春から僕は中学生。
桜の花びらが散りはじめた頃。僕は、とうとう憧れていた学生服の袖に手を通して、今までとは違う、授業ノートを持って、胸おどらせながら目覚まし時計が鳴るより早く、朝。目を覚ました。僕が起きて居間へやってくると、すでに起きていて、朝ごはんを作ってくれているパパの姿があった。エプロンを着用するほどの徹底ぶりで、世間からは「若くていい男」と呼ばれているけれども、僕からしたらそれは「主夫」ではないかと、思えてくる容貌だった。
「あぁ、誠也。起きたか?」
「起きたよ」
ルンルン気分で、パパは仕上げにかかり始めた。大量のふわふわ卵を作っている。
「七海も起こしてくれないか? 寝起きはぐずりやすいからなぁ。でも、今日はパパも朝、そこまで時間がなくってさ」
それでワイシャツ姿にエプロンなんていう、ちぐはぐな格好をしているのかと、ひとり納得をした。ただ、そこで気になったことを口にする。
「パパ。今日、僕入学式だよ?」
「……そう、だったな」
忘れていたんだ……と、実に分かりやすい表情をしてくれた。そもそも、小学生の頃は、こんな制服着ていなかったじゃないか。どこまでも目が節穴になったものだと、ため息を吐いた。
(パパにとっては、僕なんてどうでもいい存在なんだ……きっと)
僕は、少なからず落ち込んだ。いつだって、七海、七海って。そりゃあ、七海はまだ小さいし、手がかかるっていうのは分かる。僕にとっても、可愛い唯一の弟だし、目に入れても痛くないっていう表現ができるほど、可愛がってる。
でも、僕だってまだ子どもだ。
子どもとして、パパに甘えたいっていう気持ちがあった。
「悪い……そう、だよな。だから学ラン着ているんだよな」
パパは、しまった……と言わんばかりの表情で、頭をかいていた。そんな様子を見て、僕は大きくため息を吐いた。パパに、こんな顔をさせたいわけじゃないからだ。
「いいよ、パパ。仕事なんでしょ? 七海を保育園へ連れていくのは?」
「パパが連れていくよ。誠也、本当にすまん! この埋め合わせはいつかする!」
(いつかって、いつだよ……)
僕は、すやすやとパパの部屋で眠る七海の方に無言で歩いていく。その様子を見て、パパは焦りを覚えたらしい。ガスを切ると、せわしく僕の方へと駆け寄って来た。
「誠也。パパが悪かったって。ここのところ、残業続きで……つい」
「別に、怒ってないから」
嘘。心底怒っていた。僕は、そんなにも出来た人間じゃないし、大人じゃない。人生で一度きりしかない、大切な行事のひとつを、蔑ろにされた気がして、悲しくて仕方なかった。
だけど、駄々をこねてもパパが入学式に列席できるようになるわけじゃないことだって、分かっている。だから、僕は必死に諦めようと自分自身に言い聞かせた。
「七海、起きて。パパが呼んでるよ」
「ぅー……」
「ほら、おっきするの。朝ごはん食べないと、置いていかれるよ?」
「えぐえぐ」
「……」
なんで泣くのか。泣きたいのは、僕の方なのに。七海には、パパが居るのに。ずるいよ。弟は、ずるい存在だとしみじみ思った。同時に、お兄ちゃんは損をする存在だって感じた。
「もう、知らない」
「誠也。七海に当たらなくてもいいだろう?」
「にぃにぃ?」
「……ふたりで、仲良く生きたらいいじゃないか! いいよ、僕にはママが居るから!」
「誠也!」
僕は乱雑にカバンを手に取ると、朝ごはんなんて食べたい気分じゃなくなって、涙をこらえながら玄関を飛び出していった。
まだ、たった二歳っていう弟にヤキモチなんか妬いて、格好悪いっていうのは自覚している。だけど、せっかくの新しい学校生活が、こんなにも苦しいはじまりになるなんて、昨晩までは思ってもいなかったから、それが悲しくて、悔しくて、胸が苦しくなった。
(こんなはずじゃなかったんだけどな……)
まだ、学校へ行くには早すぎる時間だ。僕は、通学路の途中にある公園で足を止め、ベンチに腰を下ろした。
桜が散っていくその様は、どこか儚くて。寂しさを募らせるものがあった。
(僕って、まだまだ子どもなんだ。本当に……)
僕には、パパもママも必要な、手のかかる年頃なんだって思った。七海の子守りは、別にイヤイヤしているワケじゃないし、むしろ、可愛くて仕方のない弟だから、好きでやっているところがある。でも、いつもお兄ちゃんをしていられるほど、僕はしっかりしていない。
ママには、自由に会えない。ママの病気は、それだけ治るのが難しいんだって、パパは言っていた。お花見に行ったときのデジカメの写真は、パパと七海と三人でママの病室へ行って、見せてあげられた。外の景色を、もう随分と見ていないママは、僕たちが見て来た景色を共有できて、幸せだって言っていた。
(ママ、治らないのかな……)
そんな不安が、頭をよぎった。ママの顔は、どんどん痩せていくし、笑顔もだんだん、少なくなってきたような気がする。僕たちの前では、いつだって笑顔でいてくれるけど、帰るねって背中を向けた瞬間、とても寂しそうな顔をするんだ。もう、二度と会えないんじゃないかって、不安になるほどその表情はつらそうだったから、僕はパパに聞いたんだ。
ママ、治るよね?
パパは、いつもの優しい表情で「もちろん」と答えてくれたけど、大人は必要なときには簡単に嘘を吐くものだから。その言葉を鵜呑みにして、安心することは出来なかった。
パパを信じていないワケじゃないけど、最近のパパは、僕との約束ごとを疎かにしているし。なんだか、パパのことが分からなくなっていた。
(こんなモヤモヤした気持ちで、新学期なんて迎えたくなかったよ……)
僕はまた、大きなため息を吐いた。
「子どもの癖に、やけに大きなため息つくんだな」
「!?」
ひとの気配なんてしていなかった。それなのに、気づけば背後に僕と同い年くらいの少年が立っていて、僕のことを見下ろしていた。髪の毛は短髪で、目はくっきりとした二重。だけど、僕の目よりはやや細くて、凛々しさがあった。
(こんな顔、見たことないけど……)
僕の学区の小学校には、居なかった。でも、服装は同じく学ランで、同じ校章の入った大きなスクールカバンを持っている。制服がピシっと新しいものみたいだったから、同じく一年生なんじゃないかなと、推測できた。
「お前も、鈴蓮中学?」
僕の通う中学校の名前だ。僕は頷くと、その少年の顔をじっと見た。本当に、男の僕から見ても格好いい少年だ。女の子にモテそうだって、勝手に判断した。
「うん。今日、入学式なんだ」
「知ってる。俺もそうだからさ」
少年は、僕の隣に腰をおろした。まだ、学校へ行くには早すぎる時間なのに、どうしてこんなところにいるのか、不思議に思った。
「あ、今。なんでこんな時間にここに居るのかって、不思議に思った?」
「えっ!?」
こころの中を見透かされたと思って、僕は思わず素っ頓狂な声をあげた。あまりにもびっくりしたんだ。
「お前、顔に出やすいんだな。子どもみてぇ」
「なっ……キミだって、子どもでしょ!?」
ムキになっている時点で、僕の方が子どもだって主張しているようだったけど、そんなことにも気づけないでいた。そんな僕を見て、少年はククっと笑った。
「確かに? でも、お前よりは大人だと思うぜ」
「……あっそ」
僕は、ムカムカとする気持ちを必死にこらえようとしながら、立ち上がった。すると、少年は唐突に僕の左腕を掴んできた。何かと思ってそっちに目を向けると、さっきまでの僕をどこかで馬鹿にしていそうな表情は消えていて、影を落とした目をしていることに気が付いた。
僕は、何か悪いことでもしたのかと、自分の行動を振り返って見たけど、どちらかといえば、傷つけられたのは僕の方だと思って、どうしたものかと頭を悩ませた。
「もう少し、付き合ってくれよ」
「えっ……な、なんで?」
断ればよかった。こんな、見ず知らずの失礼なひとのことなんて、放っておけばよかったんだ。だけど、聞き返してしまったから、そうもいかなくなった。
「……」
少年は、黙ったままだった。目を細めているその先に、何を見ているのかは分からない。ただ、この場を去るタイミングを逃した僕は、再びベンチに腰を下ろした。
「なに、見てるの?」
「学校なんて、行ってる場合なのかな……って」
「?」
「中学までは義務教育だから、仕方ないか」
「義務だから、中学にいくの?」
僕は純粋に少年の言葉を不思議に感じた。僕はただ、学校へ行くことが好きだから行くし、勉強だって、苦手だけど先生に新しいことを教えてもらえるっていうことは、ワクワクするから、授業はどの教科だって、面白いと感じていた。だからこそ、新しい学校。中学っていう世界は、どんなものなのかって、ドキドキして早起きしたくらいだ。それだけ、期待と希望に満ちていたのに、この少年からはそれがまるで感じ取れない。
「そうだ。義務じゃなければ、行かねぇよ」
「学校が嫌い?」
「好きとか、嫌いとか。そういうんじゃない」
「じゃあ、なに?」
「……」
少年は、いぶかし気な目で僕を見て来た。
「お前、まっすぐな奴だな。今時、お前みたいな奴はそうは居ないぞ?」
「どういう意味?」
「お前、名前は?」
はぐらかされたと思った。だけど、この少年にはどう切り返しても、勝てる気がしなかったから、僕はあきらめた。
「片瀬誠也」
「片瀬な」
「キミは?」
「宮野だ」
そういって、宮野くんはにっと笑みを浮かべた。
「同じクラスだといいな」
どうして彼がそう思ったのか。僕には想像もつかない。会ったばかりだし、僕は彼について何も知らない。苗字だけ教えてもらっただけで、彼がどこに住んでいるのか。何を考えてここに居るのか、まるで分からないんだ。だけど、彼は本当に僕と同じクラスであることを、望んでいるように見えた。それが、不思議だった。
「なんで?」
だから、僕は素直に尋ねることにした。
「お前、ひとがよさそうだから」
「……?」
「親の教育っていうの? いい親なんだろうな、きっと」
僕はそれを聞いて、今朝のパパのことを思い出した。あんなにも気ずついたはずだったのに、宮野くんに出会ってから、すっかり記憶のそとへといってしまっていたことに、僕は驚いた。そして同時に、なんだかパパに悪いことをしちゃった気がして、罪悪感が襲って来た。
「パパも、ママも、優しいよ」
本心だ。僕は、両親のことを大切に思ってるし、大好きだ。もちろん、七海のことも。でも、それは当たりまえのことなんじゃないのかな。僕は首を傾げた。
「宮野くんのパパとママは?」
「さぁな」
また、誤魔化されたと思った。ただ、踏み込んでほしくない領域なのかもしれないって、感じ取った僕は、それ以上首を突っ込むことをやめた。
僕の友達の中に、親を悪く言うひとはこれまでいなかった。だから、それが当たり前の世界だって思っていた。世の中はみんな、そういうものなんだって思って信じて疑わなかった。
親は、子どもを愛してくれるし、子どもは親のことが大好きだって。そう思えるのは、実は幸せな環境にいる証拠なんだってことに、思えはじめた。
「宮野くん」
「ん?」
「一緒に、学校いかない? ここ、通学路なんでしょ?」
「あぁ、そうだけど。なんでだよ。学校くらい、ひとりで行けるだろ?」
彼は眉をひそめて、不思議そうにしていた。彼はもしかして、小学校でも友達とか、そういう付き合いをしてこなかったんじゃないかって、思えた。
「僕、キミの友達になりたい」
「なんだそれ」
「ダメ?」
「やめとけ」
彼は立ち上がると、どこか遠くを見ていた。その様子が、なんだか寂しそうに見えてしかたなかった。
「お人よし過ぎると、人生疲れるぞ」
「僕は、普通だよ」
彼は、手のひらをヒラヒラとさせると、僕に背を向けて歩き出した。一緒のクラスを望んだのは、彼の方なのに……どうして、一緒に学校へ行くことは拒むんだろうって、僕にはわからないことだった。
彼がここを去ってから、しばらく僕は考え込んでしまって、立ち上がることが出来ずにいた。でも、入学式の時間が迫ってきたから、僕も学校に向かって早足で歩きだした。
(何なんだ、今日は……ついてないのかなぁ)
パパは式には来られないし、宮野くんという謎めいた少年はワケが分からないし。こんなにも混乱しながら、せっかくの記念日を迎えないといけないなんて、ついてないって思った。