前編
あの人が今の私と同い年だった時、父や母と変わらない大人に見えていた。頑張れば追いつける。八つ離れていたって、私が十五になったら、十六になったら、十七になったら。私はあの人に釣り合う女性になれる。
けれど十八になった今でもあの人は私を子供扱いして、優しい言葉ばかりをくれて甘やかす。
私が追いつこうとしてもあの人は待ってくれない。
「またユリウス様のところに行っていたんですか」
屋敷に帰って早々に、生意気な弟は私を小馬鹿にするように鼻で笑った。五つ下の弟は、昔は確かに可愛かったはずだ。
「こりませんね。まったく相手にされていないのに」
「……お父様に言いつけるわよ、フィリップ」
「なんて?弟が意地悪をするんですーって?いいですよ。甘ったれの姉上らしいじゃないですか」
いつからこんなに可愛げがなくなってしまったのだろう。生まれた時は天使だと思っていたのに。
今では顎をあげて私を見下すようにしている。
「…っ、うるさい!」
「屋敷だからと言ってそうして声を荒げますか?淑女にあるまじき行為ですね」
「かわいくない!」
「それはどうも。姉上にも同じ言葉をお返ししますよ」
私の身長にもうじき追いつく弟は、厭味ったらしい笑みを浮かべてからさっさと自分の部屋へ引っ込んでいった。まさかわざわざ私に嫌味を言うために出て来たのだろうか。だとしたら、本当に可愛くない。
足音と立てて階段を上っていると、お母様がすれ違いざまにお行儀が悪いわよと注意をよこしてくる。いつも通り微妙に投げやりな口調だったけれど、眉間に皺が寄っていた。
これはもしかしなくても、お父様と喧嘩をしたに違いない。私を注意したお母様自身、いつもより足音をたてていた。
自室に戻る前に、試しにお父様の部屋の前を通ると、やはり、少し開いた扉の向こうに溜息をつくお父様がいた。
今の時期のように、長期休みに私とフィリップが帰ってくるとお父様とお母様は大抵二、三日間喧嘩をしている。内容はなんとなくわかっていて、この年になって私とフィリップは将来のパートナーが決まっていない。ローデリック公爵家に生まれたからには、結婚しないわけにはいかないのに。同じ公爵家のメイシー家の息子二人も、私より一つ下と二つ下なのに決まっているし、親戚のアルウィック家の子たちもフィリップより年下の子でさえ相手が決まっている。
お父様はまだ早いと言っていて、お母様はいい加減に決めなければと言う。
私自身はなんとも言えない。親の決めた相手より自分の好きな人と一緒になりたい。だけど、公爵家の娘として嫁ぎ遅れるわけにもいかない。
「お父様…」
ノックをしてから、開いた扉の間からお父様にお辞儀をすると、入って来るようにと言われた。
「今日も出かけていたんだね、メルヴィナ」
「はい。イアンおじ様とアヴィお兄様にお勉強を教えてもらっていました」
あえて、研究所に行く一番の目的だった人の名前はふせる。
「お母様と、何かあったのですか?」
「ああ…いや…、メルは鋭いな。なんてことはない。お母様は昔から、お父様の気持ちをきちんと聞いてくれないところがある。…お母様のことを悪く言うのではないよ」
「わかっています」
きっと今回の喧嘩も、言い合っている最中、お母様はお父様に一切反論させる隙を与えなかったのだろう。お父様はお母様がいないところでしか言い訳ができない。お母様が怖いから。
スウェイン家のおばあ様もそうだから、遺伝なのだと思う。
「だけどお母様はお父様を愛しています」
お父様は目を瞬かせてから、恥ずかしそうに笑う。
「そんなことを娘に言われると照れてしまうね」
「お父様とお母様がもう喧嘩をしなくて済むなら、メルはどなたとの縁談もうけるつもりですよ」
「それはお父様が許さないよ」
お父様は急に俯いて、拳をぎゅっと握った。
もしかしてお父様。私が、自身で選んだ人と一緒になれるように考えてくださっているのだろうか。だけど私は公爵令嬢で、お母様の言うことも一理あって、揺れている?
なんて優しいお父様。
***
「僕の方は決まったらしいですが」
夕食後、弟の部屋で昼間お父様とした会話を伝えると、弟は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
お父様は私のことを考えてくださって、悩んでいるのよ。と言えば、弟は私がイアンおじ様の研究所へ行っている間に決まった縁談を伝えられたらしい。
「隣国の姫君らしいです。三人目らしいですから、僕がこの家を継ぐ方向で変わりはないありませんが、相手は不満なのではないですかね」
「不満?貴方がかわいくないから?」
「姫君にも関わらず自国から出なければならないからですよ。姉上はどこまでも失礼な人ですね」
机に向かう弟は、私の方を見ずに邪魔です、と言う。それを無視する。
「男親は娘に甘いものですからね。父上は姉上を手放すのが惜しいんですよ。相手がどんなに良い人でも、父親というのは穏やかに思えないそうですよ。スウェインのおじい様を見ればわかります」
「そうなの?お父様とおじい様は仲がいいわ」
「女性は気づかないんですかね。母上も気づいていないようですが。父上はかなり嫌われていますよ。父上が公爵家の人間だから、おじい様はあまり表に出さないようにしていますが」
そういうものか。でも確かに、お父様はおじい様に気を使ってばかりいる。
「僕は母上の言い分の方がわかりますよ」
「ええ?どうして?」
「自己満足のために娘の将来の問題を先延ばしにして、結局売れ残ったらどうするんですか?さっさとおさまるところにおさまらなければ、両親とも安心できませんよ」
「まあ……そうだけど……」
部屋の扉がノックされる。弟がどうぞと言うと、お母様が入って来た。
「メル、ユリィ様が忘れ物を届けに来てくださったわよ。フィルも、ご挨拶をしにいらっしゃい」
***
「ユリウス様…!」
弟を先に行かせ、念入りに身だしなみを整えてから客間に向かう。ユリウス様はお父様とお母様を向かい合って話しながら、弟の頭をぐりぐりと撫でまわしていた。
お父様も凛々しい男性らしい顔立ちだけれど、ユリウス様は凛々しさの中に儚さもあって、うっかり見とれてしまう。
私に気づいたユリウス様はにこりと微笑んで手招きをしてくれる。弟とは反対の隣に座ると、弟にしたのと同じように私の頭も撫でられた。せっかく髪も整えたのに。嬉しいけれど、子ども扱いをされているのもわかって複雑な気分になる。
「昼ぶりだなメル。ほら、大事なものを忘れていたぞ」
研究所に口実として持って行っていた教材を渡してくれたユリウス様は、さっきまでの大人っぽい笑みとはかわり、子供みたいに歯を見せて笑う。
「そそっかしい子だな。お前のお母様やお父様にそっくりだ」
「あら、父親に似たんです。私はそそっかしくなんてありません」
「いいや、間違いなく母親に似たね」
夕食の時も険悪だったお父様とお母様は、今は憎まれ口をたたきながら笑いあっている。きっとユリウス様が仲直りさせてくれたのだろう。
「あの…っ、ユリウス様?明日も研究所へ行っていいですか?」
「明日か?俺はかまわないが…明日はイアンが留守にするから俺とアヴィしかいないぞ。レイスも顔を出すと言っていたが…」
私が会いに行っているのはイアンおじ様ではないのでいっこうに問題がない。むしろ、おじ様は私の気持ちを知っているから、ユリウス様と私が一緒にいるとき際どい発言をしてきて気が気ではない。
それでもいいです、と首を縦にふると、ユリウス様は私の髪をすきながらクスクス笑った。
「メルは勉強熱心だな」
「どこがですか。下心ばかりですよ」
呟く弟を睨んで黙らせる。
「そんなに勉強が好きなら、お母様に教わればいい。勉強が得意だからね」
お父様が余計なことを言う。それでは意味がないんです。
「教えるのは苦手ですから。私より、ユリィ様の方がお勉強はできますし、ね?お邪魔でなければもうしばらくうちの子をお願いしてもいいですか?ユリィ様」
お母様の素敵な提案が私をうきうきさせる。
全寮制の学校に通う身では、長期休みでなければなかなか研究所で働くユリウス様には会えない。薬剤師を職にするユリウス様は時々学校へ薬を届けに来るけれど、それも数えるほど。
私にとっての救いは、研究所に女性が一切いないことくらいだ。
「メルがそれでいいなら、な」
「それでいいどころか大喜びです!」
お父様の持っているティーカップにヒビが入って、紅茶がこぼれていく。お母様はお父様の肩をドンと叩きながら、侍女にタオルを持ってくるように命じている。
「これさえなければ父上は……」
弟が嘆くように溜息をついた。