落雁
王昭君が子供のころ、道で金の簪を拾った。彼女はそれを家に持ち帰ってきたが、近所の女が母親に話して、簪をなくしてしまったと言っているのを聞いた。
それで昭君はその女に簪を渡すと、彼女は礼を言って立ち去った。その後で、母親は昭君に言った。
「馬鹿だね、お前。黙ってとっておけばよかったのに」
昭君は言った。
「だって、人のものを盗りたくはないもの」
「そう言うがね、この世では誰もが奪い合いをしてるんだよ。それぐらいの気持ちがなきゃ、この世で生きていけないよ」
「私はそんなことしたくないわ。今も、これからだって……」
長じて後、昭君はとても美しかったので、人に見出されて漢王室の後宮に入ることとなった。昭君の身分にしては願ってもない出世、ではある。まだ宮女としての位は低く少使であるが、いずれは最高位である昭儀、ひょっとしたら皇后も夢ではないのでは……と、昭君を知る者は噂した。
さて後宮には多くの宮女がいたので、皇帝は自ら会いに行くことはなく、絵師に彼女らの似顔絵と氏素姓を描かせて、それを見て気に入ったものの所に通うことにしていた。
それで昭君も絵師に会って似顔絵を描いてもらったが、絵師は座について筆をとったものの、なかなか描き始めようとしない。そして昭君に言った。
「ねえ、王少使。なにかこう……こう描いてほしいという注文はありませんか?」
「え?いえ特には」
絵師は妙な表情をして言った。
「そうでしょうか?まあそれならいいですがね。しかし何というか、うーん、今日はなかなか気分が乗らないなあ」
「大丈夫ですか?別に私は今日でなくてもいいですけど」
「あ、いやいや、大丈夫ですよ。うん、わかった。描きましょう」
そう言うと絵師は何事もなかったように似顔絵を描き始めた。昭君はおかしな人だなと思ったが、絵師には変わり者が多いからだろうと思っていた。
さて後宮に入ってから半年が経ったが、どういうわけか皇帝からは全くお呼びがかからず、皇帝に会ったこともなかった。
昭君はそんなものかと思っていたのだが、昭君に仕える侍女の翠玉は言った。
「いや、それはおかしいですよ。昭君ほどの方なら、もうとっくにお呼びがかかってると思ったのに……」
それから、ふと思いついたように言った。
「あの、昭君。絵師には袖の下を渡しましたか?」
「袖の下?何のこと?」
「賄賂のことですよ。絵師に賄賂を渡さないと、ちゃんと美人に描いてもらえないんです。そうなると皇帝からもお呼びがかかりません。……知らなかったんですか?」
「え、ええ。初めて知ったけど……。でも、宮廷でまで賄賂がまかり通るなんて、そんなことあっちゃいけないと思うわ」
翠玉はやれやれとため息をついて言った。
「昭君は生真面目ですねぇ……。でも、そんなことじゃこの宮廷で生き残れやしませんよ。それに、匈奴のことを知ってるでしょう。私たちのこの漢と匈奴はいつまた戦争になるかもしれないんですから」
匈奴は北方の異民族で、強大な軍事力を背景に、漢をしばしばおびやかしていた。漢の初期には、漢のほうが匈奴に税を払っていたこともある。近頃では対等な関係になっているが、いつまた衝突があるかもしれない。
翠玉は言った。
「匈奴ってのは、強い者を貴んで弱い者をさげすみ、老人を敬うこともなく、血に飢えた獰猛な種族だと言いますわ。もしまた匈奴と戦争になれば、私たちだってどんな目に遭うことか」
「匈奴のことは知ってるけど、それと賄賂と何の関係があるの」
「ですから、そんな時のためにも皇帝の寵愛を得ておく必要があるんですよ。寵愛を受ければ、それだけ自分と自分の一族の安寧も守ってもらえるわけですからね。でもそうでない者はいざ戦争になるか、そうでなくとも何か問題が起こったら、まっ先に犠牲になるものと決まってますよ」
「そうは言うけど、宮廷でまで賄賂がまかり通るようになってしまったら、それは国を弱体化させることで、かえってそのほうが匈奴となにかあったとき不安だと思うわ。私はそんなことに加担したくない」
「そうは言いますがねぇ、この風潮は昨日今日始まったものでなし、昭君一人があらがったところで変えられるものじゃありませんよ。それならいっそその流れにのって、その中で上手いことやるのがいいと思いますがね。今からでも遅くないから、絵師に賄賂を贈りましょうよ」
「いや、私はそんなことしない」
そう告げてから、昭君は翠玉に言った。
「ごめんね、翠玉。私のわがままのために、あなたに肩身の狭い思いをさせて」
「あっいやいや、私は別にいいんです。昭君はこんな私にもよくしてくれますから、私は良い主人だと思ってますよ」
それから翠玉は、昭君の髪を結いながら言った。
「でもねぇ、昭君はこんなにお綺麗でいらっしゃるのに、絵師に賄賂をわたさないせいで、皇帝の目にとまることもないなんて、私のほうがなんだか悔しいですよ」
「いいのよ、別に。私なんてそんなに大したものじゃないし……」
さて案の定、匈奴と漢との間ではまたこぜりあいが起こったが、大事になる前に和睦しようということになった。宰相は皇帝に言った。
「幸い、匈奴の側からも申し入れがありました。ここはこちらから贈り物を送っておさめるべきだと存じます」
「それはいいが、何を送るのだ?」
「匈奴の側からは、単于(匈奴の首長)の后に漢の娘を迎えることで、両国の友好を深めたいとの話がありました」
「漢の娘を送るというのか?そのようなことを……」
「いえ、陛下。これはむしろ好条件だと言うべきでしょう。こういう政略結婚ではだいたい王族の娘が求められるものですが、向こうはそのような条件はつけていません。後宮の女を一人出せば良いだけのことです。
それに、戦国時代には越が呉に西施という絶世の美女を贈り、呉王が西施にうつつを抜かして国が弱体化するのを待ってから呉を滅ぼしたという話もございます。これは匈奴を弱体化させる好機と捉えるべきです。送られる女はまあ気の毒ですが、戦略には犠牲が付き物ですからな」
「ううむ、やむを得んか」
そこで皇帝は、後宮を管理する宦官を呼び出して言った。
「宮女たちの似顔絵を持って参れ」
宦官が似顔絵の束を持ってくると、皇帝はそれを一通り見た後、言った。
「あまり美しい者は匈奴に渡したくないし、この王昭君という者にしておこう」
宰相は言った。
「もっと美しい者のほうが良いのでは?」
「なに、気にするな。これでも普通よりは美しいほうだろう。それに、我々には匈奴の美的感覚などわからんからな」
しばらくして、昭君は皇帝から呼び出されたが、昼間だったので何事かと思った。翠玉は言った。
「嫌な予感がしますよ、昭君。ひょっとしたら、昭君が賄賂を贈らないせいで絵師の仲間に目をつけられて、なにか濡れ衣を着せられたんじゃありませんか」
「だ、大丈夫よ、多分……」
さて昭君がやってきて、初めて会う皇帝に礼をすると、皇帝はなにやら驚いた顔をしていたが、その横には宰相と後宮を管理する宦官がいた。宰相は言った。
「汝、王少使はこのたび匈奴の単于のもとに后として嫁ぐことになった。これは和睦の条件であり、このたびの匈奴との和睦が成るか否かは汝にかかっている。心して勅命を受けよ」
「は、はい」
そこで皇帝が言った。
「まあ待て、このたびはまだ正式な勅命ではない。王少使よ、この内容を考えておいて、今日はひとまず下がれ」
「かしこまりました」
昭君が去った後、皇帝は言った。
「どういうことだ!?まるで絵と違うではないか!!……いや、そういえば今までにも、実際に会ってみたら絵と違う場合が何度かあった……。今までは単に絵師の腕の問題だと思っていたが、これほど違うとあっては……。宦官、どういうことだ?」
宦官は慌てて言った。
「さ、さあ……。何せ絵師の絵のことまでは私にも……」
「何か怪しいな。後宮を管理する立場でありながら、お前にもわからぬと申すのか?言っておくが、何か知っていながら私を騙すつもりだとしたら……ただでは済まさぬぞ。だが、正直に言えば許してやる」
宦官は観念して言った。
「そ、それでは申し上げますが、あの絵師は宮女たちから賄賂をとって、賄賂を渡したものは美しく描き、そうでない者は醜く描いていたのです。絵師はその賄賂をもとにしてさらに根回しをしていたので、私は絵師の仲間を敵に回すことを恐れて言い出せないでいたのです」
「うむむ、何ということか……」
皇帝は立ち上がって言った。
「絵師を引き出して、打ち首にしろ!!」
そして言った。
「あの王昭君を匈奴に渡すわけにはいかぬ。別の者を選ぼう」
宰相が言った。
「お待ちください。それはなりません」
「なぜだ?」
「単于の后として送る者の氏素姓はすでに先方に伝えてあります。その上で別の者を送ったりすれば、向こうはこちらが不誠実だとして大いに怒るでしょう。そこから全面戦争にもなりかねません。
たとえ別人を王昭君になりすまさせて送ったとしても……。送った女人が向こうでその先何年生きることになるのか、我々には計り知れません。短期間ならともかく、何十年にもわたって騙し続けるのは容易ならぬこと。そして先ほどの絵師が良い例ですが、『欺かれていた』ということを知った場合、それは激しい怒りを引き起こすものとなりかねません」
「うむむ……」
さて、己の部屋に戻った昭君に、翠玉は言った。
「そんなの、何かの間違いですよ!賄賂仲間の連中の根回しですよ!どうせあの適当な似顔絵だけ見て決めたに決まってます!」
「そ、そうね……」
「もう一度、陛下に会いましょう。待っててください、私が宦官に話を通してきますから!」
翠玉が行ってしまったあと、昭君は壁を背にして思い悩んでいたが、そこへ声がした。
「誰か代わりの者に、匈奴のもとへ行ってもらうつもりなのね?」
昭君がそちらを見ると、別の宮女が一人立っていた。皇后を除けば、今もっとも皇帝のお気に入りだともっぱらの噂の宮女である。彼女は言った。
「まあ、そりゃそうよねぇ。誰も恐ろしい匈奴のもとになんて行きたくないもの。でも、あなたは知ってるの?もう向こうには誰を送るか氏素姓も伝えてあるってこと」
「え?どうしてそんなことを知って……」
「別に?噂で聞いただけよ。嘘だと思うなら、今から会うときに聞いてみれば?それにしても、一度約束しておいて、もしそれで違う人が来たら、きっと匈奴の単于は怒るでしょうねぇ。戦争になるかも知れないわ。そうしたら、またどれだけ多くの人々が犠牲になることやら……。可哀想なことね」
「……」
「それに、たとえあなたが行かないとしても、あなたの代わりに誰かが行くことには変わりないわ。その人には気の毒な話だけど……、でもまあ、そんなことどうでもいいわよね。誰だって、他人を犠牲にしてでも自分が助かりたいに決まってるもの。あなたがそうするのも当然よね。ま、私には関係ないことだけどね」
そう言って立ち去る宮女。昭君はそのまま壁を背にして立ち尽くしていた。そこへ翠玉が戻ってきて、言った。
「昭君、宦官に話を通してきましたよ。さ、陛下のもとに参りましょう。大丈夫ですよ。陛下も実際に昭君を見て心が揺らいだはずですし……」
「ありがとう、翠玉。でも私、やっぱり匈奴のところへ行くことにするわ」
「えっ!?何言ってるんですか、駄目ですよそんなこと!!そうか、何か吹き込まれたんですね!?そんなこと聞いちゃ駄目ですよ!」
そこへ宦官がやって来て言った。
「王少使、拝謁の準備は良いかね」
「ええ、陛下にお別れを告げに参ります」
「昭君!」
「ごめんね、翠玉。でも、これが一番いいことだと思うから」
かくして、昭君は匈奴の単于のもとに嫁ぐことになった。昭君を送る人々の列は北方の緑少ない岩場を行き、昭君の乗る輿もそれに合わせてガタガタ揺れる。
普段は弱音を吐かない昭君も、今日はさすがに不安そうにうつむいて、漢から持ってきた琵琶を抱いて外を眺めている。
せめて国境まではと付いてきた翠玉は、かたわらの昭君に言った。
「大丈夫ですよ、昭君。実際に会ってみたら、匈奴もそう悪い人たちじゃないかもしれませんし……。それに、李姫の故事もあるじゃないですか。結婚する前はそれが嫌で泣いていたけれど、あとから幸せになれたので泣いたのを悔やんだという」
昭君はそれを聞いて、ふっと笑って言った。
「あなたも、そんなことを言うのね。漢にいた頃はさんざん匈奴は恐ろしい人たちだと言っておきながら、いざ逃げられなくなったら意外と悪い人たちじゃないかもしれないなんて、調子のいいことを」
「そ、それは……」
それから昭君は首を振って言った。
「ごめんね、翠玉。私のために言ってくれているのに、嫌味なんか言って。心配してくれてありがとう。でも私は大丈夫。ただちょっと、不安になっただけだから」
「昭君……」
「大丈夫よ。それに実際、匈奴だって会ってみれば、噂のような人たちじゃないかもしれないし」
さて途中で休憩することになり、昭君は外に出て岩の上に座り、琵琶を出して言った。
「ねえ翠玉。昔の琴の名人が琴を弾いたら、天地がそれに感応して天変地異が起こったという話を知ってる?」
「え、はい」
「もし私がここで琵琶を弾いて天変地異が起こったとしたら……そして雷が落ちてきて私が死んでしまうとか、地割れが起きて死んでしまうとかしたら、さすがに匈奴も天意をはばかって漢の娘を求めるのをやめるかも知れないわね。彼らは『天の驕児』なんて自称しているそうだけれど、驕児もたまには怒られれば大人しくなるだろうし」
「……そうですね」
翠玉は思う。まさか昭君も本当に天変地異を起こせるなんて思ってはいないだろう。そんな奇跡にすがりたくなるほど切羽詰まった思いなのだ。
昭君は琵琶を弾いた。その演奏は確かに見事なもので、昭君の美しさとも相まって、神仙の演奏のごとく見える。
そうして演奏していると、向こうから雁の群れが飛んでくるのが見えた。そして雁の群れは昭君の演奏する上を通り過ぎる……と、旋回してまた戻ってくる。そして昭君の上空で、昭君を巡るようにしてぐるぐる廻り始めた。まるで、雁まで昭君に魅せられたかのようである。
「おお、こ、これは……」
翠玉は立ち上がって雁たちを眺めた。その他の者たちも、この光景を眺める……と、雁たちは羽ばたくのをやめて、体がしびれたように空からいっせいに落ちてきた。雁たちは首を昭君のほうに向けて、まるで昭君に見とれているかのよう。その光景はさながら、その昔、西施が川で洗濯をしていたら、川の魚が西施に見とれて泳ぐのを忘れたと言われる伝説と同一である。
「すごい……」
本当に天地が感応しているのだ、と翠玉が思ったところで、突然昭君は演奏をやめた。雁たちは思い出したように羽ばたいて、ゆるやかに岩場に降り立った。翠玉は昭君のほうを向いて、言った。
「昭君!なんで演奏をやめてしまったんですか!?せっかく天変地異が起こってきていたのに!」
「いや、その……」
「昭君!」
「だって、あのまま雁たちが落ちてきたら、彼らが頭をぶつけて死んでしまうと思ったから……」
「昭君……この期に及んで……」
「ごめんね、翠玉。でも、どのみち雁を落としたくらいでは天変地異とまではいかないし、やはり私には力不足だったのよ」
雁たちは、岩場におりてきた後も昭君を囲んでじっとしていた。そこで昭君が再び琵琶を弾きはじめると、雁たちはそれに聴き入るかのようにたたずんでいたが、演奏に合わせて翼を羽ばたかせ、首を伸ばして、天を仰いで鳴き声を上げ始めた。
昭君の琵琶に雁の鳴き声が合わさって、ますますこの世のものならぬ光景に思われてくる。昭君は雁たちに言った。
「お前たちも嘆いてくれるのかい?ありがとう。これで私も、過去を捨てることができそうだよ」
そう言って琵琶を奏でる昭君と、集まって鳴く雁たちの姿を見て、そこに集まった人々もまた涙を流すのだった。