花冠の天使
「天使さま、どうかわたしたちを御助けください。御守りください」
薄暗い廃墟の中。そこだけは窓から差し込む光で明るく照らし出された場所で、一人の少女がロザリオを握り締め、一心に祈りを捧げている。
少女を照らす光は、窓にはめ込まれた天使の描かれたステンドグラスを通り。彼女の姿を色とりどりに染めていた。
その様子はまるで花を散りばめたかのようで、絵画とみまごうほどだ。
――天使さま。戦いは激しくなるばかりで、このままではわたしたちは負けてしまうでしょう。どうか、御導きを。
少女の祈りは深い。ちょっとやそっとのことでは彼女の意識を現実に引き戻すことは出来ないだろう。
そう。例えば、
「へっ? きゃっ」
ステンドグラスを突き破って、人が落ちて来たりでもしない限り。
気が付いたとき、エノクは見知らぬ女の子を押し倒していた。
――な、なんだ。誰だこの子。
目の前の女の子は、短めの金髪に青い瞳。顔立ちは中性的だが、身にまとった修道服ごしにもしっかりと分かる胸の膨らみが、女性らしさを主張している。
「あっ。ご、ごめん‼」
急いで体を起こし女の子から離れるエノク。
――どうなってんだ?
エノクの意識は博物館で光に包まれたときに途切れてしまっていたので、そこから突然変わった目の前の状況に彼の思考は追いつかない。
「天使……さま……?」
それは女の子の方も同じようで、驚きに染まった瞳でエノクのことを見詰めている。
「天使? いや、そんなんじゃないよ。俺はエノク。エノク・ライツ。その、これは君をどうこうしようとか、そんなふうに思ってた訳じゃなくって」
エノクは女の子の言葉に答えながら必死に言い訳を重ねる。訳が分からず混乱していたし、痴漢などと間違われたらたまったものではないからだ。
「これは事故っていうか偶然っていうか……」
そうしながらエノクは周りに目を走らせる。それは周囲の反応を気にしての行為であったが、思いがけず彼の混乱をさらに深めるものとなった。
――どうなってんだ、ここはどう見ても博物館じゃねぇぞ。俺はいったいどうなっちまったんだ?
見知らぬ女の子に見知らぬ場所。エノクには分からないことだらけだった。
状況がつかめぬまま右往左往するエノクの視線がそれを捉えたのは偶然だった。エノク同様驚きが治まらない女の子の背後、瓦礫に隠れるようにして音もなく近づく影。
「危ないっ!」
「きゃっ⁉」
そいつは女の子に向かって何かを振り上げた。
振り上げられた何かが瓦礫の隙間から差し込む明かりでギラリと光ったのを目にして、エノクはとっさに女の子を突き飛ばした。
女の子が今の今まで座り込んでいた場所に深々と突き刺さったそれは、黒い鎌のような形をしていて、女の子の命を狙って振り下ろされた物であることは間違いない。
「次から次に何なんだよ、くそっ」
エノクは女の子をとっさに背中に庇い、襲撃者を睨みつけた。
「え」
しかし、彼はそこで在り得ないものを目にすることになる。
『グルルルルゥ』
女の子を襲った襲撃者。それは人ではなかった。もっと言えば、獣ですらない。それは人間の体にカマキリの胴体と鎌をくっ付けたような化け物であった。
『キッシャアアアア』
化け物はタールのような黒一色の体の中でそこだけは赤い目と口を見開いて、再び手の鎌を振り上げる。
「くっ、このまま死ねるかよ。うわあああああ」
鎌の威力はさきほど見ている。あれが当たれば自分の体など簡単に真っ二つになってしまうことが分かっていたので、エノクは思い切って化け物に飛び掛り、その腕を押さえて鎌が振り下ろされるのを阻害し、
「はやく、君は逃げて。俺が押えてるうちに」
女の子に逃げるよう促がした。
「はやくっ!」
化け物の力は強く、おまけに化け物に組み付いたときから酷い脱力感に襲われ、この僅かな時間でフルマラソンを走り終えたかのような疲労を感じる。
エノクが化け物を押さえ込んでいられる時間はあといくばくもなかった。
「いえ、わたしは大丈夫です」
「えぇっ」
女の子を逃がしそれから自分も逃げようと考えていたエノクは、背後からきこえてきた決然とした声に、一瞬化け物から意識が逸れてしまった。
『ギッシャアア』
「ぐわぁ」
化け物はその瞬間を見逃さず。力の緩んだエノクを振り払う。
「うぐ」
力任せに振り払われたエノクは瓦礫にぶつかり、一瞬息が詰まった。
「まずい」
しかし化け物が女の子の方に向かったのを見て、急いで身を起こす。だが、女の子の方へと目を向けたエノクはそこで再び動きを止めてしまった。
『大地に根ざす大輪の花の如く、無垢に可憐に咲き誇れ』
ロザリオを手に、祈りを捧げるように目を瞑った女の子。その体がロザリオの発する光に包み込まれているのを見てしまったがゆえに。
『ウリエル』
女の子がその言葉を発した瞬間。ロザリオから黄色いラインが幾重にも伸び、女の子に絡みつく。そして光がより強くなり、目視できなくなって目を瞑ったエノクが再びその瞳を開いたとき、女の子は美しい。あまりにも美しい鎧をまとっていた。
ラインの中心であるロザリオをが埋め込まれた胸部鎧。下半身を覆うスカート状の鎧。それらの繋ぎとなる黄色い下地。そして何よりも美しいのは半透明な乳白色の鎧の内側で舞う色とりどりな光の花びらと、その背から伸びて大きく広がる二対の翼。
頭上数センチのところに花冠を頂き。壊れたステンドグラスごしに差し込む光を後光のように背負ったその姿。
そう、それはまるで、
「なんだ……君が、天使じゃないか」
「石光弾」
女の子が叫ぶと、鎧と共に出現していた四つの水晶球が黄色く輝いて怪物目掛けて飛んでいく。
『グギャ!』
水晶球はそのまま怪物に次々と命中。その体を吹き飛ばすと、再び女の子の周囲に舞い戻った。
「大丈夫ですかっ! えっ、と。エノク、さん?」
女の子は怪物がすぐには立ち上がってこれないことを確認すると、エノクの元へと舞い降りた。女の子の羽ばたきに合わせ、エノクの周囲に羽と花びらが舞う。
「あ、ああ。俺は大丈夫。それより君は、君は一体……」
「わたしですか? わたしはフェアリー・アンジェローブ。フェアと、お呼びください」
エノクの無事を確かめた女の子、フェアは、つぼみが開くように表情を綻ばせ、
「わたしは北の教会の聖女で、祈りの天使の御役目を任されている者です」
そう名乗った。
――聖女? それに天使だって。
にわかには信じがたい話であったが、今もエノクの目の前では彼女の広げる純白の翼が輝いている。
『グギャオオオオオオオ』
廃墟全体を振動させそうなほどの怒声が響き渡る。倒れていた怪物が起き上がったのだ。
「っ! エノクさんは逃げてください。あの悪魔はわたしが浄化します」
フェアは表情を引き締めなおすと翼をはためかせて宙に舞い、エノクを庇うようにして彼女が悪魔と呼んだ怪物と対峙する。
「お、おいっ。なに言ってんだお前も逃げろ」
「ダメです。悪魔を浄化するのがわたしの役目ですから」
振り返らずに発した彼女の声に、エノクは二の句が告げなくなった。その声にはそれほど強い決意と緊張が漲っていた。
「だから逃げてください」
「…………………分かった」
強い声に押され、エノクは起き上がって走り出す。それを確認し、フェアは彼の逃げ道を確保するため悪魔に攻撃を加える。
「いきますっ! 光花」
フェアの周囲を回っていた四つの水晶球。その中にある光で出来た花のつぼみから光線が放たれる。
四つの光線は間を空けず同時に発射され、悪魔を焼く。
『ギャオオオオ』
光線に焼かれた悪魔は苦悶の声を発する。これによって悪魔の意識は完全にフェアにッ向き、エノクの逃げ道を確保するというフェアの目的は達成された。
『シギャアアア』
しかしこの攻撃の悪魔へのダメージはそれほどでもないらしく、撃たれるのも構わず間合いを詰めて鎌を振るう。その動きはかなり素早く、フェアは避け切れなかった。
「光衣っ!」
なので彼女はとっさに新たな技を振るってその攻撃を防ぐ。これは水晶球の周囲に光の盾を作り出すもので、その光が衣のように広がってフェアを守った。
そしてフェアは水晶球が悪魔の攻撃を防いでいる隙に距離をとる。彼女は接近戦は苦手で、中距離での戦いを得意としているのだ。
「まだまだいきますっ」
自身の得意な間合いまで距離が開いたところで、フェアは再び攻撃を開始する。今度はさきほどの光線を一定の間隔を開けて連射した。
『グギャギャギャ』
悪魔はこの攻撃を嫌がり、鎌で光線から身を守る。
しかし、
――ダメ。わたしの攻撃じゃ浄化できない。
フェアのまとうウリエルは本来、防御と支援を得意とする祈りの天使。そのため、その攻撃は悪魔に致命傷を負わせるほどの威力を持っていなかった。
――あれを当てられれば。でも、あれは発動までに時間がかかるし。……どうしたら。
フェアには悪魔を倒せる攻撃方法があるにはある。しかしそれは酷く当て辛い技で、この悪魔を捉えるのは難しそうだった。
『グギャア』
「あ、きゃっ」
フェアが思考に気を取られた一瞬。撃たれ続けるのを嫌がった悪魔の振るった鎌が喉元を掠める。
幸いフェアが怪我を負うことはなかったが、悪魔が鎌を振り回し始めたので防御に転じるしかなかった。
『グギャギャギャギャギャギャギャギャッ』
これを好機とみたか、悪魔は防御の上から構わず鎌を振るい続ける。
「しまった。これは、まずい、です」
フェアの技は一回に一種類しか使えない。防御の光衣をつかっている間は石光弾や光花は使えないのだ。
しかもなお悪いことに、フェアの背後は壁になっていて距離を開けられない。横か上に逃げるしかないのだが、悪魔の攻撃がフェアの逃げ道を封じてしまっている。
非常にまずい状況だった。
「化け物め、こっちだっ‼」
そんなとき、一つの石つぶが飛んできて悪魔の頭にぶつかった。
『グウゥ?』
その一瞬。悪魔の気がフェアから逸れた。
「っ! 石光弾」
『グギャオオオ』
フェアはその一瞬を見逃さず。攻撃に転じて悪魔を引き離す。
「エノクさんっ、逃げてくださいって言ったじゃないですか」
石の飛んで来た方向に目を向けたフェアは驚きのあまり叫んでいた。さきほど逃がしたはずのエノクが戻って来ていたのだ。しかもその手には石が握られており、悪魔に石つぶをぶつけたのが彼であったことを物語っている。
フェアは翼を小さく羽ばたかせ、空中を滑るようにしてエノクと悪魔の間に回り込む。
『ギシャア』
その間、石光弾で得意な間合いから引き離された悪魔は、フェアの攻撃を警戒しながらまた接近戦に持ち込もうと様子を窺っていた。
その様子にさきほど石光弾をくらったときほどのダメージは見受けられない。
石光弾は光花に比べて威力が高く。フェアの得意な技の一つなのだが、さっきはたまたま当たりどころが良かっただけらしい。
「何か苦労してるみたいだったからな。ほっといて逃げらんねぇだろ? 協力するぜ」
エノクは石を握りしめて不敵に笑ってみせる。
「エノクさん……」
フェアにとってそんなエノクの姿は驚きだった。悪魔と遭遇した場合、大概の者は逃げる。当然だ。普通の人間では太刀打ちできないのだから。
エノクもそのことは肌で感じて分かっているはずだ。その証拠に体は震えているし、息遣いも荒い。恐怖を感じているのは明らかだ。
それでも逃げることをやめて戦うことを選び。なおかつ、協力を申し出る人間は彼がはじめてだった。
――なんでしょう、これ……。
だからだろうか? フェアの心臓が、戦いの緊張とは別の熱で激しく高鳴っているのは。
「どうすれば良い? フェア」
「えっ? あ、はいっ!」
その高鳴りはエノクがフェアに指示を仰いだとき、彼女を不覚にも動揺させてしまう。
『グギャアアアッ‼』
その動揺をチャンスとみたか、悪魔が突っ込んでくる。
「くっ」
「うわっとと」
二人は左右に分かれてその攻撃をかわす。
「エノクさんは悪魔の注意を惹きつけてください」
幾分状況に流された形になってしまったが、フェアはエノクの助力を受け入れた。それは恐怖を抑えてこの場に戻ったエノクに、心のどこかで期待してのことだろう。
「分かった」
彼が、自分を。自分たちを助けてくれる存在なのではないかと。
回避の動作から次の行動に移りながら二人は短く言葉を交わし、
「こっちだ悪魔っ」
エノクは手に持った石を投げつけながら廃墟の中を逃げ回り始めた。
『グワアアアア』
飛んでくる石に苛立った悪魔は、フェアより先にエノクを始末することにしたらしく。瓦礫を踏み砕いて彼を追いかけながら次々に鎌を繰り出す。
「うお、おおおっ」
エノクはその攻撃をすんでのところで掻い潜りながら、反撃とばかりに石をおみまいする。
『ギシャッ』
そんなもの当然悪魔には効かないのだが、
「いっけええええっ」
フェアが攻撃を加える隙を作るのには十分な効果があった。
「グギャガアアアアッ‼」
フェアの攻撃はさきほどと同じ石光弾。しかし、今度は悪魔の足の一本に集中して放たれたため、悪魔はその場に崩れ落ちてしまう。
「今ですっ」
悪魔はすぐに立ち上がって反撃に移ろうとする。しかし、そのときにはすでにフェアはとどめをさす準備を終えていた。
「光の十字架」
何時の間にか悪魔の周囲四ヶ所に配置された水晶球が光線を発する。その光線は悪魔を中心として交わり、水晶球を起点とする十字架を描き出した。
『ググゥ? ギャ、ギャギャギャアアア』
光線そのものに攻撃力はない。代わりに、この技は悪魔を石に変えるのだ。
光の十字架に捕らわれた悪魔は末端から石に変わり始め、徐々にその範囲が広がっていく。
『グ、ギャ……ギャ……』
そしてついに悪魔は完全に石像に変わってしまった。
「ふうぅ、助かった~」
悪魔が石像に変わるのを見届けると、エノクはその場に座り込む。緊張の糸が切れ、立っていられなくなったからだ。
悪魔に押され気味のフェアを見て、つい手を出してしまったはいいものの、その後はヒヤヒヤで生きた心地がしなかったのである。
「エノクさーん!」
「うわあぁ!」
緊張から解放されたエノクが弛緩しきったところで、不意打ちのようにフェアがその胸に飛び込んできた。美しい翼が広がり、辺りには羽と花びらが夢のように舞う。
「やっぱり……やっぱり、あなたは天使さまです」
「は、な、えぇ⁉」
興奮しているのか、僅かに潤んだ瞳をエノクに向けるフェア。その瞳と言葉が意味するところがなんなのか分からず、エノクは対処に困ってしまう。
――弱ったな。どうすりゃいいんだこれ?
エノクは恋人をつくったことがない。女友達がいる訳でもないので、こんなときどうすれば良いのか検討がつかない。
――しかし、天使と悪魔……か。まさか、まさかだよな。
フェアの心境は分からないエノクであったが、一つだけ分かったことがあった。
正確に言うなら分かったと言うより、思いつきやひらめきのようなもので。あまりに突拍子もない内容にエノク自身半信半疑なのだが。
――俺、もしかしてタイムスリップしちゃったのか?