回顧
花の盛りの頃に悪い風邪を貰った。風が運んだか、出入りする人間が持ち込んだかは定かでないが、意識が朦朧とするほどの酷い高熱が出た。ムツの不断の看病と腕の立つ医師のおかげで、幸いにも快方に向かい、体の具合はよくなったが、二十日ばかり寝て過ごし、それ以来、己の力のみで起き上がることが出来なくなった。動こうにも力が入らず、腕を持ち上げるという動作一つとってもおっくうで仕方がない。上体を起こそうにも頭が重く、容易に持ち上がらない。これにはほとほと参ってしまった。
厄介なことはこれだけではなかった。横たわると息苦しく、壁に沿い、山と積まれた座布団に、体を預けて半身を起こさねば、呼吸すらままならない。
役立たずもここに極まれり。そんな鬱々とした感情に捕まって、なかなか、それ以上の回復にまでは至らないのだった。
幼少の頃から、動くことに制限を受けてきた。
安静にしているぶんには苦しくないのに、一度息を乱れさせると動けないほど酷くなる。主を護る為の刀が握れないなど、あってはならないことだ。武道を極めた家系には致命的な欠陥だった。泣こうと喚こうと、それで自分の価値は決まってしまい、何にも変えることは叶わなかった。
幼き日は、そんなもの努力でどうにでもなると思っていた。自分には出来ないことなどないと信じ込み、周囲の態度が理解出来ず随分と苛立ちを覚えたものだ。無理な鍛錬をして倒れるのも厭わなかった。ただただ、父に認められたかった。
自分には、努力ではどうにもならないことがあると知ったのは、十の初夏、ちょうど今のような季節だった。
「ツネハル、もうやめないか」
兄が、訓練刀を構えながらそう言った。
構えてはいるものの続けるつもりはなさそうで、腰は入っていなかったし、手も緩んでいた。
忙しい兄に無理言って、頼み込んで、兄がわざわざ、少しの合間を自分に割いてくれ、せっかく稽古をつけてもらえた。それなのに、自分はもう息が上がり、疲れきっている。対して兄は、息を乱す様子もなく、何事もなかった顔でそこにいる。
恥ずかしく、悔しいと思った。
「いえ、まだやれます」
今となっては思い出すのも恥ずかしいことだが、その頃意地っ張りで、負けず嫌いで、特に尊敬する兄に情けないところは見せられないと、意地と見栄の塊だった。
それを、その甘えた覚悟を、兄は見抜いて糾弾した。
ただの駄々っ子の我儘だと切り捨てられる、強さと残酷さを、その頃から兄は既に兼ね備えていた。
「武道はお前には向かない。諦めろ」
兄はさらりと言ってのけた。
それが自分にとってどんなに残酷で、死の宣告よりも辛いことだったか、兄に想像出来ぬはずはなかった。
「嫌です!私も相模の者、出来ぬはずはないのです!」
「息も絶え絶えで、何を言う」
「…もっともっと、鍛えたいのです。お願いです、どうか私に力を貸して、くださいませんか」
萎んでいく声が暴いてしまった、貫き通せない信念、限界だと感じていたこと。
所詮、その程度の覚悟だったと認めたに等しい。
兄はとどめとばかりに畳み掛けた。
「鍛える云々ではない。お前は病持ちなのだ。激しく動ける体ではないと言っている。己の体もわからずに、無闇に剣を振り回して何とする」
「…でもっ……!」
「お前の我儘は子どもの我儘と訳が違うのだ。剣を握るということは、同時に主を護る義務と責任が生ずる。お前にそれが、背負えるとは思えない」
兄はきっぱりと言い切った。
躊躇いも、迷いもなく、強くなりたいと願う弟に不可能を突きつけた。
兄が恨めしかった。
何でも持っている兄が羨ましかった。
「兄上は、私に何の存在もくれないのですか」
「…どういう意味だ」
「ここに存在していいという、理由です」
「父上の子、母上の子、私の弟、アキムラの兄、それ以上何を望む。何が足りない」
「そういうことではありません!私だって、私だって兄上のように、父上に認められ、弟に頼りにされるような…そんな、男に、なり…」
いつもの感覚が体を支配して、息が詰まり、訓練刀を取り落とした。
「ツネハルっ」
いつもびくともしない鉄の仮面が、歪み、顔色を変えた兄の顰め面を見せた。
体を蝕む呪いに近い。
自分を役立たずたらしめるもの。
これさえ無ければと、何度思ったか知れない。
鳩尾に、棒がめり込んでいっているみたいだった。心臓がおかしな拍を刻んだ。喉から漏れていた慟哭が横笛のような甲高い音へと変化し、言葉を遮った。
堪らず、胸を抑え、床に手をついた。
兄が、戸の横で控えた従者に命じて、医者を呼びに走らせた。珍しく急かし、早口にまくし立てていた。
「だから、無理はするなと言ったのに」
兄は無骨な手で、背中をさすってくれた。
背中に当たる、手のひらの豆が心を苛んだ。ゴツゴツと当たり、張り裂けそうなほど胸が痛んだ。
それは紛れもなく、兄が見せない努力の証。
兄が兄である為に犠牲にした時間だ。
「…っひぐっ、ごめ、ごめんなさっ…あに、うえっ…ごめ…っなさ」
兄の並々ならぬ努力を知りもせず、知ろうともせず、羨んでいた自分にどうしようもなく腹が立った。
相模を継ぐ者として、主を護る者として、生まれた時から定められた道。
その重圧は、いかばかりだっただろう。
あまりにも兄が凄すぎて、卒なくこなすものだから、今の今まで知らないままで、兄と自分を比較することさえしてしまった。
比較なんておこがましい。
自分はただ、池に映った月を見て、届く気になっていたに過ぎない。
情けないやら、恥ずかしいやら、兄がこんな自分に今の今まで辛抱強く付き合ってくれたことが嬉しいやらで、涙が溢れて止まらなかった。
また、新たな一面も知った。
誰にでも、凄い兄でも、苦手なことはあるらしい。
「ツネハル、男が泣くんじゃない、なあ…」
他人の労り方は、とんと知らないらしい。
泣く弟を、おろおろと宥める兄なんて、そう見れたものではない。
それでなんだか溜飲が下がって、二度と、剣を握りたいとは思わなくなった。
「何だか、やることがなくなって気が抜けたらしい。腑抜けてしまったな。」
「唐突に、どうなさいました」
脇でムツが首をかしげた。
「いや、夢を見た。昔の夢だ。まだ私が刀を握れた頃の懐かしい夢を。」
「左様ですか…」
こちらの感情を図りかねたらしい。それ以上言わずに、茶器の片付けに意識を戻した。
道具を持って部屋を出る間際、ムツは足を止め、しばし逡巡した後、
「でも、ツネハル様は、今の方がずっと輝いておいでです」
口の端を上げて、それからそっと障子戸を閉めた。
「そうか…?」
自分ではわからないことも多い。
ムツはムツの視点から、そう思ったのなら、それもまた自分の成長の証かなと、外から透ける光が眩しく感じた。