論も、俺一人では完成しなかった」
「それで十分ですよ。私たちの関係は変わりませんし、一人でダメならまた集まればいいじゃないですか」
年下の少女は、手折ることも容易い花のようでありながら、しかし揺るぎない強さを持っている。
俺がここにたどり着くまでに失ってしまった強さを有する彼女が、眩しくて妬ましかった。
「アイツは、行ってしまったよ。今やもう会うことは出来ない」
「アイツ、とは?」
「俺の友人で、理論の追究を手伝ってくれた相方だよ」
「なるほど、では早く地球を救って迎えにいきましょう」
空笑う。
「どうしてもこの星を救いたいようで。それじゃ、一つだけ質問だ」
絢はきょとんとしている。こちらから質問なんて、初めてだからな。
「お前はこの星を救ってヒーローになりたいか? それとも、他人に疎まれてでもこの星を救いたいのか?」
少女は少し考え込む。
「そりゃヒーローにもなりたいですよ。でも、この星を救うことがみなに嫌われることなら……それでも、私はこの地球を選びます」
「なんじゃそりゃ」
答えになっているのかいないのか。心の底から笑う。
「私は強欲なので、どちらか一つなんて選べません。その時の最善に則って手を伸ばすだけです」
ひとしきり笑って、落ち着いて。
「それじゃ、手を組むか」
「ええ。えっ? 今手を組むって」
こいつなら、きっと大丈夫だと思った。
だから、手を組む。
そして誓う。この子には、俺のように大罪人のそしりを受けさせはしないと、教師の責務として。
「それじゃ、今日は特別授業だ。お嬢様でも分かる世界の救い方を教えよう」
地球がスノウボールと化す前に。時間は有限であり、立ち止まっていられる余裕はすでに無い。
だから────この夏を延命しよう。
最近ぱたりと聞こえなくなっていた蝉の声が、耳に届いた気がした。





