亀甲縛り
「と、とりあえず、ベンチ、ベンチに座ろうな」
初めて会った頃の威勢はどこへ行ったのか、そこには一介の弱々しい女の子がボロボロと落ちる涙を両手で頬に引き延ばして泣きじゃくっていた。
マ、マズイ。これは非常にマズイ。もしも警察に見つかったら、絵面的に最悪だ。生命の死、以前に、社会的に死んでしまう。それは本望じゃない。
「わ、分かった。おじさんが悪かったからね。ね?今から自販機でなんか買って来るから、とりあえず、うん、落ち着いたら向こうのベンチに座っておいて」
こういう時、どういう対応をすればいいのかよく分からない。よく分からない問題に対しては、咄嗟に回避してしまう。そして、そんな問題の先送りを繰り返しに繰り返した結果、俺は無職であり、童貞であるのだろうな、と感慨に耽った。ああ、しにたい。
泣きじゃくる彼女を置き去りにすると、足早に入口付近のトイレ前に設置された自販機へポケットに入っている小銭を投入する。今時の若い娘は何がいいんだ。午後の紅茶?ファンタグレープソーダ味?それとも、無難に綾鷹か・・・?
長考の末、午後の紅茶のホットと綾鷹を購入。チャリンチャリンと自販機が吐き出すお釣りをポケットに入れ直すと、そそくさと制服少女の元へと足を運んだ。そういえば、彼女の名前は一体なんといったっけな。
街灯が照らし出す暗闇の中、制服少女は大人しくベンチに座ってくれているようだった。最初は何かの見間違えかと思ったが、遠目にみると、なぜかベンチの上で正座するような姿勢になっていた。理解不能だったが、とりあえず、遠くから声をかけてみる。
「おーい。飲み物買って来たぞ。どっちがいい。選んでいいぞ」
「おじさん、アタシ選べないよ」
「あー、やっぱ、ファンタグレープソーダ味の方がよかったかなー。いやー、やっぱ女の子は健康志向なところあると思って、あえて、選ばなかったんだよね。あ、でも、グレープソーダ味飲んでる子は太ってるとかそういうのじゃなくて、むしろ、若さゆえに攻めてる感じがおじさんはスゴクいいと思うよ~」
誰も責めてもいないにも関わらず、俺はダラダラと自己弁護を展開していた。やはり、一度、女の子を泣かせてしまったとなると、何が引き金となって悲しい気持ちにさせるのかが分からないので慎重になってしまった。その結果、若い娘に媚びる物凄く気持ち悪いオッサンになり果てていた。
しかし、そんな自己嫌悪なんて吹っ飛ぶくらいの出来事が目の前では展開されていたのだ。なんと、制服少女が麻縄で亀甲縛りに結ばれていたのだ。
「え・・・なにこれ」
制服シャツ越しに強調された豊満な胸は、縄の締め付けによってさらにグッと強調されて、両腕は身体を締め付ける縄の内側へと固定されており、スカートに覆われた両脚は正座の態勢になっていた。
「え・・・なんで正座なの」
「解いて」
「は、ひゃい?」
声が裏返ってしまった。一体全体どんなマジックを使ったのかは分からないが、俺のアダルト知識を参照した結果、やはり彼女は亀甲縛りで縛られているようだった。事態の把握が必要だ。
「え、いや、ちょっと待て、やっぱり、何だこれは」
「早く。警察、来ちゃうよ?」
深夜3時。誰もいない公園で、街灯に照らされた制服少女がベンチの上で正座しながら、上目遣いで亀甲縛りの解除を要求していた。このシチュエーションに興奮しない男が地球上にいない訳がないのだが、警察という単語を聞いた瞬間、拍車をかけて冷静さを失わせた。性欲と危機感の狭間。一体、どうすればいいのだか。
「わ、分かった。と、解く、解けばいいんだろ」
買って来たペットボトルを地面に無造作に置くと、彼女の隣に座り、とりあえず、首に輪っかかけて引っかかっている紐を引っ張ってみる。
「あぁ・・・ん・・・」
「お、おい!!やめろ!!変な声を出すな!!」
制服少女が艶のある色っぽいを声をあげる。このまま公園の森の中に押し倒して犯してしまいたくなる衝動に駆られるが、高尚かつ倫理観の強い俺は自らの理性に従い紐の解除作業を続行する。警察に紐にくくられたくないですし。
そんな紳士的かつ打算的な想いが先行して、少々手荒に首元の紐で作られた輪を広げようと試みるものの、そうして作業を続ければ続けるほど、彼女の声は荒々しい物へと変貌していく。
「あぁ・・・もう、ダメだって・・・激しすぎ・・・んんっ!!」
亀甲縛りは首元に輪を作り、そのまま股間へと紐を跨がせ、紐を身体中に網目状に結びつける結び方だ。それゆえに、紐を動かせば動かすほど、股間が刺激されるのは世の理。また、一人でもできるお手軽な縛り方でもあるらしい。まさか、こんなところで5ちゃんねるのSM板で見た知識が役に立つとはな・・・まあ、一向に解除の兆しはみえないけど。
「あぁ・・・紐が、擦れて・・・や、やばいよ、おじさん・・・」
制服少女は太ももをもじもじと動かした。スカートから白い太腿が顔を覗かせる。ゴクリ。喉元に唾が落ちる音が聞こえる。
何だこの一般少年誌に掲載されている微エロマンガみたいな展開は。ああ、クソ、なんて、なんてエロいんだ!!
吐息が首元に吹きかかる。制服シャツ越しに胸元で強調された黒とピンク色のブラジャーが透けてみえる。乱れたスカートからパックリと開かれた白い太腿が向き出しになる。
理性の限界というものだ。もう、どうせ死ぬならいっそのこと・・・。
「おじさっん・・・んん、あたし・・・あ、あたし、いっちゃうかも・・・」
制服少女はこちらに顔を近づけて唇を近づける。俺もボーとした頭で、彼女のの要求に答えるために顔を近づける。もう、どうにでもなってしまえ・・・。
しかし、制服少女の瞳を覗き込んだ瞬間、バッと顔を引きはがした。
「ダメだ!!ダメだ!!ダメだ!!」
「は?なんでよ」
お互いにハーハーと肩で息をする。
「俺も君も、ここで死にに来たんだろう?」
「バーカ、違うわよ。アタシは深夜、公園で亀甲縛りするのが趣味の痴女なだけよ」
「それは確かにそうなのかもしれない。縄跳びの練習よりまだ説得力はある。でも」
「でもって何よ。本人アタシがいうんだから、間違いないに決まってるじゃない」
「けど、やっぱり違うんだ」
「何が違うのよ。ほら、アンタも死ぬなら一発やっといて損はないわよ」
制服少女は不敵な笑みを浮かべると、正座して折り畳んだ太ももを先ほどよりもパックリと開いてきた。短いスカートなため、そこからブラジャーと対応したピンクと黒に彩られた少し湿った下着が顔を覗かせた。
「確かに、君はエロい!!クッソエロい!!正直、今すぐ森の中へ押し倒してズッコンバッコンとセックスがしたい!!」
俺は恥も外聞も捨てて、顔を真っ赤にして吠えた。
「じゃあいいじゃないオジサン。それに、さっき、死んだ後の世界なんて知ったこっちゃないっていってたじゃない?心配なら、コンドームも鞄にあるわよ」
「けど、それじゃダメなんだよ。俺は君を殺したい訳じゃない」
「は?何言ってるの?」
「さっき、君は、アンタも死ぬなら一発やっといて損はない、といった」
「それが?」
「アンタ【も】ってことは、お前はやっぱり死ぬつもりだったんだろう」
「言葉の綾よ」
「それに、君の瞳は死んでいたよ」
「・・・」
制服少女は黙った。先ほどまで大きく開いた太腿を閉じると、は~と大きく溜息を吐いた。
「だから、童貞なのよ」
彼女は身体に拘束されていた両手を縛り付けられた紐から取り出すと、背中の後ろに作られた結び目を解き、鮮やかな手つきで亀甲縛りをスルスルと解いていった。
「え、あれ・・・手、動かせるの・・・?」
「当たり前じゃん。一人で縛ったってことは、両手を動かせないと不可能でしょ。そんなことも分からないの?おじさん」
なるほど。彼女は亀甲縛りを一人で施した末に、自らの腕が動かないように見せかけるために身体に縛り付けた紐の内側に両手をもっていったのか。確かに、亀甲縛りは基本的に身体を締め付ける結び方であって、手足を拘束するような結び方ではなかった。不覚。
解除した麻縄を乱暴に学生鞄に入れ直すと、彼女は手足を伸ばして、軽く伸びをして、さらに欠伸をした。
呆気にとられた俺は、口をぽかんと開けて突っ立ったままだった。
「あ、オジサン、喉乾いたから、その綾鷹、ちょーだい」
「う、うん」
屈伸して足元に置いておいた綾鷹を手渡すと、制服少女はゴクゴクと気持ちのいい喉音を鳴らし、プハーと声を上げた。
「あー、生き返る」
「仕事終わりにビール一杯引っかけるオッサンか」
しばらくの間、沈黙が空間を支配した。制服少女はベンチの背に頭を預けると夜に浮かぶ満月を眺めている様だった。一方、手持ち無沙汰となって、何を話していいか分からない俺は午後の紅茶をちょびちょびと飲んでいた。
すると、制服少女が夜空を見上げたまま呟いた。
「アタシさー、確かに深夜に亀甲縛りでベンチに正座しちゃうような痴女で間違いわないんだけどさー」
ハハっと無邪気に笑いながら。
「おじさんの言う通り、自殺しに来たんだよねー」
「・・・」
最初から、彼女の行動は常軌を逸していた。見ず知らずの自殺をしようとするオッサンに対して、元気よく声をかけて、俺の自殺理由を罵倒した挙句、最終的に、亀甲縛りをして身体を委ねようとしてきた。そんなことは、単なる変人や痴女ができることではない。強いてできる人間を挙げるなら、人生を放棄したものくらいだろう。
「やっぱり、君もこちら側の人間だったんだね」
俺は間が持たず、飲みたくもない午後の紅茶を、再度、ちびちびと飲み込んだ。
彼女は飲み干した綾鷹のペットボトルをベンチの対極に置かれたゴミ箱へと投げ捨てた。勿論、最近のゴミ箱はペットボトルを捨てる用に穴が設けられており、簡単に上から投げ入れられるような構造になっていない。綾鷹はゴミ箱にカーンと弾かれて地面にころころと転がった。外れて当たり前だ。
「オジサン、勿体ないことしたね。あの穴に入らないペットボトルみたいだね」
「ああ。あんなの入る訳ないからな。確かに入ったら気持ちいいんだろうけど、でも、入れることはできないよ。あのゴミ箱と同じで」
「なんでよ?死んだ後の世界なんて知ったこっちゃないんじゃないの」
「ああ。正直、俺が死んだら、俺の宇宙は終わるから別に何だっていいんだ。でも」
俺も入ることの決してない午後の紅茶を入る訳のないゴミ箱へと投げ放つ。
「俺は分かるんだ。俺たちは別に死にたい訳じゃない。生きるのが辛いだけなんだ」
「うん」
「だから、君を助ければ、俺自身が救われるような気がした。あの時、俺は君に声をかけられて救われたからね」
「あ、入った」
すぽん。入る訳がないペットボトル用に丸く縁どられたゴミ箱の暗闇の中へ、午後の紅茶は呑み込まれていった。
「入れることのないゴミ箱に入っちゃってるじゃん」
「俺が格好つけて返した喩えも、俺が導き出した決め台詞も全部台無しじゃねーか」
気づけば、お互いに腹を抱えて笑っていた。初めて会った時のように、お互いを罵倒しあって。けど、初めてあった時とは違い、お互いに笑い合って。