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桜の木  作者: 光好
6/10

衰え

兄、ナツサダ視点です。

ぜぇ、ひゅう、とふいごが鳴るような音が、耳元でする。掛布の織り目なのか、目が霞んできているのか、目の前がぼんやりする。

背中に兄の手を感じる。

気遣ってはくれているらしいが、急いでいるせいか、どんどん、と、踵を床に打ち付ける振動で全身が震える。

兄の従者の声がした。何事か、兄と話して、体が冷たい床に下ろされる。

「…っいたい」

尻の骨やら、腰の骨やらが、ぶつかって痛かった。するとまた体は宙に浮く。

「すまん、痛いか」

くぐもって兄の声がした。

返事をする間もなく、するりと、力が抜けて、兄の厚い胸板に額を寄せてうなだれた。


◇◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◇


かたり、と頭が胸にもたれかかってくる感触がして、布から、ツネハルの腕がだらりと垂れ下がった。

「ツネハル?…おいっ」

両腕が塞がっていなければ布を取り去って、今すぐにでも様子を見たかった。だが悠長にしている時間もない。

「ああくそっ、山左さんさ!」

「はっ」

従者の一人を呼び寄せる。特徴のない、いかにも目立たなさそうな男が膝をつく。

「善治先生をお呼びしろ。何がなんでも、何を差し置いても参上せよと伝えよ」

「はっ、承知しました!」

山左は軽く頭を下げて、素早く立ち去った。

山左の背中を見送り、己も母屋へ向かう。

中庭に面した廊下を曲がり、渡殿にかかると、向こうに笑っているアキムラが立って待っていた。しかしただならぬ様子に、即座に笑みは消えた。

「おおあにさま、…あの」

それは、と言いたげな指がツネハルを指さした。

血で紅く染まった、ツネハルの白魚のような手がだらりと垂れ下がる。青白く、生気のない手が力なく揺れる。

「お前の言う通り、早く行くべきだった」

血を吐いた、と言おうか迷い、言葉にするのは敢えて避けた。まるで、口がそれを言うことを拒むように、言いたくないと、拒否感に口が頑なにそう動くことを嫌がった。

遠まわしな言い方がアキムラに酷い誤解を与えたらしく、アキムラは目を見開いて震えだした。

「…そ、んな…」

唇がわなわなと震え、目にたっぷりと雫が溜まり、今にもこぼれ落ちそうな輝きは透き通って綺麗だった。

「…わ、わたしは…」

「言うな。元から具合は優れなかった。それと、まだ生きているぞ。…まだ、な。」

「…!」

「腕を中へ仕舞ってやってくれ。恥ずかしかろう」

アキムラは、目を瞬いた刹那に零れた涙を慌てて拭い、ツネハルの手に飛びついた。

「顔はめくるなよ。…見たものじゃない」

悲しげに眉を寄せ、言いたげに見つめるが、布に掛かっていた手をそっと降ろす。

「ここで晒すには、いささか、刺激が強い。後でじっくり見せてやるから」

そう言えば、聞き分けのいい弟は目を伏せつつも素直に頷いた。

取り敢えず、人の目から隠そうと自室へ運び込んだ。やたらと広い畳の間で、貼り替えたばかりのい草が強く匂った。

先生を己の部屋へご案内せよと従者に言いおいて、布団を引かせ、そこにツネハルを横たえた。

微かにさえ動かないツネハルは、確かに死んでいるようにも見えた。だがかろうじて、窮屈そうな息遣いは幸いにも途絶えていなかった。

布を剥ぐと、顔の下半分を血で汚したツネハルにアキムラが肩を強ばらせた。血を見るのは初めてだったのかもしれない。

濡らした手ぬぐいを持ってこさせて、顔の血を優しく、撫でるように、拭き取った。

血を拭うと、昔の面影が僅かに残る綺麗な顔が戻った。

「…ちを、はかれたのですね」

アキムラが呟く。ああ、と是を返した。

「…あにうえは、おめざめになるでしょうか」

その問いには、答えることが出来なかった。


◇◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◇


昔のツネハルは、武の者らしくない妖艶さと朗らかさを持つ、舞姫のような子供だった。

実際武道にはとんと縁のない、病弱でいつ死ぬともわからないような禍神まがつかみを身のうちに飼い、思うに任せない体を嫌い、反発するようにわざと動き回っては倒れていた。

爺からは、止めるようにと再三言われた。

ツネハルの体は思うよりずっと深刻で、倒れてばかりいると本当に取り返しがつかないことになるからと。

そんなことを言われても、己がツネハルに鍛錬をするよう言ったことは無かったし、そも、動き回ることを止めさえしていた。それなのに何故そんなにも言われなければならないのかと、幼かった感情は少し苛立った。己の道は己で決めるし、その先に待つものを受け取るのもまた己なのだから、別にいいではないか、と。


納得のいかない様子の己に、爺は目を伏せてこんなことを話した。

あるところに、仲睦まじい夫婦めおとがいて、互いに慕い、幸せだったと。しかし妻にはなかなか子供が出来ず、出来た子は死んでしまった。周囲は妻を責め、夫に離縁を持ちかけた。しかし夫は断固として受け入れず、妻を大事にそばに置いていた。するとまもなく、子を授かり、周囲も一時口をつぐむより仕方なく、この子にかけよう、と見守ることにした。夫を嫌っているわけではない親戚は、素直に子を授かったことを喜んでいた。ところが、生まれてみれば、体が弱く、永くは生きられまいとのことだった。夫は子供の身を案じた。政敵や、親戚から守るため、手の届かないところで、大事に育てられないだろうか、と。

夫は信頼する家臣を呼び、このことを話した。家臣は是非もなく承諾し、主の御子を守り育てることとなった。

その家臣が父で、主からお預かりしている御子が、ツネハルだと言うのである。

爺は言った。

「若の、生まれて初めてのわがままを、この爺は叶えて差し上げたい。身勝手で、無理を承知でお願い申し上げます。どうかツネハル様を、お護りください。…若のお寂しそうなお顔は、もう見たくありません」


何だったのだろう、というのが一番。

次に湧いたのは哀れみだった。

結局ツネハルは、誰にもかえりみられていなかった。

誰もツネハルを見てはいなかった。


怒りがふつふつと、腹の中で滾るのと同時に、腑に落ちることもあった。

あの子はこちらの世界と違う世界の子なのだ。だからあんなにも、麗しく、か弱く、例うべくもない艶やかな微笑を浮かべるのだ、と。


あの日を境に、ツネハルはぱったりと動き回ることをやめてしまった。

“弟”を厳しく諌めた、あの日から。

それからのツネハルは、常に机に向かい、書物を読みふけり、糸で綴じてあるものは読み尽くし、家宝の巻物さえ読み漁り、見かねた父に慰みにと楽器を与えられるなどするほど、瞬く間に文の道を極めていった。

初めのうちは安堵した。弟は静かに自室で過ごすようになり、無理して倒れることもない。その頃己が忙しかったせいもあって、だんだんと会うことが減っていった。無理に動き回らなければ、きっと大丈夫だろうと思っていた。

それが、奇妙な違和感に、ツネハルを見る度腹の底から冷えるような憂鬱を感じるようにになったのはいつからだっただろうか。

ツネハルを久々に訪ねた時、昼間から布団に入り、上半身を起こしていて、何か背筋が冷える感覚がした。

ツネハルは、それからというもの、床についていることが多くなった。

目に見えて、髪の艶が薄れ、肌の色がくすみ、青白く透けるようになり、夏の暑い時でも手は冷たく、汗ひとつかかない。

それでもツネハルはそれまでと同じように、穏やかに、綺麗に笑った。触れられない薄氷うすらいの花のようで、痛々しかった。どうしたらいいのか、何をしてやれるのか、積み重ねてきたことは何も教えてくれなかった。


––––これ以上惨めな気持ちを味わえと仰いますか––––


成長して沈黙するようになることほど危険なことはない。我慢強いことは美徳だが、過ぎた自戒はただの自己否定だ。まだ未熟なツネハルには、その境目がわからなかったのだろう。限度を越した我慢が、心を頑なにし、口を塞ぎ、体を縛るようになる。今更言いたくても、もう言えなくなっているのだ。貼り付けた嘘が剥がせなくなる。助けて欲しいと、伸ばしたくても手を出せない。

体を凍えた風が吹き抜ける心地がする。


自分に向けられる愛情が、自分の為でないと知って身の程を弁えてしまう子の内なる慟哭を、助けてと、血反吐を吐かねば言えなかった未熟な成熟を、誰かが気づいてやらねばならなかった。

気づいて、その過ぎた自戒を、自己否定を否定してやらねばならなかった。

人ひとりの人格を歪めてしまっていると自覚しながら、いや、自覚しているからこそ、恐ろしさに目を逸らしてしまった自分は、昔鼻じらんだ大人と変わらない。

知っていながら、見ていながら、見殺しにしたのだ。


“あの日”を境にツネハルは変わった。

馬鹿の一つ覚えみたいに暴れ回って、倒れて、それでも必死に己に手伸ばしたツネハルと、今の静かに微笑を浮かべるツネハルは本質的には変わらない。

頑張り屋で、でもどんなに頑張っても報われなくて、自分には価値がないのだと思い詰めるような、脆くて優しくて、誰よりも誇り高い子なのだ。

ずっと己を責めてきたのだろう。

自分のしたことは到底、許されるべきことではない。


「ツネハルは、言ってくれたのに。あんなに必死に、居場所をくれと、言ったのに」

あの日、必死に助けを求めていたツネハルに、己は何てことをしてしまったのだろうか。

一本、一本、縋るツネハルの指を解き、心無い言葉で甘えと切り捨て許さなかった。

仁義を語り、正しさをかざして、無情にも、己は、寂しさに溺れるツネハルが、助けて欲しいと伸ばした手を踏みにじったのだ。


酷い。

何故誰も、弟一人助ける術を知らない。

取り返しのつかないことをしてしまう前に教えて欲しかった。

主への忠誠ではなく、敵の屠り方ではなく、臣下との付き合い方でもなく、世の渡り方でもなく。

大切な家族の愛し方を、教えて欲しかった。


ツネハルの手を取ると、冷たく、骨ばかりで固かった。

脆弱な身でぼろぼろになるまで我慢して、一番手を離してはいけなかった時に突き離した兄を、それでも頼ってくれて、兄と慕ってくれる弟が、たまらなく愛おしく、哀れでならない。

「ツネハル、すまない、私は兄として最低なことをした。…頼むから償いの機会をくれ、まだ死んでくれるな」

どうかこの手を振り払うなと、念じても、一度己が振り払っておいて、何を都合の良いことを、と、ツネハルの沈黙が嘲るようだった。

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