中編
「もうお兄様とは呼んでくれないのか?」
研究所で。
休憩にお茶とお菓子をいただきながら、ユリウス様が悲しそうに言った。さりげなく直したつもりでいたのに、ユリウス様は気づいていたようだ。
なんと答えたらいいものか。
子供の頃は、ユリィお兄様と呼んでいた。だけど、いつまでもお兄様、なんて呼んでいたら女として見てもらえないのではと無理やり直した。
返答に悩んでいると、アヴィお兄様が代わりに言ってくれる。
「もうお兄様という歳ではないからじゃないかな」
「おいアヴィ。俺はまだ二十六だぞ」
遊びに来ていたレイスお兄様が加える。
「メルからすればもうおじ様だろう」
「おい、お前たち二人とも俺より年上だろう」
アヴィお兄様が綺麗な笑顔を浮かべて手を叩き、おそらく悪気なく言う。
「ユリウスが僕やレイスより老けて見えるからじゃないかな?」
アヴィお兄様は時々悪気なくとんでもなく失礼なことを言う。
レイスお兄様は声をあげて笑っている。
「おい、お前たち本当は俺のことが嫌いだろう」
「ええ?いい友達だと思ってるよ?」
「そうだね。そんなことないよ。僕もお前のことはわりと気に入っているよ」
アヴィお兄様が私の頭を撫でながら、言い聞かせるように言う。
「でも僕のことはずっとお兄様と呼んでほしいな」
レイスお兄様も続けて僕もだと言う。
「メル、そいつらが三十になったらおじ様と呼んでやれ。喜ぶぞ」
ユリウス様が、「洗脳するな」と言いながら私を引っ張って抱きしめてくる。レイスお兄様は口笛を吹いて、アヴィお兄様はクスクス笑っている。
「そいつは昔から独占欲が強いんだよメル。苦労するぞ」
レイスお兄様は脚を組んで腕を組んで、わざとらしく溜息をつく。アヴィお兄様はうんうんと頷いている。
「昔はメルのお母様の後をずっとくっついて、結婚する!なんてことも言っていたよね、ユリウス」
「いつの話だ!そんな話をミラの娘の前でするなアヴィ!変な目で見られるだろう」
お母様の後をくっついて、結婚を迫って……?
お母様の……。
ユリウス様に恋人がいたと聞いたことがない。もしかして、もしかして昔の恋を引きずっている?ユリウス様はお母様のことを……。
ちょっと、泣きたくなった。
***
「お母様はどうしてお父様と結婚したのですか?」
夕食の最中そんなことをうっかり訊ねて後悔した。ユリウス様のことで頭がいっぱいで、訊くタイミングを思い切り間違えた。
普段マナーが完璧なお父様はフォークを床に落として、弟は少し水を噴き出した。お母様は特に動揺した様子もなく、微笑んで首を傾げている。
「突然どうしたの?」
「えっと……」
お父様はまだ固まって動かない。
弟は口元を拭きながら大袈裟な溜息をつく。
「やめてくださいよ。自分の親のなれそめなんて、生々しくて聞きたくありません」
「あらフィル、最近失礼な発言が多いわね」
お母様は弟に向かって一度唇を尖らせて、すぐ私に視線を戻した。
「そうねえ……それはやっぱり、お父様のことを愛していたからじゃないかしら」
「けど……お父様より素敵な男性だっていたでしょう?たくさん」
ユリウス様とか、ユリウス様とか、ユリウス様とか。
「姉上は父上に何か恨みでもあるんですか…?」
弟がお父様をちらちら見ながらつぶやく。可哀想にと。
「うぅん……。そうね。お父様のことを、世界で一番素敵な人だと思ったことは今までにないかもしれないわね」
「君……俺も傷つく時は傷つくと若い頃から何度も言ったよね」
お父様が俯いてお母様にやめてくれと訴えるけれど、お母様は華麗にスルーしている。
「だけど、貴女たちのお父様のことを世界で一番愛しい人だと思わない日も、今までに一度もないのよ」
ああ、お父様が立ち直ったけれど、喜びすぎて涙が出かかっている。
お母様はそんなお父様を無視して食事を再開した。
「もっとも今では、貴方たちだって私の世界で一番大切な人ですけどね」
お母様は、あまりはっきりとお父様へ愛情を表現しないけれど、お父様のことが大好きなのだろう。ああ、これではユリウス様は入り込めない。
自分のことではないのに、その頃のユリウス様の気持ちを考えると切なくなった。