聖女
「……すみません」
「い、いや別に」
廃墟から外に出る途中、フェアは真っ赤な顔でエノクに謝っていた。これに対して謝られるエノクの顔も赤い。
「その、なんだか興奮してしまって」
「うん」
フェアはさきほどエノクに抱きついてしまったことを詫びているのだ。
「それにしても、エノクさんが未来から来たと言うのは本当なんですか?」
一通り謝ったところでフェアは話題を変えた。あまり長くこの話をしていると恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだったし、エノクにききたいことは多かった。
「たぶん、そうだと思う」
この問いに対してエノクは歯切れが悪い。まだ彼の中でも整理しきれていないのだ。
「天使と悪魔の戦いの伝説。それがわたしたちのことだとすると間違いないですね」
エノク自身は半信半疑だったが、フェアは信じているようだった。その表情に疑いの色は一切ない。それがエノクには不思議だった。
「それで、エノクさん。その伝説の結末はどうなるのですか」
「ごめん。俺もそこまでは詳しくないんだ」
「そうですか……」
「……」
エノクは伝説の詳しい内容を隠していた。伝説に興味がなく不勉強なエノクなので詳しくないのは本当のことなのだが、それでも知っていることは多い。
しかし、それをフェアに話してしまって良いものかどうかエノクは迷っていたのだ。なにせ伝説の結末は天使たち、つまりフェアたちの全滅。いくらその後に悪魔は倒されたと言っても、当事者にきかせるにはあまりにショックの大きい話だろう。
「あ、エノクさん。もうすぐ出口ですよ」
一時沈んだ表情をみせていたフェアだが、廃墟の出口がみえてきたことでその顔を綻ばせた。
「ようやく外か。急ごう」
「あ。エノクさん、待ってください」
エノクはこれ幸いにと足を速め、話を終わりにすることにした。あまり長く話しているとボロが出そうだったからだ。
「ここが元は孤児院だったのか……」
「はい」
外に出たエノクは振り返って廃墟をみる。
フェアの話ではこの廃墟はかつて孤児院であったらしい。今では見る影もなく崩れ、かろうじて建物であったことが分かる程度。さきほどまで二人がいた場所は孤児院ないに併設された礼拝堂であった。
――孤児院……か。
今では訪れる者も殆どいなくなった孤児院を見上げ、物思いに耽るエノク。なぜならエノクもかつては孤児院で暮らしていたからだ。それゆえ色々と思うところもある。
「エノクさん?」
「あ、あぁ。ごめん。いこうか」
フェアに呼ばれ、エノクは考えるのをやめて歩き出した。二人はこのままフェアの住んでいる村に向かうことになっている。孤児院も村の一部に入るのだが、かなり外れの方に位置するためそれなりに歩くことになる。
「すみません。本当ならわたしがエノクさんを御泊めさせてさしあげたいんですど……」
「良いって、女の子一人のところに泊まるわけにもいかないし」
「すみません……」
二人が村へ向かう理由はフェアが家に帰るためで、エノクが泊まるところを探すためだ。
「わたしたち聖女はそれぞれの教会に住むのが決まりで、普段は神父様やシスターの方々と一緒に生活しているんですけど。戦いが激しくなってきて、他の方には遠くに避難してもらったので」
フェアはエノクに自分のところに泊まるように言ったのだが、フェアが現在一人暮らしだと知ってエノクが辞退したのだ。
「そう言えばきいてなかったけど、その聖女ってなに?」
「へっ?」
そうきいたエノクに、フェアはさも意外そうな表情を返した。
「あっ、そう言えば村の外の方には分かりませんよね」
だがすぐに納得したのか、その表情を笑顔に変える。
「聖女と言うのは、村の教会にある聖霊の鐘に選ばれた乙女のことです」
「聖霊の、鐘?」
「はい。これは現物をみてもらわないと説明しづらいですけど、とても綺麗で神聖な鐘なんですよ」
「ふ~ん。それは、ちょっと見てみたいな」
「はい、ぜひ!」
エノクが聖霊の鐘に興味を示したことをフェアは喜んだ。フェアにとって聖霊の鐘とは、そんなふうに喜べるほど身近な存在なのだ。
「聖女は鐘の神聖な力を借り受けて村を守るのがお役目なんです。祈りの天使も聖女を介して聖霊の鐘の力を使っているので、聖女しかなれないんですよ」
「なるほど、それで聖女で天使なんだな」
エノクは納得し、同時に祈りの天使に変身したときのフェアの姿を思い出す。
――なるほど、あれは確かに神聖って感じするもんな。
「わたしたちの村は小さいですけど、そのぶん皆さんとてもあたたかい人たちなんですよ」
村へ向かって歩く間、フェアはとても楽しそうに村の良いところをエノクに話してきかせた。その様子からは村と村人への深い愛情がうかがえる。
「それに、きゃっ⁉」
そんなふうに夢中で話していたものだから、フェアは村の方から歩いて来た通行人にぶつかってしまった。
「イタッ。こら、気おつけろ」
「す、すみません」
ぶつかった拍子に転んでしまったフェアを、足をとめぬまま通行人が怒鳴りつける。
目深に被ったマントのせいでその表情は分からなかったが、通行人の左目の下に泣きボクロがあるのをエノクは目にした。
「大丈夫か、フェア」
「は、はい。大丈夫です」
エノクがフェアに手を貸す間も通行人はとまらず。足早にその場を去っていった。
「なんなんだ、ありゃ」
「きっと、なにかお急ぎの事情がおありなんですよ」
「急ぎっつっても礼儀ってもんが……って、フェア。怪我してんじゃねえか!」
「え?」
転んだときに石ででも切ったのか、フェアの頬から血の雫が滴っていた。
「本当。でも、こんなの大したことありませんよ」
言われてはじめて怪我をしてのに気づいたフェア。しかし、彼女は祈りの天使としての役目がら生傷が絶えない。だから本当に大したことはないと思っていたのだが、
「バカ野郎、女の子なんだからもっと気をつけろよな。あとが残ったらどうすんだ」
「あっ」
エノクの言葉に、フェアの心臓は大きく跳ねる。
――また……。
彼女はその小さな両の手を胸へと伸ばした。
フェアは常に悪魔との戦いに身を置いている。だから大きな怪我をすれば当然周りの皆も心配してくれる。だがそれは命の心配であって、こんな小さな怪我で心配されることはまずない。
だからフェアは嬉しかったのだ。命に関わるものでもなんでもない小さな怪我を、まるで普通の女の子のように心配してもらえたことが。
「あった。ほら、これでもはっとけ」
「ひゃっ」
荷物を開け、なにやらガサゴソやっていたエノクがフェアの頬になにかをはりつける。
「なんですか、これ?」
「絆創膏だ。俺が生まれた時代じゃ怪我したときはこれをはってばい菌入んないようにすんだ。本当は消毒もした方が良いんだけど、消毒液も水もないしな」
「そうなんですか。ありがとうございますエノクさん。大切にしますね」
「いや、別に大切にするようなもんじゃねぇけど」
頬にはられた絆創膏に優しく触れるフェアをみて、エノクはなんだか恥ずかしく
なってしまう。
「ほ、ほら。そろそろいこうぜ」
「はいっ!」
だからエノクは赤くなった顔をフェアに見られないよう早足で歩き出した。
フェアの暮らす村は農村だった。
村は荒野の真っ只中にある開拓地で、けして豊かな土地ではない。それでも村人たちが畑を耕し、家を建て、少しずつ大きくしてきた。
「酷いな……」
しかしそんな村人たちの苦労は、その一部が無残にも破壊されてしまっていた。
「……わたしたちと悪魔との戦いに巻き込まれてしまったんです」
倒壊した家屋。抉られた大地。それらは平和な世に育ったエノクに戦いの激しさと悲惨さ、そして恐ろしさを伝えていた。
戦闘の跡が色濃く残る場所をすぎると、村は比較的綺麗な状態だった。これもフェアが祈りの天使として頑張っている成果なのだろう。
「なんか、腹へってきたな」
「じゃあ、そろそろお昼にしましょう。ちょうどいい時間ですし」
だから村にはまだ活気があった。農村なので村の面積の殆どは畑だが、今エノクたちがいる場所には小さな出店が幾つか立ち並び。その中には食べ物を売っている店もあった。
「でも、俺金なんて持ってないぜ?」
フェアの提案は魅力的だったが、未来から過去に飛ばされて来たエノクにはこの時代のお金がない。買いたくても買えない状況だった。
「大丈夫ですよ。わたしが買いますから」
フェアは小さく微笑んでそう言うと、修道服のポケットへ手を伸ばす。
「いや、さすがに悪いって」
「なに言ってるんですか。さっきはエノクさんに助けてもらったんですからこれくらい……。あれ? あれあれ?」
しかしフェアの微笑みは不意に消えてしまい、ヒマワリのように明るかった顔に戸惑いの表情が浮かぶ。
「どうした?」
「それが、お財布がないんです。確かにここに入れておいたのに」
「なんだって……。あっ、さてはあのときの!」
財布の紛失をきかされたエノクの頭に、ピンッとひらめくものがあった。
「きっとさっきのマントのやつだ。あの野郎スリだったのか」
頭にきたエノクは時間が経っているのもかまわず、走り出そうとする。
「ま、待ってください」
そのエノクをフェアが腕を掴んでとめた。
「なんでだっ! あいつはお前に怪我させただけじゃなくて財布まで盗んだんだぞ」
「きっとなにか事情があったんですよ。それに、お金も少ししか入っていませんでしたし」
「でもなぁ……」
「良いんです」
ほがらかに微笑みながらも、フェアは掴んだ腕を放そうとしない。エノクが諦めるまで放す気がないのは明らかだ。
「……はぁ。分かった」
頑ななフェアにエノクの方が折れる。まだ不満はあったが、盗まれたフェアではなくエノクが怒るというのも筋違いのように思えたからだ。
「しっかし、良く許せるなぁ」
「だって、この世に本当に悪い人なんかいません。誰だって色々な事情を抱えて、それでも必死に生きているんです。ほんの少し、迷ってしまうことだってあります」
「そんなもんかねぇ」
エノクにはフェアのこの考え方は分からなかった。
「ノエル・ノイマン。ノノちゃんはわたしと同じ聖女で、とても頭の良い女の子なんです」
お金がなく途方にくれた二人は、フェアの友人で同じ聖女を勤める一人の女の子の家を目指していた。
「聖女って、フェアだけじゃなかったのか」
「はい、わたしの他にもあと二人います。ノノちゃんはその一人で東の教会の聖女なんですよ」
フェアの説明によると、この村には四つの教会があり。それぞれに聖霊の鐘が置かれているらしい。
教会は村の四方を固めるような位置関係にあることから東・西・南・北の名前で呼ばれれ。フェアは北、これから会うノエルは東の教会にある聖霊の鐘に選ばれた聖女なのだ。
「聖女様、いつもありがとうございます」
「いいえ、わたしの方こそ」
「フェア様。がんばってください」
「はい。もちろんです」
道中、村人とすれ違うたびにフェアは声をかけられる。フェアもそのたびにほがらかな笑顔と言葉を返す。
そして、それが済むと村人は決まってエノクを不信そうな目で見てから去っていった。
「許してくださいエノクさん。村の外から人が来るのは珍しいので、皆さん悪気はないんです」
「良いよ、別に。それより凄い人気だなフェアは」
「こんな時代ですから。皆さんが期待してくださるぶん。わたしもがんばります!」
小さな拳を握り締めるフェア。力強さは皆無だが、その強い想いはしっかりとエノクに伝わってきた。
と、そこへ、
「ふざけんじゃねえよっ‼ なにががんばるだ。お前らがちゃんと守んねぇから、おれの家は潰れちまったんだぞ」
「そうだそうだっ。おれんちの畑もダメになっちまった」
「おれんとこもだ」
酒気を帯びた三人の男が文句を言ってきた。
「あ。すいません……」
握り締めらていたフェアの拳から力が抜ける。
「今度は、もっと上手く守りますから」
「当たり前だっ。なんのための聖女だっつうんだ」
「「そうだそうだっ」」
「お前らなぁっ‼」
この横暴な物言いに怒ったのはフェアではなくエノクだった。エノクはさきほどフェアと悪魔との戦いをまじかでみている。それだけに、フェアの苦労も知らずに勝手な物言いをする男たちが許せなかったのだ。
「エノクさんっ!」
エノクが振り上げそうになった拳を、フェアが掴んでとめる。
「フェアっ⁉」
「良いんです。わたしが至らなかったんですから」
「……ちっ」
男たちは一瞬エノクに目を向けた。だが結局彼が殴りかかってこないのと、フェアが言い返してこないので毒気を抜かれたか。乱暴に二人を押しのけて去っていく。
「ったく、悪魔と戦えるわけでもないくせに」
三人の姿が見えなくなった後、エノクは誰にともなく毒づく。
「しかたありまえん。あの人たちはさっきの壊れた家に住んでいた方たちなんです」
「あそこの……。でも、だからってあんな言い方はねぇだろう」
「良いんですよ。あの人たちも本当は良い人なんです。だから、今度はちゃんとあの人たちの大事なものを守ります。村の人たちは皆、わたしの大切な家族ですから」
花咲くような表情でそう言うフェア。その姿は彼女の立場や役職とは関係なしに天使のようで、エノクは直視していられなかった。
――すげぇなあ、こいつ。
きっと、フェアの見ている世界はエノクに見えているそれとは違うのだろう。
エノクの中で、フェアの見ている世界を見てみたいという思いが微かに頭をもたげる。しかし、
――俺にはとても無理だな。
「あ、見えてきました。あれがノエルちゃんのお家です」
幾らか歩いたところで、フェアが一軒の民家を指差して声を上げる。
「あれ? フェア、聖女は教会に住むって言ってなかったけ」
「はい。本当ならそうなんですけど。ノノちゃんはおじい様と二人暮らしで、そのおじい様がご病気なので看病のために自宅で生活しているんです」
「そっか、それは大変そうだな」
エノク自身には縁のない話なので想像するしかないが、大変だろうということだけは分かる。エノクがいた時代のような医療機器なんかがないこの時代ではなおさらだろう。
「ノノちゃん。開けますよ」
ノエルの家まで辿りつき、軽くノックをしたフェアがドアを開ける。
「こんにちは……って、ノノちゃん!」
「な、なんだこりゃ!」
ドアを開けた先に広がっていたのは、二人の予期しない光景だった。
「ああ、フェアリーさん。いらっしゃい……」
そこにはフェアと同じ修道服を着た一人の少女が座り込んでいた。
見事なシルバーブロンドのロングヘアはウェーブがかかっており、やけに小さい眼鏡が鼻の上に乗っている。
「こんな格好ですみません」
だが今彼女の美しい髪は見る影もなく汚れてしまっている。髪だけではない。膨らみのとぼしい胸もお腹も足も、それどころか部屋中が汚れてしまっている。
緑色のスライムのようなものによって。
「大丈夫ですか、ノノちゃん」
「あ、フェアリーさん。すべるから気をつけ……」
「きゃぁあっ」
ノエルの忠告は一足遅く。彼女を心配して助け起こそうと一歩を踏み出したフェアがスライムに足を取られ、滑った転ぶ。
「フェアっ!」
「ふぇえええ。ドロドロです~」
それでフェアもドロドロベトベトのスライムまみれになってしまう。幸い怪我はなさそうだが、スライムで滑って立ち上がれないらしい。
「まってろ、今いくからな」
みかねたエノクは、スライムを踏まないよう慎重に二人に近づく。
「ほら、手を」
「ありがとうございます。でも、エノクさんの手が汚れてしまいます」
なんとか近づいて手を伸ばすと、フェアはスライムで汚れてしまったことを気にして遠慮してしまう。
「うんなこと気にしねぇって。洗えば取れるだろうし」
そんなフェアの手をエノクは強引に掴むと、
「ノエルさん、だっけ? 君も」
開いている方の手をノエルへと伸ばしす。
「ありがとうございます」
ノエルは素直にその手をとると、産まれたての小鹿のように苦労して立ち上がった。フェアもそれに続く。
「よし」
二人とも怪我がないことを確認し、エノクが一息ついたときのことだった。
「ノノねぇ、遊びに来たぞ!」
元気な声とともに一人の女の子が飛び込んで来る。
「にゃっ!」
「うわぁあああ」
「「きゃあああ」」
女の子は走って来た勢いのままに飛び込んで来たものだから、当然のようにスライムで滑り、エノクたちにぶつかった。
ようやく立ち上がったところだった二人とエノクを巻き込んで。一塊になった四人はスライムの泥沼の中に沈んでいく。
「実は、研究中に失敗してしまいまして」
「またかよぅ、ノノねぇ」
「まあまあ、シルヴィーちゃん」
スライム地獄からなんとか脱出をはたし、四人は自身と服に付いたスライムをふき取っていた。脱出するまでにかなりの時間を取られ、時刻はすでに夕方だ。
「それはそうと、二人に紹介したい人がいるんです」
「紹介したい人と言うと、そちらの男性ですか?」
「うん? そういえばいたな」
二人が幾らかおちついたところで、フェアがエノクを紹介する。
「こちらの方はエノクさんといって、わたしのお友だちです」
エノクがタイムスリップして来たという話は伏せることになっている。これはフェアが例外であって、そうそう信じてもらえる話ではないからだ。
「どうも」
「はじめましてエノクさん。わたくしはノエル・ノイマン。ノエルとお呼びください」
シルバーブロンドの少女ノエルは、タレ目気味の目をほがらかに細め、
「おっす。おれはシルヴィア・グレイス。シルヴィアでいいぜ」
さきほど突っ込んで来た少女、シルヴィアは元気に挨拶する。二人りとも初めて会うエノクにも好意的だった。
「シルヴィーちゃんも聖女なんですよ」
「えっ、こんな子供が!」
フェアの言葉に、エノクは改めてシルヴィアをみつける。
「子供って言うはっ! おれはもう大人だ」
「「うっふふふ」」
フェアより小さいノエルより、さらに小さい背丈。左右でお団子状に結った赤髪。
緑色の瞳を燃やしてプンスカと怒る姿は子供にしかみえない。
「だって、もう十歳だもん」
「やっぱ子供じゃねえかっ!」
結局、ノエルの家でご飯をご馳走になろうという二人の目論みは達成されなかった。あのスライムのせいで、とてもではないが食事ができる状況じゃなくなったからだ。
「本当に手伝わなくて良いのか?」
「はい。ここはわたしとノノちゃんの二人で十分ですから」
部屋を片付ける手伝いを申し出たエノクを、フェアはやんわりと断わった。ノエルも彼女の隣で頷いている。
「エノクにぃ、はやくいこうぜ」
「分かった分かった。分かったから引っ張んなよ」
やけに元気なシルヴィアに引っ張られ、エノクはノエルの家を後にした。ノエルの家で食事を取ることができなくなったので、シルヴィアの家でお世話になることになったのだ。これには食事だけでなく、泊めてもらうこともふくまれている。
「うちの母ちゃんが作る料理はうまいんだぞ」
エノクを引っ張って急かしながら、シルヴィアは母親の自慢話をする。
「あ~あぁ、おれも久しぶりに家で寝たいな」
シルヴィアは幼くても聖女。なので村の習慣にしたがい、教会に住んでいる。教会の内情はフェアのところと同じなので、エノクはシルヴィアの実家、母親のところでお世話になる。
「母ちゃんはちょっとガサツで、怒るとすぐ拳骨が飛んで来るけど、とっても優しいんだぜ」
「…………」
母親の話をするシルヴィアはとても楽しそうだ。その話からも表情からも、母親への強い愛情と信頼とが溢れていた。
エノクはその横顔を見ながら自身の両親のことを思い出す。あれはまだエノクが孤児院に入る前、今のシルヴィアよりも幼かった頃の話だ。
顔も覚えていない両親。エノクは彼等から暴力を振るわれていた。虐待だ。
今となっては、なにがきっかけだったのかは分からない。エノクはその理由が分かるほど大きくはなかったし、はやい段階で孤児院に入ることになったからだ。
それでも両親に虐待された辛さと痛みは、その心身に刻まれてしまっている。
「ついたぜ。エノクにぃ」
そのうちに二人は目的の家に到着する。そこはシルヴィアが暮らす教会のまじかにある家だった。