希望に満ちた新生活。
クラス担任の発表。敬くんの希望は残念ながらはずれて、僕の希望もはずれることになる。眼鏡をかけた、どこか気難しそうな先生が、僕たちの先生だと発表された。
加河先生。声が低くて、パパよりもちょっと年って感じのする先生。パパが三十五歳だから、四十くらいなのかなぁ……って、勝手に思い込んだ。
「あーぁ。美人な先生は隣の三組かぁ」
「綺麗なひとだったね、本当に」
若々しい先生だった。新任の先生かもしれない。隣のクラスの男子からは、歓声があがるほどの人気ぶりだった。
(男って、単純だなぁ……)
僕は、同じ男としてちょっとだけ恥ずかしくなった。女の子たちは、格好いい先生がいいなんて、一言もこぼしていなかったからだ。
僕たちは、体育館から教室へ戻ってくると、自分たちの席に着いた。相変わらず、ひとり空気が重いのは宮野くんの席だった。
「あいつには、関わらない方がいいんだ。誠也、お前も気をつけろよ?」
「……」
僕は俯いた。苦手だって思ったのは事実。だけど、僕は友達になろうって思ったのもまた事実だし、何より宮野くんは、僕と同じクラスになれたらいいって、言ってくれたひとだ。そう簡単に裏切ってはいけないと思えたんだ。
「どうした?」
「僕、話してみる」
「誰と?」
敬くんは、眉を寄せながら僕の顔を覗き込んできた。それを見て、僕は宮野くんの机の方に顔を向けた。
「宮野くんと」
「やめとけよ。触らぬ神に祟りなし……っていうじゃん?」
「でも、僕は宮野くんのこと何も知らないから」
「だから?」
「好きとか、嫌いとか。そういうのは、そのひとのことをちゃんと分かった上で、するものだと思うんだ」
「……誠也」
敬くんは、僕をじーっと見つめて、頭をぽかっと軽く叩いてきた。何事かと、僕は敬くんの顔を見た。
「なに? 敬くん」
「お前さ、お人よし過ぎるぞ」
「そんなことないってば」
お人よしって。そういえば、公園で宮野くんからも言われたなぁ……って思い返した。ひとがよさそうだから、同じクラスになりたいって。あれって、どういう意味だったんだろうと、不思議に思えた。
ただ、やっぱり簡単にひとのことを嫌いになんかなりたくはなかった。せっかく、一緒のクラスになれた縁もあるんだし、一緒に一年生活していくんだから、相手のことをよく知って、仲良くなれたらこれ以上のことはないって思う。
「先生が来たぞ」
クラスのひとりが、廊下から顔を出して先生の動向を確認した。僕は、宮野くんに声をかけるタイミングを逃して、仕方なく自分の席について静かに先生を待った。
クラス名簿と、プリントを持った先生は、ガラっとドアを開けると中に入って来た。気難しそうな顔をしているけど、思ったより怖くなさそうだと感じた。それは、先生の目が穏やかだったからかもしれない。
「ホームルームをはじめる。みんな、席につきなさい」
先生がそう言うと、みんなざわつく声をおさえて自分たちの席に戻った。宮野くんの方を見てみると、先生の居る教卓の方ではなく、廊下の方をつまらなさそうにしながら、頬杖をついて見ていた。何を見ているのかなぁ……って、純粋に気になった。
「そこ、よそ見しない」
「!」
さっそく注意をされてしまった僕は、顔を赤く染めながら、もじもじと自分の机を見つめた。先生に注意されることは、これまであまり経験してこなかったから、なんだかどんな顔をして聞けばいいか、分からなかった。ただ、恥ずかしくて、ちょっぴり情けなく思った。
「いいかい? キミたちは今日から中学生だ。児童じゃない。生徒になったんだよ。その言葉の意味を考えながら、有意義な学校生活を送ってもらいたい」
(児童じゃない……生徒? そっかぁ。児童会じゃなくて、生徒会っていうもんね)
僕は、ほぅほぅと頷きながら、先生の言葉を反芻しながら聞いていた。でも、児童と生徒って、言葉は変わったけど、実際僕の身体に何か変化が出たワケじゃないし、何を思えば成長したと気づけるのか、分からなかった。
「明日のホームルームで、まずは学級委員を決めます。続いて、各委員、班長を決めます。それぞれの役割について、簡単な紹介を書いてきましたから、家でよく目を通してくるように。今から配ります」
そして、先生は席の一番前のひとに列の人数分のプリントを渡すと、また次の列へと移っていく。とても、淡々とした先生だなぁ……というのが、今のところの印象。僕のところにまで、プリントが回ってくると、そのプリントを見てちょっとだけびっくりしちゃった。
(入学おめでとう……)
その先に、先生の手書きだろうか。すごく達筆で「希望」というが書かれていた。それを見て、僕はなんて美しくて力強い文字だろうって、こころが弾んだ。
「キミたちには、無限の可能性と希望が秘められています。先生は、その希望を信じます。みんながこの一年で、少しでも自分の描く夢の世界に近づけるよう、協力しあい、生活していきましょう」
中学校って、やっぱり違う!
僕は、こころの底からそう感じた。
宮野くんは、中学の入学式なんて……とか、大した意味を持たないように感じ取っているようだったけど、小学校と中学校では、全然モチベーションが違うよ。小学校の先生も、希望に満ちたことを発信してくれていたけれども、中学になると、こんなにもひとつの言葉に重みが生じるんだ。僕は、ドキドキが止まらなかった。
(宮野くんは、なんで中学に期待していないのかなぁ……)
僕は、不思議に思えてしまって、やっぱり後から声をかけようって、決めた。
「それでは、今日はここまで。寄り道しないで帰るように。親御さんと帰るのも、いいでしょう」
そういって、先生は教室を後にした。そこからは、久々の再会をした旧友と話し合う子。一緒に親御さんと帰ろうとする子。とにかく、ザワザワとした空間となった。敬くんもその中のひとりで、式に来ていたお母さんを見つけて、何か話している様子だった。
そんな中、宮野くんはもう帰ろうとしている様子だったから、僕は窓際の自分の椅子から立ち上がると、すぐに廊下側の宮野くんの机へと向かって急いだ。
カバンを肩にかけて、立ち上がる宮野くんを止めようと、僕は声をかける。
「宮野くん! 待って、一緒に帰ろう!」
「……片瀬」
宮野くんは、やけに不思議そうな顔をしてみせた。それがどうも不自然に感じた僕は、首を傾げた。
「やめておけ」
「……なんで?」
そのとき、宮野くんはひどく冷たい顔をしてみせた。僕と比べて、どれくらい背丈が高いんだろう。成長期が早いのか、声も僕や敬くんよりも、低かった。
「なんでって……分からない奴だなぁ。俺は、問題児なんだよ。聞いただろ?」
僕は、このとき。ただ、宮野くんが悪いひとには思えなかった。悪いのは、みんなの方だって、そんなところまで感じ取れた。
「僕は、宮野くんから何もされていないよ」
「……」
「それとも、宮野くんは僕に何かするの?」
「……っ」
宮野くんは、顔をしかめた。そこにどんな思いが隠されているのかを見破ることが出来るほど、僕は大人じゃない。ただ、表情の変化を読み取ることくらいなら、出来た。
「お前ん家。どっち方面?」
「朝会った公園。あそこをもっと、東に行った方だよ」
「ふーん」
宮野くんは、それだけ言うと歩き出した。それを見て、当然のように僕も後に続く。敬くんは、きっとお母さんと帰るだろうし、また、明日も学校で会えるんだし、特別声をかける必要はないかな……と、思っていた。
「公園までな」
「うん!」
僕は、応えてくれた宮野くんの言葉が嬉しくて、カバンを手に持って、るんるん歩き出した。
その光景は、他の「生徒」からしたら、異様な風景だったらしい。
「片瀬。お前、ひとりっ子?」
「ううん? 弟がひとり居るよ?」
僕と宮野くんは、朝出会った公園のベンチに、同じように座って、おしゃべりをしていた。こうして話していると、全然宮野くんは、みんなが恐れるような問題児には、とても思えなかった。
確かに、目つきはキリっとしているし、背丈も僕たちやみんなよりも高いし、声は低めだし、身体つきも華奢じゃないから、小さな子とか、女の子から見たら、怖いのかもしれない。でも、内面を見てみると、全然怖さなんてなかった。
「へぇ。弟、いくつ?」
「今、二つ。今年で三つになるよ」
「まだチビじゃん」
「うん。保育園でみてもらってるんだ」
「保育園? なに? 片瀬んとこ、共働き?」
僕は、首を横に振った。
「ううん。パパは仕事で、ママは入院しているんだ」
「……そう」
宮野くんは、目をうっすら開けているだけの状態で、また、どこか遠くを見ているようだった。
「宮野くん?」
「だから、入学式に誰も来れないんだな」
「あ……うん」
宮野くんは、とても申し訳なさそうに、バツが悪そうな顔をして僕のことを見ていた。
「宮野くんは? どうして親御さんに入学式のこと、伝えなかったの?」
「あぁ? 言っただろ。そんなもん、どうでもいいんだよ。俺は」
「……なんで? せっかくの式なのに」
「そんなもんに出るくらいなら……」
そこで、宮野くんは言葉を切った。続きがありそうだったから、僕はさえぎることをせずに待ってみたけど、その先を続けることは、なかった。だから、待ちきれなくなった僕は、言葉を続けた。
「何か、理由があるんだね?」
「別に」
ぷいっと、宮野くんはそっぽを向いた。
(あ、分かりやすい反応……)
僕は思わず、くすくすっと笑ってしまった。それが、宮野くんにとっては、面白くなかったらしい。
「なんだよ。笑うなんて、失礼だぞ」
「ごめん、ごめん。分かりやすいなぁ……と、思って」
「……あっそ」
そっけなく答える宮野くんの耳は、赤く染まっていた。
それから僕たちは、昨日テレビでやっていたドラマの話だとか、最近好きな漫画の話だとか、そんなことばかりをおしゃべりしていた。話しはじめたら、宮野くんはみんなが言うような、問題児にはますます見えなくなったし、むしろ、漫画好きでお笑いも好きな普通の中学生だってことが分かった。
「あ、もう昼過ぎだ。帰らないと」
そういって、言葉をやめたのは宮野くんだった。僕はのんきで、お昼ごはんを食べなくちゃいけないからかなぁ……なんて思って、立ち上がった。
「宮野くん。明日もよかったら、一緒に帰ろうよ」
僕がそう言って宮野くんの顔を見ると、宮野くんは「うーん」と、何かを考えているようだった。僕を邪険にしている訳ではないことは、分かった。ただ、即答もできない事情があるらしい。
「それは、明日になってみないとなぁ」
僕は素直に頷いた。
「うん。じゃあ、また明日ね」
「あぁ」
そして、僕は東の方へ向かって歩き出し、宮野くんは北の方に向かって歩き出した。
程なくして、僕は自宅にたどり着いた。もう、塗装もはげていてボロボロの家だけど、二階建ての一軒家だ。おばあちゃん家は遠くて、パパがこの辺りを売りに出していたときに、安くて良い物件だと、購入したそうだ。
僕のパパは、大手の住宅販売業者に勤めている。ママと知り合ったのは、大学生のとき。パパもママも、別々の大学に進学していて、たまたまある小さな駅で、出会ったそうだ。そこで、パパはママに一目惚れ。ママに勇気をもって声をかけたのが、はじまりだと聞いている。要するに、ナンパっていうものだ。
「ただいま」
誰の声も返っては来ない。それは分かっているけれども、習慣として、きちんと挨拶はするようにしている。
ママは、病気になる前は働いていたから、僕はもともと鍵っこだった。だから、こういう静けさには慣れている。でも、ママが台所に立つ姿を、もう全然見ていないから、あの慌ただしく動く様子、台所から香ってくるママの手料理。それは、懐かしく思えた。
ママとパパの寝室は二階にあって、僕の個室も二階にあった。でも、七海が生まれて、ママが入院してからは、七海を階段から遠ざけるためにも、パパは一階にある和室で七海と布団を敷いて寝るようになった。僕も、最初の頃は自室のベッドで寝ていたけれども、ひとりで寝るのが寂しくなってしまって、最近はよく、三人川の字になって、和室で眠っていた。
でも、今日からは僕も中学生になった訳だし、これまで通りには過ごしていけないとも思ったし、けじめというものをつけようと思って、久しぶりに自室で眠った。そのため、ドキドキが加速して、あまり眠れなかったのかもしれない。パパと七海の落ち着いた寝息は、僕に知らないうちに安心感を与えてくれていたみたいだ。
学校の宿題も、小学生のときは自室の机ではなくて、居間にあるテーブルの上か、コタツの上でやってきた。愛着のある、七海のよだれで汚れているテーブルだ。
「あ……」
テーブルの上に、ラップがかけてある料理が置いてあることに気づいた。置手紙もある。パパからだ。
あたためて、お昼に食べなさい。パパより
「……パパ」
僕は、目にいっぱい。涙を浮かべた。パパは、いつだって僕のことを考えてくれている。忙しい中、これは朝食とは違うメニューだ。僕のために、作ってくれていたことを知って、パパの優しさと、自分の未熟さに、涙があふれた。
「パパ、ありがとう」
僕は、ラップのかかったチャーハンを手に取ると、電子レンジで温めて、それをまたテーブルに持ってきて、鍋敷きを下にして、皿を乗せた。そして、手を合わせる。
「いただきます」
お腹もいい具合に空いていて、僕はガツガツと口の中いっぱいに、チャーハンをほおばった。涙でちょっとだけ、塩味が増していた。