春の訪れ
春色の上着を肩に掛け、麗らかな春の日差しのせいでぼんやりする頭を狭い庭に向け、可愛らしく咲き誇る、上着と同じ色をした花を眺めていた。
廊下に囲まれた庭には、ひとかぶの桜が枝を伸ばす。廊下の屋根に梢が触れるほど、狭い庭には不釣り合いな立派な桜だ。この坪庭の主は、実は自分よりも年上で、生まれる五年も前からこの庭に佇んでいるそうだ。
すると視界を遮って、見慣れた、他人で唯一、自分が心を許している男が姿を現した。桜と自分の間に立つので、少し半身を後ろに反らして見ようとしたら、想像以上の負荷に体を支えられず、そのまま倒れ、背中と頭を強かに打ち付けた。
「ツネハル様っ」
「っ…痛い」
「何をなさっているのですか」
不可解な行動に困惑する男は、体を起こすのに手を貸してくれた。
「ムツが遮るから」
そう言うと、後ろを振り返って、「ああ」と言い、申し訳ありませんでしたとその場を退いた。
ムツが座ると、下がった頭の向こうに容易に桜は見えた。だが言うべき瞬間を逃し、面倒になったので黙って桜を愛でていることにした。
「ツネハル様」
不意にムツが自分を呼んだ。
呼ばれ、返事ができなかった。春の陽気はあまりに心地よい。ぼんやりとしていて、それが自分の名前であるとわかるのに少しの時間を要した。
「ツネハル様?」
「…ああ、すまぬ、何だ」
部屋の隅のムツの方へ頭を向けると、ムツの気遣わしげな瞳とぶつかった。
「ツネハル様、お加減がよろしくないようにお見受けいたしますが」
「いや、別に。暖かくて、ついぼーっとしてしまった。調子はいつもより良いくらいだ。」
「…左様ですか」
何か、言いかけた言葉を飲み込んで、ムツは無理矢理に己の心を押し込め蓋をし、渋々引き下がった。普段は木偶の坊のくせに、主人を心配するときだけは態度に出やすいのだ、この男は。毎度、それには思わず苦笑する。
「納得がいかないと、顔に書いてあるぞ。何が不満だ。」
主人が、意見を述べる場を設けたことに、結んだ口はあっという間に開き、我慢の出来ない性分が、澄ました顔に現れる。
「ツネハル様、ツネハル様はなぜそういつもご自分のことに無関心なのですか。」
認識の甘い主人に苛立ったのか、少し語気を強めて、姿勢よくこちらをなじる。
側に寄り、眉間にシワを寄せた険しい顔で、華奢と言うには病的な、萎んだ手を握る。
「冷たいじゃありませんか。冷たい空気はお体に毒だと何度も申し上げているでしょう」
「気温のせいではない。今日はこんなに暖かいではないか。」
「では、なぜ」
食い下がる様子に少々、面食らった。
ムツの方が、春の陽気にどうかしてしまったのかと訝しく思う。
「体の中の巡りが悪いからな。その指摘は今更な気もするが、どうしたのだ、今日は。やけに私を心配する」
ムツは固まって、数回瞬いて申し訳ありません、出過ぎた真似を、と俯いた。
もやもやとして、困ってしまう。
「そのようなことは申しておらぬ。ただわからない。そんなに、私の顔には死相がうかんでいるか」
「…滅相もございませぬ。そのようなことは」
「ムツは嘘が下手よのぅ」
けたけた笑ってやるとムツは体を縮めた。粗相をした自分を責めているらしいが、全く堅い男だ。冗談があまり通じない。
「それほど気を遣うな。心配も、せずとも良い。己の調子は、己が一番わかっておるよ。本当に今日は調子が良いのだが」
ムツがそう言うのならきっと、普通が前より悪くなったというだけだ。そう暗に示せば、ムツは眉根を寄せて、黙り込み、目を伏せた。返す言葉を探していた。
こちらとしてはそこまで重く受け止められても、居心地ばかりが悪くなって気が疲れる。そしてそれは遠く、体の不調に繋がる。
この体は思うよりずっと、繊細で、心の如何に左右される。
「気を遣うなと、言っただろう」
こんな時は安心させる為にも、適当に笑っておくのが正しい選択だ。
廊下から、とたとたと軽い足音が近づいてきた。小刻みなそれは部屋の前までくると緩慢になり、敷居のところで止まった。
「あにうえ!あきむらです!おかげんどうですか?」
「アキムラ、走ってはいけないよ」
「はっ!もうしわけありませぬ」
駆け足をしたい、けれどできない、体がうずうずして自然上が動く。
アキムラはまだまだ幼く、しきたりは酷なものだと思う。だが、どこへ行っても恥ずかしくないよう、兄として厳しく躾てやるのが情というものだ。
「アキムラ」
「はいっ」
部屋には入らず、背伸びをしたり、首を傾げたり、体の横で両手をぱたぱたさせたり、落ち着きがない。動きを止めろ、と言うべきか、言わざるべきか、悩んだ。元気よく返事をする弟はそれはそれは愛らしく、元気が魅力とも言える彼から元気の良さを取り上げてもよいものか。瞬時の判断に任せるには難しい。
すると、それを見てムツが「お静かに、アキムラ様」とたしなめた。アキムラはびっくりしたのか目を瞬いて固まり、両手を下ろした。
言ってもらえて良かったと、無責任な考えが頭を過ぎり情けない。
「ごめんなさい、あにうえ。おかげんがよくないのですね?あきむら、おいしゃさまをよんできまする」
不甲斐なさに萎れただけだったが、元気がない、元気が出ない、具合が悪い!という単純思考なアキムラには具合が悪く見えたらしい。
アキムラはこれまたばたばたと騒々しく走り出す。
「よい、よい。アキムラ。」
行ってしまったかと冷やりとしたが、呼ぶとすぐに戸の影から顔を出した。
「それより、今日はどんなことがあったのだ。教えてくれぬか」
その場で駆け足をしていたアキムラは、それを聞くと足を止め、顔を輝かせて体を正面に向けた。そして廊下に正座して、少し身を乗り出して話し始めた。
「あのですね!おおあにさまが、ちちうえにほめられていらして!」
血の気が引き、目の前が灰色に霞む。心臓がぎゅううと締め付けられて、息がしづらい。顔には出さなかった為、背後のムツには気が付かれていない。ふうと深く息を吐いた。苦しさが幾分か引いた。すると心も、幾分かは軽くなったような気がした。
心の準備が足りなかった。油断した。無防備過ぎた。
間髪入れず、返事を返す。
「ほう、父上が。奇異なことがあったものだ」
「おおあにさまのかんがえたせんりゃくに、うえさまがたいへんかんしんなされたそうで。」
「さすがは、兄上、父上も、鼻が高いであろうな」
「ええ、ええ!それはもう!」
「お前もか?嬉しそうだ」
「へへ、おおあにさまですから!わたしもいつかあのように、うえさまにすごいといっていただけるようがんばりまする!」
「応援しよう。お前なら、きっとできる。お前は兄上に、よく似ている」
脳裏に浮かぶ兄は仕事をしている姿だった。大人の中で気後れすることなく、腕を組み、憮然としているようにも見える鋭い顔で凛として気高い。どこまでも冷たく、容赦がない。
不思議さに首をかしげた。アキムラと対極にいる様子だが、何に通うものを見出したのかと少し考え、アキムラの、屈託なく笑うところに、兄と同じ素質を垣間見たのだと気がつく。
兄は、弟に気がつくとぎこちなく笑い、瞳に優しい光が灯るのだ。兄が自分を見る時の目と、アキムラの目は、同じだった。
「そろそろししょうがおいでになるので、わたしはこれでもどりますね」
他にも、表の広い庭に飛んできた小鳥の話や友人の話をして、ひとしきり話し終わると半刻ほどが経過していた。
アキムラのお喋りに集中していて無自覚だったが、我に返ると体の奥にずっしりとした重さを感じた。体が鉛で出来ていたかと思うほど動かない。
「怪我せぬように、気をつけてな」
「はい…あにうえ、よくおやすみくださいね?」
不意に突かれて、驚いた。兄の陰りに気がつくようになったらしい。
アキムラの成長を感じ、嬉しくもあり、苦くもあった。
「お前も、そんなことを言うようになったか。全く、みなムツに毒されていく。早く行きなさい」
顔をしかめたのをおかしそうに笑って、アキムラは母屋に戻って行った。
「アキムラも、勘が鋭くて嫌になる」
隠しているのに、不調を敏感に感じ取って指摘する。そんなところも兄に似ている。
誰の気配も消えた部屋で、手をついて息を吐くと、いたことを忘れるほど気配を消して控えていたムツがすかさず駆け寄り、崩れかけた体を支え起こしてくれた。
ムツはまた酷く辛そうな目をしていた。
「ご無理をなさらぬようにと、申し上げておりますのに」
「弟に、情けのない姿は見せられなかろう。ただの見栄だよ。」
「横になられますか」
「いや、このままでいてくれ。少し、苦しい。もたれて良いか?」
「当たり前でしょう、私に許可をとる必要はありません。」
甘えて、ムツの胸に耳を当てると、規則的な心音が刻まれ、とても安らかな心地がした。
春の陽気は気持ちが良くて、ムツの優しさが温かくて、目を閉じてしまったらすぐにでも寝てしまいそうな暖かさに、冬はとうに過ぎたのだと知った。